第38話
…今考えると、父の思い出はほとんどない。母が死んでから相当時間が経つし、そもそも母が生きていた頃からあの人は忙しかった。
多分ブラック企業なんだろうなぁなんて、高校生の時は思っていた。2人になっても父親は、夜中までゲームをする俺に何か言うわけではなかった。その内、家に帰ってくることすらなくなったけど。
電車に揺られながら、そんなことを考える。おそらく彼女に聞かれるだろうと思っていたから。
「お父さん、どういう方なんですか?」
…やっぱり。俺は別に普通の人だよ、と返す。それじゃ分かりません、と彼女が怒ったので、ほとんど思い出がないのが思い出だという話をした。
「…へぇ〜、そういうご家庭もあるんですね」
彼女は本気で驚いていた。家族の形って、家族の数だけあるんだよという話をしているうちに、最寄り駅に着いた。
「うーん、まずこの荷物を置きに行きましょうか」
明らかに一日で飾り付けが終わらなそうな量の買い物をしてしまったので、袋は2人で分担して持っている。俺もそれがいいと思って、まず家に帰ることにした。
部屋に戻る。無機質に見えるこの部屋の家具は、俺の記憶が確かなら全部父が選んだものだ。白か黒かグレーで、不便でないもの。そんな判断基準だと聞いたような気がする。
母はこの部屋に越してきてすぐ入院をすることになったので、この家具達の存在も、ほとんど知らなかったと思う。
父も俺のように、家具に興味がなかったのかもしれない。おかげで俺好みの部屋になっているとは思うけど。
彼女は部屋の隅に荷物を置くと、ソファに座った。
「は〜、疲れた〜」
そうは思えないほど大きな声だ。俺も自分が持っていた荷物を置いて、ソファに座る。
彼女は大きく伸びをして、深くもたれる。
…あの子もこのくらい、この部屋でくつろいでいたな。すぐ靴下を脱ごうとするのを、何度か注意したのを覚えている。
彼女はまだそんなことはしない。というよりも、性格が違いすぎる。
「何時に出る?」
俺が聞くと、彼女はいつでも〜、と力ない声を出した。時計を見るとまだ15時過ぎで、夕食の買い出しなんてすぐ済んでしまうから、俺としてもいつでもいいと思った。
とりあえずはゆっくりしよう。だらだらと流れる時間を、それでいいと思おう。ベランダに出て、煙草に火をつける。残りが少ないので、買い出しのついでに買いに行くことにする。
煙草を吸っている時は、思い出しても思い出さなくてもどちらでもいい記憶が蘇りがちだ。
母が死んだ日のこと。
初めて父の泣いている姿を見て、それでも涙が出なかったこと。心の奥を爪楊枝で刺されるみたいな、痛みの伴わない刺激みたいなものを、思い出してしまう。
好きな感覚ではないけど、何にしろ。これは俺の人生で蓄積してきたものの一つだから。忘れてしまうよりは、覚えている方がいい。
その瞬間はどうでもいいと思えたことを、後になって気にしてしまうのは。やっぱり未熟さが原因だったりするのだろうか。感情の揺れ動きというのは、時に自分すらも分からなくなってしまう。
ぼーっとしている内に、火種は指先まで迫ってきていた。こういう事を、どこかで経験したような気がする。…いや、考えるだけ無駄だ。こんなこと、何度だってあったはずだし。
部屋に戻ると、彼女は寝てしまっていた。俺はタオルケットを掛けて、静かに待つことにした。
それにしてもよく寝ている。彼女の幸せそうな寝顔を眺めていると、何故だか俺まで幸せになってくる。
静かな時間の経過を感じる。外から聴こえる街の音ですら、ヒーリングミュージックのように心地良い。
…こんな日々が、ずっと続いたらなぁ。続かないと分かっているからこそ、そう思う。状況は常に変わり続けていて、一度として同じ日はない。当たり前のことだ。
「んん…」
彼女はたまに眉間に皺を寄せて、呻き声のようなものを漏らす。どんな夢を見ているんだろう。それがトラウマみたいなものなら、抱え続けて生きていくほかないけれど。その時があるから今があるんだと自信を持てるようになるまでは、こんな関係でも続けられればいいと思う。
俺が目指していたのは結局、自分の心の平穏だったのかもしれない。あの子の死に納得して、あの子の残していった繋がりを頼りに、あの子の空けた穴を埋めようとする。それが俺の行動原理だったのかもしれないと思う。
…まぁ、何にせよ。今生きている誰かを大事にしようと思えるだけ、いくらかマシなのかもしれない。それだってあの子を失ったトラウマがそうさせるのだから、やっぱり抱え続けて生きていくほかないのだ。
「…んぁ…おはようございます」
彼女は割と、寝覚めがいい方だ。今まで寝ていたことを感じさせないほどに、彼女はハキハキと喋る。
「何時間くらい寝てました?」
俺は30分くらいだよ、と告げる。彼女はそうですか、と言って伸びをした。
「じゃあ、行きますか!」
彼女は立ち上がって、玄関まで移動した。俺は財布と鍵を持って、彼女の後を追う。
階段を降りていくと、当たり前みたいにあの子が死んだ場所も見える。もう子供も遊ぶようになっていて、あの子の死そのものがなかったことになっていくような感覚がある。
ずっと気にするよりは、忘れてしまった方がいい。心から、そう思う。あの子に救われたり、あの子と過ごした記憶がない人にとっては、大勢いる他人のうちの一人が死んだという認識でしかないんだろうから。
「…あの子がどんどん消えていくなぁ、っていう感覚を、受け入れられるようになりましたね」
彼女も同じようなことを言った。何で俺はあの子が忘れられていくのが嫌だったんだろう。不思議なものだ。あの子をよく知る人だけが覚えていれば、それで充分なのに。
人の死が及ぼす影響の範囲は、そんなに広くない。それでいて、浅くもない。関わりがあればあるほど、その人を失ったという事実が心を埋めていく。それはあまり味わいたい感覚ではないからこそ、誰にも死んで欲しくないと思うものだ。
「あの子が残していってくれたものを、大事にしたいね」
俺が言うと、彼女は笑顔で返事をした。
彼女だって、あの子の知り合い。それだけが接点だった。今ではもう、失いたくないくらい大事になっていったけれど。
公園の横を通って、スーパーに向かう。いつも通り、何を作るかなんて全く決めていなかった。だけど、無駄にレパートリーは豊富だ。あの子は俺の作った料理を美味しそうに食べてくれたから。
これもあの子の残していったものだなぁなんて思いながら、縁石に登る彼女を注意した。
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