第36話
…気が付くと、もう空は明るかった。あのまま寝てしまったようだ。
日付は変わっていて、昨日のまま止まっているものなんて一つもなかった。
昨日の自分も、昨日の部屋も、置いて進んでいく。時間は停車駅のない電車みたいなもので、皆が皆、自分の座る席を探している。
座れた人、座れなかった人、床に座り込んでしまう人。いつ終わるかも分からない椅子取りゲーム。人生の正体なんて、そんなものなのかもしれない。大事なものであればあるほど、不平等に進んでいく。
俺はそれを最初から諦めて、足掻き藻掻いて自分の椅子を獲得しようとしている人達から目を逸らした。俺は俺だ。そんな言葉を言い訳にして。
いつの間にか、乗客はいなくなっていた。どうしたらいいか分からなくなっていた。席はガラガラで、座ろうと思えばいつでも座れた。
終点までこうして、ただ外の景色でも眺めながら、ずっと座っていようと思った。
そうしたら、向かいの席にあの子を見つけた。
あの子は俺と同じように、空虚な目をして佇んでいた。
だから俺は、話し掛けやすかった。あの子の目に光が戻る瞬間を、素直に嬉しいと思えた。
あの子は俺の隣に座って、話をしてくれるようになった。
最初から流れていたBGMみたいに、あの子の言葉はするすると俺の頭の中に入ってきた。車窓からは、穏やかな田園風景が見えた。
当たり前みたいにその日々は続くんだって、そう思っていた。俺とあの子しかいない車両の中で、終点まで揺られるんだって思っていた。
…そのうち、いつもと変わらない風景が寂しくなった。
理由は分からなかった。分からないまま、平然と過ごしていた。
そのうち警笛が鳴って、俺ははっと隣を見る。
あの子はいなかった。あの子のいた痕跡も、もうなかった。最初は、そんなものだと思った。いつかはこうなるし、それが少し早かっただけだと。
夜になっても、電車は止まってはくれなかった。
真っ暗なままでも、電車は進んでいく。
夜を越えられない。今までの人生なんかよりも、今日の夜が一番長いと思えた。俺は悲しかったんだ。後になって気付いた。当たり前にあるものなんて、この世に一つもないんだって。
それに気付いてからは、悲しみに暮れるだけだった。…分かち合えるような人を、作ってこなかったから。
あの子を見つけた時みたいに、向かいの席を眺めて。夜が明けないまま一生を終えるんだろうな。他人事みたいにそう思った。
隣の車両から、女子高生が乗り込んできた。しゃんとした子だった。彼女は俺の前まで来ると、あの子のことを聞いてきた。
俺はそこで、あの子が俺より上手に生きていたことを知った。俺がいかに、何も見ないように生きてきたのか、とか。
彼女は平然と俺の隣に座った。まっすぐ俺を見つめて、あの子との馴れ初めなんかの話をした。
俺は怯えて、へらへらと対応した。薄っぺらい自分を見透かされないように、敢えて薄っぺらい人間であろうと努めた。
それでも彼女は真剣だった。
それに釣られて、俺も真剣に話をするようになった。
彼女は自分を過小評価しがちだが、俺は彼女を立派だと思っている。
彼女のおかげで人の気配のある隣の車両に移動するようになって、久しぶりに高校の時の後輩と会った。
そいつは何も変わらず、昔のままでいた。髪の色も服の趣味も変わっていたけど、根の部分は変わっていなかった。
そして昔と同じように、俺に好きだと言った。俺は答えられず、俯いた。
彼女とあの子の残していったものを探すようになった。席の隙間とか、車両の端っことかを。
それから、自分の過去のことなんかも見つけられるようになった。嫌いだったものを好きになったり、見たくなかったものを見れるようになったり。
いつの間にか、空は明るくなっていた。
振り向いてみると、遠くに空洞が見えた。
電車は当たり前みたいに、色とりどりの風景を進んでいた。
…あぁ、そうか。あれは夜じゃなくて、トンネルだったのか。
俺は苦笑する。知ったつもりになっていたことや、被害者面をした過去の全てに。
電車は変わらず進んでいく。俺のいる車内は、相変わらず人は少ない。だけど間違いなく、この先は光だ。長いトンネルを抜けて、その先が雪国だったなんてことはないけど、トンネルの先は相変わらず、美しい世界が広がっている。
この先、真っ暗になってしまうこともあるだろう。何も見えなくなって、不安に思う時もあるだろう。でもきっと3人いれば、それを超えることができる。そう信じている。
日は沈み、そして昇る。その不変の事実が、俺に希望をくれるような気がする。燦然と輝く朝日を眺めながら、そんなことを思った。
「…さて、顔でも洗うか」
洗面所まで移動しようとした時、珍しく電話が鳴った。…知らない番号だ。俺は出てみることにして、通話ボタンを押した。
『薊、久しぶり』
聞き覚えのある、低い声だ。俺はすぐにそれが父だとわかった。
「久しぶり、どうしたの?急に」
お前も声が低くなったなぁ、という会話の後に、父は本題に入った。
『一日だけ、そっちに帰れることになってな。今日の夜はその部屋で過ごそうと思ってるんだ』
俺はそうなんだ、と返す。父が帰ってくるということに、特に何の感情も沸かなかった。嬉しいとも、嫌だとも思わない。
『料理くらいはできるようになったのか?』
聞かれて、簡単なものはね、と返す。すると父は嬉しそうに、手料理が食べたいと言ってきた。準備しておくよ、と返して通話を切る。
「…帰ってくるんだなぁ」
母が死んで、物が無くなった時とほとんど同じこの部屋を見て、父は何を思うだろう。まだ立ち直れていないように見えるだろうか。
…でも、それならそれでいいと思う。これが俺の生き方で、変わることのない根の部分だから。
昨日の買い物では夕食分の材料しか買わなかったので、2人分の料理をするには足りなかった。夕方にでも、買い物をした方が良さそうだ。
夜まで何をしようかな。そう考えていると、インターホンが鳴った。
「おはようございます!」
ドアを開けると、そこには珍しく私服の彼女がいた。
今日は学校ないの?と聞くと、学校の何かで休みだということだったので、部屋に入れる。
「今日、親父が帰ってくるんだよね」
コーヒーを出してすぐ、その話をした。…もしかしたら俺は少し、嬉しいのかもしれない。
彼女はいつも通りの笑顔で、よかったですねと言ってくれた。
夕方買い物に行くつもりだということを告げると、彼女も一緒に行くと言う。
「…じゃあ、どこか行こうか」
夕方まではどうせ暇なのだ。彼女もせっかく学校が休みなんだし、どこかに出かけたいだろうと思ってそう言うと、いつもよりも嬉しそうに了承してくれた。
…何だか最近、何も予定がない日がないなぁ。それを嬉しく思いながら、今日一日の予定を立て始めた。
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