第35話

家に着いた頃には、21時過ぎだった。相変わらず何もない、空っぽな部屋に見える。


電気を付ける。冷たい光が部屋全体を照らす。照明は暖色にした方がいいかもなぁなんて、どうでもいいことを考える。


何もない部屋だとは思っているが、困ったことは一度もない。何かが足りないとか、何かが無いとか、それを経験したことがない。


少し不自由なくらいが丁度いいのかもしれない。…この部屋も、人生も。


久しぶりに浴槽に浸かってみようと思って、お湯を溜めていく。そういえば、水で埋めるようなお風呂は見たことすらない。文明は進化していくんだなぁ。


お風呂が沸いた時のメロディを聞くのも久しぶりだ。余っていた入浴剤を入れてみると、お湯は乳白色に濁っていく。


あの子はお風呂に浸かりたい派だったので、俺は入りもしないお風呂を沸かしていた。…だから、あの子が死んでからは初めてのお風呂だ。入浴剤も、あの子が置いていったもの。


頭を洗いながら、また、あの子のことを考えていた。別にマイナスな意味じゃなく、感想とか、所感とか、そんなものだ。意味のない記号ではなく、そんな事もあったなぁ、という思い出。


その思い出に浸りながら、湯船に浸かる。

体の芯まで温まっていく感じがある。俺が普段お風呂を沸かさないのは、湯船に浸かったが最後出るのが億劫になるからだ。相当な覚悟がないと、ここから動くことができない。


「あぁぁぁぁ〜〜〜」


心労とか、そんなものが全部出ていってしまうような声が出る。

何も考えず、ただこの温みに身を委ねる。体が溶けていってしまうんじゃないかと思うくらい、全身の力が抜けている。


…やっぱり、出るのが面倒になってしまった。

俺は覚悟を決めて、湯船から出る。


お風呂を出てしばらく経っても、まだ体が温かい。

これが湯船の恩恵だろうか。髪の毛にドライヤーをかけながら、そんなことを考える。


キッチンの戸棚からチョコレートを取り出す。あの子が置いていったお菓子も、彼女がよく食べるので残り僅かになった。

ゲーミングチェアに腰掛けて、簡易的なデスクの上で開封する。


甘い匂いがする。一つ手に取って、口の中に放り込む。

チョコレートの甘さと、喉が熱くなるようなお酒の味。口いっぱいに広がるのは、そんな味だった。


これを美味しいと思う人もいるんだろうなぁ、と思う。初めて食べた時と全く同じ感想だ。俺はすぐにその味をコーヒーで流し込んでしまう。…でも、やっぱり好きなお菓子だ。これを食べている時のあの子の顔や、彼女の顔を思い出せるから。


2つ目を口に入れる。…好きですか?と、彼女にもあの子にも聞かれた。俺はやっぱり、好きじゃないと答えた。2人は全く同じ表情で応えてくれる。それを見て、笑う。


お約束というか、定番というか。そのやり取りが好きなので、このお菓子が美味しいかどうかなんて、どうだって良かった。


「…美味しくは、ないなぁ」


味の感想を呟く。自然に笑顔になる。

何となく幸せな気分で、チョコレートを食べ終えた。


また一つ、あの子がいた証を減らした。

それをいいと思えるかどうかは、その日の気分だったりするんだろうけど。今は、それでいいと思った。


ぬいぐるみも、ストラップも、布団も。俺が把握していないような小物まで、多分あの子はこの家に染み付いているんだろう。それを捨てようとは思わないし、自然に減るならそれで構わない。


そうやってあの子の残り香はどんどん減っていって、本当の意味で死んでいくんだろう。…というよりは、枯れていくんだろうな。


あの子を思い出すのは、井戸から水を汲むみたいなもので。または、実を落とした植物を眺めるようなもので。


今あるあの子の抜け殻を認識すればするだけ、豊かだった頃のことを思い出す。あの子の紡ぐ言葉も、あの子の発する音も、あの子の動く姿も、もう更新されていくことはないから。


人は死んだら神格化される。それは、嫌なことを忘れようとするから。その人と関わっていた直近の記憶が、覚えていられるくらい良かった記憶に刷り代わっていくから。


まだ刷り代わっていくには日が浅いけど、あの子といて良かったと思えることが多いのは、それが原因なんだと思う。

…例えば、あそこで座って笑うあの子とか。例えば、寝室で悪戯っぽく笑うあの子とか。


それがどんどん、桐野や彼女との記憶に塗り変わっていく。不思議と、嫌な気分じゃない。

二人で過ごした記憶も、三人で過ごした記憶もごちゃごちゃになっていって、四人で過ごしたような気がしてくる。


俺と、あの子と、彼女と、桐野で。本当にそんな世界線があればどれだけ良かっただろうなんて考える。意味のないことだと分かっていても、それを願わずにはいられない。


生きていれば…そんな現実もあったかもしれないのに。悲しいと言うよりは、勿体ないと思う。四人で笑い合えたらどれだけ幸せだっただろう。そう思うと、やっぱりあの子の死に納得できない部分がある。


何があって、それをどう考えて、そして死んでいったのか。やっぱり何度考えても分からなくて、あの子の抜け殻に話しかける。


「なんで君は、死んじゃったんだろうなぁ」


勿論返事はない、きっとあの子の死んだ時と同じ、何も映さない目で俺を見つめ返すだけだ。そこに意味はないと分かっているけど、それをやめられないでいる。いつか答えをくれるかもしれないと信じ続けているから。


また元の場所に戻して、ベランダに出る。

煙草を吸う。煙が立ち昇る。この煙は、あの子のいる場所まで届くだろうか。…いや、そんな訳ないか。


あの子はきっと、解放を求めてこの世に去ったんだ。だから消えてしまって、もうどこにもいないんだ。それがきっとあの子の望んだことだから。


跡形も無くなってしまった。これは多分、人に対して使う言葉じゃないけど。でも俺は、あの子がそうなっていれば…あの子の願いが、叶っていれば。それでいいと思っていければいい。


お墓に行って、あの子に話し掛けて、俺の残りの人生を全部、向こうにいるあの子に伝えたいというのは、俺のエゴだろう。あの子の幸せを願ったのなら、最期まであの子のやりたかったことを信じなきゃ。


…そうしなきゃいけない。そう思うと、不思議と涙が出る。あの子がもう、影も形もないと思うと。


やっぱり失ったものは大きいなぁなんて楽観的に捉えることで涙を止めようとする。だけど尽きることなく、涙は流れていく。


煙草の火を消して、部屋に戻る。…あの子のいた形跡なんて、もう殆ど残ってはいない。俺はあの子を失い続けるんだ。それを受け止めきれるまで、もう少しかかりそうだ。枕に顔を埋めて、涙が枯れるのを待った。

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