第34話
桐野を送り届けた後、俺と彼女は彼女の家に向かって歩き出した。
…なんだか、彼女は元気がない。俺はその理由を何となく聞けないまま、ただひたすら歩いていた。
「明日も、薊さんの部屋に行っていいですか?」
聞かれて、もちろんと答える。彼女は嬉しそうに…でもどこか、寂しそうに笑う。
俺はその笑顔に、何だかとても見覚えがあった。
『また来ていい?』
記憶がフラッシュバックする。
俺にとって頭が痛くなるほどに、嫌な記憶だ。
…そうか、あの時もう既に君は、それを決めていたのか。
あの子が俺の部屋に来た最後の日。俺はあの子に、また来なよって伝えたんだ。
何かの偶然だったのかもしれない。
もしくは、第六感みたいなものだったのかもしれない。
それがただの日常生活のやり取りだとは思えずに、ちゃんと返事をしたんだ。
その時あの子は、彼女みたいに笑っていた。
「明日も来て欲しいって思ってるよ、俺は」
彼女にそう伝える。
来てもいい、ではなく、来て欲しいと。
彼女はにっこり笑ってくれた。
「…また明日も、絶対行きます」
俺はその言葉を聞いて、胸のざわめきが遠のいて行くのを感じた。
彼女はあの子じゃない。そう思っても、やっぱりどこか似ているところはあって。
それは、あの子を失わなかったら気付かなかったことなのかもしれない。
顔色を伺いはしても、言葉にしない機微までは理解しなかった昔の俺では、また彼女を失っていたかもしれない。
そう思うと、やはり俺はどんどん俺ではなくなっているんだなと思う。悪い意味ではなく、かと言っていい意味とも限らないけど。
「明日と言わず、今日行ってもいいですか?」
俺が物思いに耽る間、彼女は何かを考えていたらしい。発せられる声はいつもとは違って、不安の色に染まっていた。
「…いいけど、明日学校でしょ?」
俺は言葉を選んで返事をする。間違えちゃダメだ。その意識だけが、俺の頭を埋めていた。
「そうですけど…でも、泊まりたくて」
彼女の真意は他にありそうだ。頭が回転する感覚。ぐるぐると、色んな可能性を考えていく。
「君がしたいようにしてくれたらいいんだけどさ」
俺は否定しないことを選んで、言葉を発する。あくまで選ばれる側として話を進めていく。
「…やっぱり、迷惑ですか?」
彼女はいつになく不安げだ。俺にはその理由がわからない。もどかしい。踏み込んだ質問がしたい。だけど、それを許されるような関係性かどうかに、自信が持てない。
「迷惑なんかじゃないよ!」
俺は強く否定する。彼女を受け入れたくない訳では無い。ただ、帰りたくない理由が知りたいだけだ。
「じゃあ……」
彼女は何かを言いかけて、そして口を噤んだ。
俺は次の言葉を待つ。
「…やっぱり、なんでもないです」
それっきり彼女は俯いて、ただ歩くだけになってしまう。…そういえば、いつもと違って彼女は俺の隣にいる。
それが何故だか、俺には分からない。気分なのかもしれないし、いつも先に行っている自覚はないのかもしれない。だけどその違和感を、俺は捨てきれずにいた。
「何かあるの?家に」
俺は覚悟を決めて、踏み込んだ質問をする。
「…何もないんです。私だけ」
彼女はぽつりぽつりと話し始める。自分の家のことを。
父親も母親も、兄も優秀な人物であるということ。劣等感に苛まれて人生を送ってきたということ。父や母や兄のようになりたいと頑張っても、そうはなれないのが辛いということ。
俺は話を聞きながら、自分の家庭のことを考えていた。
父と母が仲が良かったのかすらも、今となっては思い出せない。お見舞いには学校帰りに行っていたから、俺一人だったし。
だからはっきり言って、彼女の悩みは分からなかった。感覚を共有できるほど、家族のデータがないから。
「…いいと思うよ、君は君のままで」
ただ、俺の中ではもう、返事は決まっていた。その場しのぎの言葉ではなく、本心からの言葉で。
「君が君でいてくれたおかげで、今こうして隣を歩いてるんだから。どれだけ頑張っても、君は君以外にはなれないんだし」
言葉を選びながら、説明し続ける。彼女を元気づけるためではない。俺がどう思っているのかを伝えることが、一番大事なことだと思ったから。
「君が俺を訪ねてこなかったら、俺は今もあの子のことで頭がいっぱいだったと思う。被害者みたいな顔をして、この世の全てを呪いながら、後追いなんかをしていたのかもしれない」
…少し大袈裟だけど、その可能性は充分にあった。
「…君のおかげで、俺はこうして君のことを考えられる。君を失いたくないと思える。明日も来て欲しいって、心から言えるんだ」
言いたいことは、今ひとつまとまらない。そんなものなのかもしれない。本心というのはいつだって、理由なく強く執着している感情の集合体だから。
「だから…君は君でいいんだよ。少なくとも、俺にとっては」
彼女は俺の話を静かに聞いていた。俯いたまま、こくこくと頷きながら。
「…私、本当に、薊さんに出会えて良かったです」
彼女は俺の胸に顔を埋めて、それから泣き始めた。…初めて彼女が訪ねてきた日のことを思い出した。
あの時も彼女はこうして涙を流していた。ただ、あの時の涙と今の涙は、同じものじゃなかった。
俺はあの時、彼女の涙を見て消えたくなった。あの子のことを思って泣けなかった自分が、高校生の時から何も成長していないと思ったから。この先誰を失っても、涙なんて出ないんだろうと思ったから。
だけど今、彼女の涙を見て。俺は変われたんだと思った。
誰かのために涙を流せるほどではなくても、誰かを思って言葉を使えるようになったんだと。
それは間違いなく、俺を連れ出してくれた彼女のおかげで。そして俺と彼女が出会うきっかけを作ってくれた、あの子のおかげだ。
「…じゃあ、私はここなので。ありがとうございました」
彼女の家は俺の家から、割と距離がある。最近は毎日この距離を帰っていたんだなぁと思うと、少し申し訳なくなる。
明日も送るから、と言うと、彼女は嬉しそうに笑う。
「おやすみなさい。…また明日」
全力で手を振る彼女に、俺も全力で応じて。いつもより少し長い帰路を、自転車でも買おうかなぁなんて思いながら、気分よく辿った。
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