第29話

「…起きてください、ご飯ができたので」


彼女の声がして、目を開ける。


「おはようございます、ほら、立って立って」


掛け布団を剥がされる。目を擦って立ち上がる。輪郭がはっきりしないような気がする。意識がまだ明瞭じゃない。


彼女に手を引かれてダイニングに移動すると、トーストとベーコンエッグが用意されていた。…卵と食パンはともかく、ベーコンは家になかった気がする。


「買い物行く時に起こしてくれればよかったのに」


俺が言うと、桐野と彼女は顔を見合せた。


「すごく気持ちよさそうに寝てたので、起こすのも悪いと思って」


桐野の言葉に、彼女は頷いた。


寝ている間のことは記憶にないので、何となく気恥ずかしくなる。俺はそれ以上何も言わず、席に着いた。


いただきます、と3人で言って、朝食を食べる。

人の手料理を食べるのは、いつぶりだろう。自分で作るのとレシピは大差ないと思うが、いつも作る自分の料理よりも美味しく感じた。


朝食を食べ終えると、彼女は学校に行く準備を始めた。


彼女を見送ると、桐野と2人きりになる。コーヒーを2人分淹れて、ダイニングテーブルに持っていく。


「桐野はこの後、何も用事ないの?」


桐野は俺の問いには答えなかった。


「そろそろ、まつりって呼んでくれてもいいんじゃないですか?」


長く定着していた呼び名を変える時は、少なからず緊張するものだ。心の中で何度か反芻して、声に出す。


「まつり」


桐野は恥ずかしそうに笑う。俺も恥ずかしくなって俯く。


「…敬語やめたら?まつりも」


俺は意趣返しとばかりに、桐野に問いかける。


「それは…無理、です」


桐野は耳まで赤くなって俯いた。多分頭の中でシュミレーションして、それは自分にはできないと思ったんだろう。


「対等に話したいなぁ」


俺は何となく意地悪をしたくなる。桐野は言葉にならない呻き声を上げている。


そんな桐野を見ていると、名前を呼ぶことくらい簡単だなぁと思う。精神的に優位に立つと、余裕が出てくる。


「…薊」


ボソッと、桐野が呟く。…自分の名前なんて好きじゃないのに、何でか魅力的な響きに聞こえた。やっぱり自分の名前というのは自分にしかないもので、だからこそいいものなのかもしれない。


そういえば、自分の名前の由来をいつだったか聞いたことがある気がする。花言葉に照らし合わせて、しっかりと自分の足で立てるように、みたいな意味だった。


品種改良を重ねられたわけではない雑草なのに、人の目を奪ってやまない薊の花のように。名声や誰かからの評価ではなく、自分らしく立てることが大事なんだと、酔っ払った父に言われた。


「な、なんか言ってくださいよ」


物思いに耽っていると、顔を真っ赤にした桐野が話しかけてきた。俺は現実に引き戻された。


俺は嬉しいよ、と返事をする。桐野は消え入りそうな声で、ならよかったですと言った。


「…そういえば、あの子ってどういう人だったんですか」


話題を変えようと、そんな話を振られた。

俺はそうだなぁ、とベランダを見る。


「あの子は…今思えば、浮世離れしてる子だったよ」


あの子を知ろうと思って、あの子の関係者と知り合って。その中であの子という人を知った俺が一言で言えば、あの子はそういう子だった。…もちろんいい意味でもあるし、悪い意味でもあるけど。


例えばあの子は、空っぽだった俺と知り合った。あの時期俺は悪い意味で浮世離れしていた。


例えばあの子は、真面目すぎる彼女と知り合った。彼女はいい意味で浮世離れしていた。


例えばあの子は、喫茶店の女性店主と知り合った。あの人は判断が難しいけれど、浮世離れしていた。


あの子の知り合った人は、みんな浮世離れしていた。社会に馴染めなかったという意味でもあり、誰もやろうとしないことをやろうとしているという意味でもあり、新しいことをやろうとしているという意味でもあるけど。


「…だからあの子は、知りあった皆にとって特別なんだ」


俺の言葉を桐野は反芻する。なるほど、と呟いて、会話が終わる。


浮世離れしていた俺達から見ても、あの子が一番浮世離れしていた。あの子の人生は、あそこで幕を閉じるのが正解だったのかもしれない。俺たちにとってではなく、あの子にとって。


「私は…薊にとって、特別ですか?」


桐野は、薊という呼び方を定着させようと頑張っている。

それが健気でとても可愛く思えた。


「こんな俺とずっと仲良くしてくれてるんだから、特別に決まってるだろ」


考えようによっては、俺にとって一番思い入れのある人物は桐野だ。それはあの子を大事に思う観点とは全く別だけど。


桐野はその言葉に、複雑な表情をした。…分かってる。桐野が求めてる言葉はそれじゃないこと。でも今は、覚悟ができていないから。


俺はそこから言葉数を増やすことなく、その会話を断ち切った。


あの子はもういない。それは残酷なほど理解していて、引き摺らないとは言わないまでも笑えるくらいには回復している。なのに、いつでも浮かぶのはあの子の顔で。


これは執着とか依存とか、とにかく恋愛とは違う感情なんだろう。だけどそれでもいいと肯定してしまうくらいには、俺はあの子のことを好きでいる。


俺の名前も知らずに死んでしまったあの子のことを、心のどこかで考えている。あの子に顔向けできるように生きるのが目標で、あの子に負けないくらい人を幸せにすることが理想で、この先の人生を、あの子と過ごしたいというのが願望だ。


子供みたいな無い物ねだり。でも人間は、自分に無いものを欲しがるものだから。俺はその願望をどこかで抱いていていいんだと思う。それが小さくなればなるほど、俺は幸せだと胸を張って言えるから。


「…絶対に、薊を解放してみせるから」


強い響きを持った呟きが聞こえる。桐野の目は真剣で、俺は涙が出そうになる。闇に射す一条の光、なんて被害妄想にも程があるけど。

それでもあの子に呑まれていく俺には、久しぶりに見えた気がする救いの手だった。


その手を掴む覚悟が出来ないのは、あの子に呑まれるのも悪くないと思っているからなのだろうか。自分への罰だと言い訳して、あの子のことしか考えなくていい人生を歩むことを、俺は望んでいるんだろうか。


答えは分からない。確かに目に見えるのに掴めない。それはまるで、コーヒーの湯気みたいだった。

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