第25話

シャワーを浴びたら、少しは頭がすっきりした。…どうかしてる。彼女に対して八つ当たりをするなんて。


シャンプーを泡立てながら、激しい後悔に襲われる。普段希望ばかり語っているのは、前を向けていない自分を励ますためだ。本当はずっとわかっている。俺が前を向けていないことを。


風呂から上がると彼女はリビングで待っていた。俺の目を見て、俺の言葉を待っていた。


俺は何も言えなかった。

沈黙が流れる。気まずい沈黙だ。


「…寝室、用意しとくから。風呂入りなよ」


それだけ言い残し、寝室の襖を閉める。

何を言ったらよかったんだろう。何か言ったら、いい方に転んだだろうか。


いいイメージが浮かばなくて、俺は何も言えなかった。そのまま寝てしまって、次の日起きると彼女はいなかった。


俺は布団を片付けて、窓を開ける。しとしとと雨が降っていた。

風向きのせいで、雨は部屋に吹き込んでくる。


俺は気にせず、窓を開けたままにする。雨粒が地面に当たる音がやけに響いて聞こえる。少しだけ部屋の湿度が増した。


重苦しい雲が空を埋めていて、雨はもう少し強くなりそうだった。傘をさした小学生が公園を抜けていく。


久しぶりに、俺は部屋で煙草を吸った。吐き出した煙は真っ直ぐ窓に向かっていって、そして消える。


ピンポーン。


チャイムが鳴る。俺は流し台で煙草の火を消して、それからドアを開ける。


そこにいたのは桐野だった。


「おはようございます、先輩」


彼女はいつもと変わらず、バイト上がりにすぐ俺の家に来たように見えた。


挨拶を返す力も追い返す力も残っていなかったので、桐野を部屋に上げる。


「…不幸面してますね、久しぶりに」


彼女は嬉しそうに笑う。それが何故なのか俺にはわからなくて、だけど不思議と嫌な気分ではなかった。


「先輩は今、とても責めて欲しいんでしょう。叱って欲しいんでしょう。私にもすごく分かりますよ、その気持ちは」


ショルダーバックから取り出したパックのりんごジュースを飲みながら、桐野は言う。


「だけど私は、そのどれもしてあげません。それをされて楽になるのは先輩だけですから」


俯いて、返事もせずに桐野の話を聞く。…分かっていることだ、全部。


「…先輩は可愛いですね。そうやってすぐに絶望したみたいな顔して、しばらくしたら立ち直って、そしてまた絶望する。失敗から学ぶ姿勢がないとかじゃなくて、全てのことを一回ずつ失敗するタイプというか」


要領が悪いって言いたいんだろう。何とでも言え。俺はぼんやりと濡れたフローリングを眺めた。


「こう見えて私は、空気を読むのが得意なんです。先輩と同じように人の目を気にして生きていましたし、先輩と違って要領が良かったので」


真意の掴めない発言。俺はちらりと桐野の方を向く。桐野は嬉しそうに笑った。


「ねぇ、私と生きませんか。私なら先輩を幸せにできますよ」


桐野の目は笑っていなかった。こいつはこんなことを、本気で言っている。


「私、奪われてばっかりじゃないですか。私が一番先輩と一緒にいたのに。私が一番先輩を見てきたのに。知らない女子高生に奪われて、囚われた先輩を見る私の気持ちが分かりますか?」


…正直言って、分かるわけもなかった。そもそも分かろうとも思えなかった。


桐野は俺に執着している。それは恋や愛の下位互換で、拗らせてしまった歪な感情だ。


「…ねぇ、私を見てください。愛してください。私はもう、壊れてしまいそうなんです」


雨は強さを増して、フローリングはますますびしょ濡れになる。


「何で…私じゃダメなんですか」


そう言った瞬間、桐野の目から涙が零れた。

それは止むことなく溢れていて、桐野はそれでも泣くまいとして歯を食いしばった。


「…ごめん」


二度目だ。昨日から二度目の謝罪。

俺は何度こうして、人の想いを踏みにじっていくんだろう。それを考えるとまた不幸面をしてしまう気がして、何か他のことを考えようと思った。


桐野と出会ったのは、高校二年生の頃だった。特に理由もなく入った囲碁将棋部は、昔からあるというだけで存続を許されている緩い部活で。だから何の目標もない俺達にとってはありがたい場所だった。


4月になって新入生の部活動見学が始まったが、俺達は特に勧誘をする訳でもなく、ただゲームをやったり本を読んだりして時間を潰していた。青春と書かれた紙を丸めて捨てるような、そんな時間だった。


そこに1人で見学にやってきた女の子がいた。俺は一応挨拶をして、部活の紹介をした。その子は特に興味を示したようでもなく、ただ話を聞いて帰っていった。


次の日、その子は入学届けを持って現れた。これからよろしくお願いします。その言葉で、その子との変な関係性は始まった。


新入生歓迎会と称したただの放課後の遊びで、俺たちはゲームセンターに行った。一応その子に好きなゲームを聞くと、俺の好きな格闘ゲームだった。対戦を申し込むと快く受けてくれた。


結果から言うと、俺の全勝だった。相当やり込んだという自信があったし、当然と言えば当然だったけど。


その子は相当悔しがって、その日は結局ずーっとそのゲームに張り付いていた。


次の日、部活の時間に、その子はゲームのことについて聞いてきた。どういうキャラにどういう弱点があるのかみたいな話を、延々と議論した。


そしてまた次の日、その子と2人でゲームセンターに行くことになった。その日も、俺の全勝だった。


…という繰り返しで、俺と桐野は仲良くなった。俺としては、異性という意識はあまりなかった。だけどあの子と出会って3ヶ月経ったくらいの頃に、桐野は俺に告白してきた。俺はそれを、唯一の友人だったあの子に相談した。


あの子は驚いたような顔をして、受けてあげたらいいじゃんと笑った。俺は本気で受けようか悩んだ。


…そしてあの子が死んでからも、桐野はまだ俺を好きだと言ってくれた。

依存や執着に変わってしまった意識が本人にあるのかは分からないが、桐野は今も泣いている。


「…ごめん、ってなんですか」


ぼろぼろと、止めどなく彼女は涙を流す。俺は深く息を吐き出して、それから言った。


「桐野の気持ちには、応えられない」

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