第22話

それにしてもあの子は、色んな人と関わりがあるなぁ。自分の好きな人の匂いみたいなものを感じ取るのがすごく上手いのかもしれない。


帰り道、そんなことを思った。俺にはない、あの子のいい所だ。

思えばあの子はたくさんの人と関わって、たくさんの考え方に触れて、あの子という人格を形成していったんだな。自分で考えて、勝手に失敗して、自信を失っていった俺とは真逆だ。…だからこそ、あの子のことを好きになったんだろうな。


あの子が残していってくれたものは、俺があの子にしてあげられたことよりもきっと大きい。話をしてあげられなかったことだって、俺は未だに悔いている。


後悔というのは、それより大きな感情によって上書きされるものではない。ずっと心の影の部分にいて、事あるごとに自分を刺してくるものだ。


何か失敗をしたり、行き詰まったりする度に、嫌な記憶が蘇る。鮮明に蘇って、俺にこう言う。『何も変わっちゃいない』と。


それは俺が抱えていかなければいけないことで、それから逃れる術なんて存在しないことをちゃんと理解している。

俺が後悔しないためには、後悔を糧にして前に進まなきゃいけない。


言い聞かせるように、何度も何度も唱えて帰る。


今日もあの子に救われた。きっとこの先も、あの子に救われることは多いんだろうと思う。元を辿れば常にあの子がいて、あの子が運んできてくれたものに、笑顔にさせられたりするんだろう。


工場の横を抜ける。この工場は何を製造しているんだろう。知らないことばかりだ。…もう少し、この街を歩いてみるのもいいかもしれない。


大通りを歩いてみる。ここからは俺の住んでいるマンションも見える。他にも見えているマンションと比べると、だいぶ古い。そんなこともわからないくらい、自分の家を気にしたことがなかったんだなぁ。


行き交う人々は休日ということもあって、家族連れが多い。皆幸せそうに笑っている。俺もこうなれればいいなぁと、素直に思えた。


暫く歩くと、もう隣の駅の方が近いくらいまで歩いてきてしまった。…はっきり言って、俺の住む街より田舎だった。


一軒家の方が多くて、マンションというよりはアパートの数が多いような場所だ。駅から遠いこの辺りは、結構寂れた雰囲気がある。


コンビニもあまりなくて、自販機の方が多いくらいのエリアだ。


そういえばこの辺りは、桜が有名なんだと聞いたことがある。興味もなくて行ったこともなかったけど。

川沿いに敷かれた道を覆うように満開の桜が咲くんだと、あの子が言っていた。


俺はその川に行ってみることにした。今は桜の時期じゃないことは分かっていたけれど、あの子も見たであろう風景を見てみたくて。


大通りには商店街があって、そこしか買い物をする場所がないのか、ものすごく賑わっていた。こういう場所は俺の住んでいる街にはないので、少し羨ましいとも思う。


そこから暫く歩くと、川が見えてきた。広い河川敷の向こう側に、桜の木が並んでいる。…春になったら、あれに全部桜が咲くのか。凄い光景だろうな。


下まで降りてみると、橋の方に人影があった。…男性だろうか。ギターを弾いていて、あまり大きな声を出さず歌の練習をしているようだった。


俺は少し近寄って、歌を聴いてみる。

葛藤、みたいな歌だ。夢破れて、それでもそれを諦めたくないかっこ悪い自分がいる、みたいな。


現実と夢というのは、いつだって対義語として語られがちだ。

現実にあるものにしかなりたいとは思わないのに。


俺の夢は曖昧で、ぼんやりしている。とにかく幸せになって、それを人に分け与えたい、みたいな願望だ。明確に見えるようにならない限り、夢は叶わないような気もする。青天の霹靂みたいな奇跡を願うだけじゃ、一歩たりとも進めやしないから。


歌い終わった男性に拍手をする。俺より少し上くらいだろうか、いつだって中心人物だったみたいな見た目だ。


「ありがとうございます!」


男性は笑顔で、俺の拍手に応えてくれた。

ギターを仕舞うと駆け寄ってきて、ここら辺の人ですか?と話しかけられる。


「いえ、一つ隣の駅の方に住んでるんです」


男性は何でここに?というような顔をした。


「…ここは、大事な人が話してくれた景色があって。もう二度と一緒には見れないから、せめてどんな場所なのかでも見てみたくて」


俺が言うと、男性は桜並木を見る。


「あぁ、あれですか。…失礼ですけど、その大事な人っていうのは…」


俺は素直に、亡くなりましたと答える。男性は気まずそうに俯いてしまったので、気にしなくていいですよと伝える。


「ここの桜は、昔からずっと綺麗だったんです。だけど毎年、想像を超えるくらい綺麗に見える」


俺の記憶力が悪いだけかもしれないですけど、と男性は笑う。確かに、毎年咲いているはずなのに飽きはこない。


「…だから、俺もそんな曲を書きたくて。何度聴いたって色褪せることなく、心に刺さるような」


夢に向かって努力をしている人の目だ。


「来年の春もまた来るといいですよ、すっごい綺麗なので!」


そう言い残して、男性はギターを持って帰っていった。俺は葉も落ち始めた桜の木を暫く眺める。


今はただ、何本も木が並んでいるようにしか見えない。だけど花が咲いて実物を目にすると、息を飲むくらい美しく見える。淡いピンク色の花が、そっくりそのままその儚さを写し取ったみたいに見えるのに、その姿は荘厳で、自然の神秘みたいなものを感じる。


そんな桜の儚くも力強い咲き方は、まるであの子の人生みたいだ。


俺は踵を返し、自分の街に帰る。時刻はもう夕方だった。来た道を引き返す中でも、すれ違う人や車の数はだいぶ違っている。


家の近くまで来て、公園に立ち寄る。この公園に来るのももう何度目になるんだろう。数えたこともないくらい当たり前にあるものだったが、知らない街に触れると妙に懐かしく感じる。ここが当然のように存在しているのがありがたいんだということを、今日は学ぶことができた。


「おかえりなさい」


ドアの前に彼女がいて、俺はびっくりした。今日二度目の登場だ。なぜか制服で。


「…どうかした?」


俺が言うと、彼女は嬉しそうに笑う。


「私もあの子と同じように、ここに通ってみようと思って!」


全く分からない思考回路だ。けれど説得は無駄だというのも何となくわかっていたので、俺は部屋に上げる。


彼女は俺より先を歩く。いつもそうだ。それに疑問を抱いたことはないけど、それがあの子と彼女の違いでもあった。


あの子はいつも俺を先に立たせる。俺の行きたい場所についてきて、俺のやりたいことをやらせる。俺はそういうのが苦手だと何度も話したが、上手くはぐらかされてそれが変わることはなかった。


「…あの子と君は違うんだよ」


俺の言葉に、彼女はわかっていますと答えた。


「あの子と君は比べようがない。比べようにもあの子はいないし。だけど、俺だってずっとあの子のことを考えているわけじゃない」


彼女は俺の言葉に違和感を感じたのか、振り向いて話を聞いた。


「…別に、あの子の真似なんかしなくたっていいんだよ。あの子と君では全く違うし、それがちゃんと魅力なんだから」


言い慣れていない言葉。俺は言葉を選んだつもりだったが、もしかしたら間違っていたかもしれない。


「…わかってますよ、薊さん」


彼女は笑って、話し始めた。


「私はあの子の真似をしているつもりはありません。あの子の気持ちを味わってみようとも、思ってません。ただ私が学校終わりにこの家に来る感触を味わってみたかった。それじゃダメですか?」


…強い決意を感じて、それ以上は何も言わなかった。彼女はもう、前を向けているのかもしれない。

あの子が残してくれた世界ではなく、自分の生きる世界として。俺がこの世を生きていけるようになるには、まだもう少し時間が必要だと思い知らされた。

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