第16話

取り残された俺は、部屋のドアを開ける。

電気をつけて、靴を脱ぐ。

上着をハンガーにかけて、昨日と同じようにシャワーを浴び、服を着替えてゲーミングチェアに腰かける。


一人でいるには広い家だなぁ。漠然と、そんなことを思う。

昨日は桐野がいたからだろうか。人がいる状況を経験してしまうと、一人でいる時間がどうにも寂しくなってしまう。…それを味わうのが嫌だから、今まで人との関わりを避けてきたのかもしれない。


あの子の死を一番感じる瞬間も、夜家に帰ってくるこの時間だった。いつもあの子がいた空間を、ぼんやり眺めたりしながら。


「なんで君は死んじゃったんだろうなぁ」


毎日日課のように、あの子が置いていったぬいぐるみに話しかける。当然ぬいぐるみの目は光を灯していなくて、答えはない。


…こんなことを思うから、よく覚えてもいない、でも釈然としない夢を見るんだろうな。

なんとなく、あの子の夢だとはわかっていた。あの子が何を言ったかとか、俺があの子にどう声を掛けたとかは、一つも覚えていないけれど。


今でも、あの子の残り香を探してしまう。この部屋で、またはベランダで、そしてその下の公園で。

それを気持ち悪いと認めつつ、一つでもあの子の痕跡を見つけたいという思いは消えることなく燻っている。


乗り越えるには、まだ掛かりそうだよ。


母に、そしてあの子に、そう伝えたくて仕方がなかった。


電気を消したあとの静まり返った部屋は、やっぱり俺を寂しくさせた。


…あぁ、またこの感覚だ。

ゆっくりと降っていく。


俺は何となく、あの子を探す。どうせどこかにはいるはずだ。俺の夢なんだから。


あの子はしばらく、空を見上げていた。初めて会った時と同じ空っぽの目で。


俺はそれを呆然と眺めていた。もう変わることのない、劣化も成長もしない、俺の知っているあの子の顔だ。

あの子と目線が同じになっても、俺はそのままゆっくりと落ちていく。地面は雲みたいに透けていく。


…なんで、声を掛けなかったんだろう。

ぼんやりとそんなことを考えながら、ひたすらに落ちていく。


次に見えたのは、よく見慣れた俺の住む街だった。見慣れ過ぎてしまっていて、何の感動もない場所だ。

あの子はその片隅で、一人本を読んでいた。…遠くて、何を読んでいるかはわからなかった。

隣に置いてあるチョコレート菓子を食べながら、ぺらぺらとページをめくっていた。


俺は口を開こうとして、それからやめた。

あの子は知らない男と手を繋いで、その場を離れていった。…誰、だったんだろう。


やはりその街も、俺は通り抜けていく。地面が足をつくのを拒むように。


その次もまた、見慣れた景色だった。

ベッドが並んでいて、窓が空いている。そこから柔らかな風が吹き込んで、カーテンを揺らしている。

…母のいた病院だ。


母は一番窓際の病床で、扉が開くのを待っていた。

その先には、俺がいた。笑顔を作って、母に心配をかけまいとした俺がいた。


親子の対面にも、どうやら同行はできないみたいだ。

見えなくなる最後まで、俺は母を眺めていた。


…確かに、生きていた頃の母だ。よく笑い、よく泣いて、よく注意されていた母だ。俺はその姿が見れただけでも、もう充分だと思えるほど幸せだった。


生きていたんだよ。母さん。生きていたんだ。何の意味もないセリフが、頭を巡った。

昔の自分が、母に何かを言う。母はそれを聞いて、嬉しそうに笑う。貰い物の果物やジュースは、ほとんど俺が貰って帰ったんだっけ。


思い出は尽きることがない。忘れないように、心のどこか大事な場所にしまって、意味もなく鍵をかけて。


そして何が大事な時にでも…何もない日常のひとときにでも鍵を開けて、それを思い出そうと思う。

母が生きた証を、母が生きた証である俺が大事に抱いておくことが、母にできることの一つだから。


次の景色は、また病院だった。

おそらく母と同じ病院の、どこか違う病室だった。

そこは一人用で、広いスペースが確保されていた。


そこにいたのは、少女だった。

パジャマのような服で、窓の外を見つめている。サイドデスクにはチョコレート菓子が乗っている。


その子の表情は見えない。髪型も、見慣れない。だけど何となく、あの子だとわかった。

…地面は、透けなかった。確かに足が地面について、歩くことも出来る。


俺はゆっくりとその子に近付いて、顔を見ようとする。

向こうはこちらに気付いていないようで、まだ窓の外を見つめていた。


あの子だ。絶対に。

証拠はないけど、確証があるから。


一歩ずつ近付いていく。声を掛けようと口を開く。


言いたいことは沢山あるんだ。いい友達がいたんだね、とか。おばあちゃんにも会ってきたんだ、とか。全員が君を、ちゃんと愛して。君は確かに生きたんだ。沢山の人に、沢山のものを残して、立派に生きたんだ。だから俺は、俺達は、君に囚われている。なんで君は、死んじゃったんだ。止めどなく、あの子と話したいことが頭の中を巡っていく。


今ではそんな言葉の宛先も消えてしまった。だから全部、ここに置いていきたかった。


最初に、どう声を掛けよう。久しぶり?こんにちは?そんなありきたりな会話をするのも、悪くはないような気がする。

でももっと、何というか感動的な、そんな言葉をかけようと思った。上手くできるわけもなくて、例えばの言葉すらも浮かばないけど。

じゃあ君にどう声をかけて、何の話をするのが正解なんだろう。…いや、知っている。人間関係には正解なんてないことを。


だったら、俺なりの言葉で。俺が今一番、君に話したいことを、まっすぐ伝えよう。…そうだ、名前を呼ぼう。生前一度も呼べなかった名前を。


「春歌…」


口にした時見えた景色は、見慣れた天井だった。

…何の夢を見たのかは、覚えていなかった。ただ何となく、あの子がまた夢に出たんだな、と思った。


俺は顔を洗おうと洗面所に移動する。鏡は否応なしに俺の顔を映す。

…相変わらず無愛想な顔だ。今日は特に無愛想に見えた。


何となく、時間を確認してみる。7時。約束の時間までは、まだまだ長い。

俺は身支度を整えて、家を出た。

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