第15話

「来てよかったですよね?先輩」


見透かしたような表情で、桐野は言った。

…そうかもしれない。人の死を想うことにだって、幸せな時はある。それを知れただけでも、今日来た意味は十分にあった。


「…ありがとうな、桐野」


俺は素直に礼を言う。すると桐野は目を丸くしたあと、顔を逸らした。…照れているんだろうか?

俺は深く追求せず、桐野について歩いていく。このまま帰るというわけではなく、この駅の周りの商店街で遊ぶという計画のようだ。


ここは思い出の街だ。俺にとって。

中学生まではここで過ごしていたから。だけど思い出というほど強く刻み込まれた記憶はない。…それが、俺が母の死を素直に悲しいと思えなかった理由なのかもしれない。


心にぽっかり穴が空いたみたいに、ほとんどこの街で過ごした記憶はない。でもこの風景には見覚えがあって、確かにこの街で過ごしたんだという実感はある。それだけ何も考えずに過ごしてきたんだろうな。


「先輩は多分、この街詳しいんですよね?」


聞かれても困る。ざっくりと店のジャンルなどは知っていても、実際どういう雰囲気で、何が美味しくて、みたいなことはひとつも分からない。多少はね、と苦笑いで返すのが精々だった。


「…まぁ、大体何も知らないのは分かってますよ。初めて会った時先輩の顔、死んでましたもん」


それはお前もだろ。そう返すと、お互い気まずい空気になってしまった。

実際桐野と初めて会った時、俺と似たような目をしていたのを覚えている。過ぎ行く日々に無関心で、ただ時が流れているのを見届けているだけの目。あの時の俺たちは日々を過ごしていたというよりも、見過ごしていたように思う。


「じゃあ、ここからリスタートしましょう。先輩の地元で、素敵な思い出を作る。いい提案だと思いませんか?」


お互い過去を振り返っても良いことなんて少ないんだし。そう付け加えて、桐野は歩き出す。

…そうか。記憶が無かったら、新しく刻んでいけばいい。

俺があの街でそうしたのと、同じことをすればいい。


桐野を追いかける。

全ての店に入るくらいの気概で、桐野ははしゃぎ回っている。俺も時折宥めながら、一緒にはしゃぎ回る。


美味しい洋食屋に、魅力的な古書店。元気な店主の立つ八百屋に、職人気質の無口な店主が営むスポーツ用品店。

時が止まったように寂れてしまったこの街は、それでも人々の生に満ちていた。

いつも通りの日常を送ろうと努力する人々で溢れていた。


「…いい街だったんだな、ここは」


商店街を抜ける頃には、そんなことを口走っていた。

桐野は嬉しそうに笑う。


「過去なんて脚色されるか風化するかの二択なんです。大事なのは今ですよ、先輩」


桐野は桐野なりに、俺を励まそうとしてくれていたらしい。

過去を清算するのだって、生きているうちしかできない。前を向こうとするから、過去が重くのしかかってくる。


そうだ。俺は今日も生きていた。


「…そうかもなぁ」


脚色されるか、風化するか。どちらでもなく記憶に留めている風景があれば、それは多分幸せの証明だ。…桐野も俺のように、過去を呪っているのだろう。俺には精算する場を与えるくせに、自分はそうしないのは何故なんだろう。


そしてもし、精算できるとしたら。

そこに同行できるのは、誰なんだろう。


帰り道、そんなことを思った。桐野が誰と一緒にいても、別にどうということはないはずなのに。

俺は恩返しだと言い訳して、思考を放棄する。


隣に座る桐野は、今日のことを嬉しそうに話している。

食べたものや見たものや手に取ったもののことを。

俺よりも、あの街を気に入ってくれたようだ。それが素直に嬉しくて、自然に笑顔になる。…幸せって、こんな日常の一コマなのかもしれない。


最寄り駅に着いて、帰り道を辿っていく。記憶がなくなっても帰れるんじゃないかと思うほど歩き慣れた道だ。


いつもと違うのは、隣に桐野がいること。

そして俺が下を向いていないということだ。


「今日は楽しかったですね!」


俺は頷く。本当に楽しかった。


「けど、あれでよかったのか?なんか付き合わせたみたいで申し訳ないんだけど」


桐野は満面の笑みで言った。


「いいんです、先輩が元気になったから」


俺は何故か、その顔を直視できなかった。

体温とか、心拍数が上がるような感覚が体を襲ってきた。

それでも平静を装って、ならいいけど、と返す。


「…いつまで着いてくるんだ?」


そういえば、桐野の家は逆方向のはずだった。


「先輩の部屋に忘れ物しちゃって…」


こいつ、また泊まる気じゃないだろうな。俺が身構えると、桐野は慌てて否定する。


「明日もバイトだし、今日はホントに帰りますって!」


…ならいいか。

そういえば、コーヒーが切れていた。


「コンビニ寄っていい?」


桐野に聞くと、どうぞ!と返ってきたので2人でコンビニに入る。

桐野は俺たちより少し歳上に見える店員に彼氏連れ?とからかわれていた。


コンビニを出て、煙草に火をつける。

灰皿が置いてあるコンビニも減ったよなぁ。桐野とそんな話をする。


お互い煙草を一本ずつ吸う。吸っている間はほとんど喋らずに、自分の吐き出した煙を眺めた。


「先輩ってほんと、美味しそうに煙草吸いますよね」


吸い終わってから言われる。

美味しいと言うよりは、あの煙を見ている間は落ち着くに近いかな、と返す。


「…あ、言うの忘れてた」


桐野は立ち止まって言う。


「今度おすすめ教えてくださいね!」


…そんなに、このやり取りが面白いのかなぁ。そう思いながら、今度な、と返す。桐野は満足そうにまた歩き出した。


階段を昇っていく。桐野と並んで昇るには、やや狭い階段だ。

6階まで毎回階段を使うが、毎回息切れを起こす。これも全部煙草のせいだ。日頃の運動不足の責任を煙草に丸投げして、息を整える。


「…え、あれ?」


俺の部屋の前には、彼女が立っていた。

彼女は俺に気付くとこんばんは!と声をかけてきた。


「あぁ、こんばんは…?どうしたの、急に」


彼女は俺の問いには答えずに、後ろにいた桐野を見て、なるほど、と言った。


「薊さん、明日9時に駅で会いましょう。待ってますから」


俺の返事を聞かず、彼女は走り去ってしまった。

…なんだったんだ?

桐野は彼女が走り去っていった方向を見て、同じようになるほど、と言った。俺だけが何も分からないらしかった。


「…先輩、また今度」


そして、彼女と同じように桐野も走り去っていった。


「あれ…?忘れ物は…?」


そう呟く俺に答えてくれる声はなかった。

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