第10話

…違う。

俺の頭に最初に浮かんだ言葉はそれだった。あの子のことを想う自分がおかしいんじゃないか。そんな疑念を抱いてしまった時と同じくらい、はっきりとそう思った。


それは多分、勘違いだ。吊り橋効果とかみたいな、一瞬の幻想だ。

例えばあの子が死んでいなくて、俺の家に君も遊びに来たとして、抱くことのなかった感情だ。


だけどその感情を否定することは、俺にはできなかった。

彼女の中で、それが拠り所ならばそれでよかった。

あの子の死を乗り越えて、その時にまた考え直してくれればいい。そう思った。


「…嬉しいよ、そう言ってくれて」


俺はあからさまに目を背けた。

…あの子の死を乗り越えられていないのは、俺も同じだ。どこかで彼女を拠り所にしていたし、同じ境遇に置かれている意識があった。


だけどその感情を引き摺っても、誰も笑顔にはなれないと思った。直感とか、なんとなくではなく。

例えば桐野と付き合ったとして、そうしたら多分それなりに幸せだろう。

共通の趣味があって、話もよく合う。

…お互い譲れない所があるのも似ているから、少し苦労はあるだろうけど。


でもそれさえ乗り越えたら、お互いそれなりにいい人生だったと思って生きていけるだろう。


だけど彼女は。

きっとあの子が憧れた誰か、というフィルターで俺を見ている。それがたまたま俺だったというだけで、それ以上でも以下でもない。


何より、彼女との繋がりはあの子が残したものだ。会う度に、あの子を思い出すだろう。

俺は彼女をあの子のようには見れない。だけど彼女は、俺をあの子のように見ようとしている。

その差は永遠に埋まらないだろうし、その差で起こるトラブルもあるだろう。


…見えてこないんだ。彼女との、幸せな未来なんて。

だから俺は、目を逸らした。それにきっと彼女も気付いている。


気付いているからこそ、俺にそう伝えたのだろう。…多分、拒絶してもらいたくて。


人は割と適当な生き物だ。喉元を過ぎれば、熱さも忘れる。だから時が経って思い返せば、何であの時はああだったのかな、と笑い話にもできる。


それはその時の自分が一生懸命やったことですらそうだ。あのやり方はなかったよなぁなんて笑えるのは、より経験を重ねた自分だからだ。


だから、時が経てばこんな感情はきっと忘れられる。それに賭けて、俺にそれを伝えたのだろう。


じゃあそこまで分かっていて、何故俺は拒絶できなかったんだろう。

本心からあの子が好きだし、あの子と彼女どちらかを選べと言われたら、間違いなくあの子を選べる自信がある。


なのに、俺は拒絶できなかった。

適当な言い訳を並べて、拒絶するでも肯定するでもなく、目を背けた。


それが何故なのか、俺には分からなかった。分からないことが苦痛で仕方なかった。


「…あ、次降りますよ」


彼女に言われて、席を立つ。吊革を掴むと、彼女は当然のように隣に立った。色々と言いたいことはあった。だけど、何も言わない。

今はあの子のことを考える。そう自分に言い聞かせて、開いたドアの向こうへと進んでいく。


降り立った駅は地方の住宅地、という感じの、これから発展することのないように見える古い街だった。


集合住宅よりも一戸建ての家が多くて、基本的に建物が低い。そんな街だ。


「ここにあの子はいるんですよね?」


彼女は俺のスマホを覗き込みながら聞いてきた。


「うん、多分ね」


そう返して、改札を出る。

ここからバスに乗って、30分ほど行ったところが、あの子の眠る霊園だ。

あの子はどんな顔で眠っているんだろう。笑っているだろうか。泣いているだろうか。それとも、俺は見た事のない表情をしているんだろうか。


…まぁ、分からなくてもいい。世の中なんて分かることと分からないこと以外は全部分からなくていいことだ。今は分からなくてもいいというカテゴリーに入れておこう。

あの子が何を思って息絶えたか分かるまでは、あの子の表情なんて分からない方が自然なんだから。


バスは進んでいく。

交通量も信号も少ない道を、すいすいと進んでいく。

何度か乗ってくる乗客も、高齢の方ばかりだ。だからかなんとなく、のんびりとした雰囲気だった。


降り立ったバス停は、森の手前だった。この森の先に、あの子の眠る霊園はある。


「行きましょうか、あの子の所へ」


彼女が歩き出すのに合わせて、俺も歩き出す。

大丈夫。あの子に会える。

一歩一歩を、確かに踏みしめる。

ついにあの子に会える。

前を向く。森の中を切り開いたみたいな道を、俺達は歩いていく。


この道の先には、何が広がってる?あの子が眠る場所ということを差し引いて、あの子が見た景色が見たい。

追憶。追体験。そういうものを、味わってみたい。できればあの子と同じ感想を。更に言えばあの子と同じ感動を。


何か新しいことをする時、不安よりも楽しみが勝つことは少ない。

それはどんなものなのかと言うよりも、上手くできるかを気にしてしまうからだ。大人になればなるほど、それは強くなる。


だけど今は、なんとなくだけど出来る気がしている。

なんとなく、君に会える気はしている。

いや、していたんだけど。


あの子のことを考えようとすればするほど、彼女の顔がちらつく。

それに気が付かないようにすればするほど、彼女のことで頭がいっぱいになる。


桐野を拒絶できたように、彼女も拒絶できると思っていた。だけど、そうではないらしい。

それが何故か。俺は気付きたくなかった。多分彼女に対して思ったのと同じ理由だから。


彼女は俺と似たような境遇だというだけ。俺と同じ人を追い続けているだけ。そう、ただそれだけ。


いつの間にか森は抜けていた。

その先に、霊園はなかった。


「…え?あれ、何で?」


俺が焦り出すと、彼女は俺のマップを覗き込んだ。

彼女がマップを実写にすると、ここは霊園近くの公園だった。


「座標がズレてたみたいですね。バグでしょうか?」


彼女は公園に立ち入る。…この間と違って、今日はお洒落だ。

ベンチに座って、髪の毛を耳にかけて。女性は結構この動作をするよなぁなんて、どうでもいいことを考えた。


「ちょっと休んでいきましょうよ、ここで」


そうしようか。

そう返事をして、ベンチに座る。

目の前には、枯れ始めた芝生が広がっている。


寂れた公園。木製の遊具は所々朽ちていて、触るのも危なそうだ。

流石にここには何もないだろうが、あの子の見た景色かもしれないし、目には焼き付けておこう。


俺は遊具に近付いて、手触りを確かめた。

ここ最近は雨もなかったはずなのに、何故かその遊具は湿っていた。


「…あれ?」


遊具の柱のひとつに、あの子の名前が刻まれていた。…別にいない名前でもないし、別人かな。そう思ったが、気になって仕方なかった。


彼女を呼んで、話を聞いてみる。


「あの子って、もしかして転校してきたりした?」


彼女は少し考えてから答える。


「そういえば、小学6年生の時に転校してきたんですよね、あの子」


ということは、あの子はここで暮らしていたのかもしれない。

そしてこの公園で、ここに名前を刻んだ。


「その時の話とか、何か聞いてない?」


彼女はうーん、と深く唸ってから、顔を上げた。


「好きな風景があるって話をしてたことがありました」


好きな風景…。

どの季節の、どの場所なんだろう。

もしかしたら、この公園だったりするんだろうか。

名前を刻んで、登った遊具からの景色だったりするんだろうか。


…そうだとすれば、皮肉なことに彼女は、公園の景色を刻みながら、公園で死んだのかもしれないな。


「登ってみようか、これ」


名前も分からない、大きな遊具だ。木製の枠に網がかかっているだけの、簡単なもの。

だけどその頂上は俺達の目線より遥かに高くて、その景色を見てみたくなった。


俺より先に、彼女は頂上に辿り着いた。普段使わなかった腕の筋肉が、既に痛い。

それでも何とか、頂上に辿り着く。


「…ほんとに、ここがあの子の思い出の場所なんですかね?」


街が一望できるわけでも、ここでしか見れない何かがあるわけでもなさそうだ。

だけど幼い頃のあの子が知る一番高い場所は、多分ここだったんだろう。


ここからは、空が見えた。平坦な景色が広がるこの街では、空は広く見える。

きっとあの子は、この場所というよりも空が好きだったんだ。

そういえば俺の家でも、ベランダから空を眺めていた。

俺が煙草を吸う横で、ぼんやりと。


今は、太陽と雲が。夜になれば、星と月が。または、厚い雲と冷たい雨が。

何度も繰り返し、明るくなっては暗くなる。

空とは、そういうものだ。


じゃああの子はそれに、何を見出したんだ?

その空に、例えば夕暮れに。

朱くなっては暗くなる風景に、あの子は何を見いだした?


…一つ。

あの子が残した言葉で、強く残ったものがある。


映画のワンシーンみたいな死に方をしたい。

俺の知っている映画では、主人公は死ねないまま朝を迎えた。

じゃあ、朝に捕まることなく死ねた君には、何が見えた?


問うてみる。勿論、答えはない。

人との交わりは本質的には、何の意味もない分かったふりなんだ。

生まれてきた環境も、受けてきた教育も、見えていた景色だって、どれを取っても同じではない。


そう、分かってる。

だけどそれを見つけなきゃ、先には進めない。そうする他に道はない。だから考える。


「…でも、何だかここは落ち着きますね」


彼女の声に、俺の思考は遮られる。


「ほら、この街って何もないじゃないですか。だから、いつもよりも空が見えて。世界が終わるとしたら、私はこういう場所にいたいかもしれないなぁ」


…確かに。

俺達の住む街の雑然さに比べて、ここはなんというか、静かだ。

風化しているとすら思えるような、何があっても変わらない場所だ。


誰かが手をつけようとした形跡もない、変わりようのない場所。

そこにあの子は、名前を刻みたかったのか。


「…何だよ。ちゃんと、生きたかったんじゃないか」


何故か、涙が溢れた。

自己評価が低いなぁ。

変わらずいようとしなくても、俺達は君を忘れたりなんかしないのに。


本当の意味で、君の墓標はここだったんだな。

変わらず在り続ける、この場所だったんだ。


「バグなんかじゃなかったよ」


声はまともには出なかった。だけど、はっきりと言った。


「あの子はここにいた」


そうして遊具の上で泣き始めた俺を、彼女は優しく抱き締めてくれた。

涙が出たのは、多分あの日以来だ。

抱き締められていることまで、全く一緒。


だけど、今回は違う。

自分を想ってではなく、誰かを想って、涙が流れた。

君の死を想って、泣けたんだ。

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