第9話
目が覚める。時間は朝6時。あの子が死んでからは、3度目の早起きだ。あの子に睡眠時間でも削られているのだろうかと苦笑する。
カーテンを開ける。今の時期、朝日が昇り始めるのは今くらいの時間だ。直視するとやはり眩しい。朝と夜の境界を食い荒らしながら、何もかもを照らす強い光が昇っていく。
古代の人間はこいつに生活を握られていて、だからか、何の予定がなくても朝は憂鬱だ。
壁紙が陽の色を映し始める。俺は重い腰を上げて、寝室を後にした。
…朝は嫌いだ。でも、朝食は好きだ。なんとなく、健康的な気がするから。
夜になると太陽が恋しくなったり、人間は無いものを強請る傾向がある。健康的な生活に憧れながらもエナジードリンクを常飲して、タバコを吸ったりする俺も、間違いなく同じ人間のカテゴリーだ。
冷蔵庫には卵と野菜と、調味料の類があった。まぁ、目玉焼きでいいだろう。卵を取り出して、キッチンに置く。
コンロの下の棚からフライパンを取り出して、フライパンを温める。油を敷いて卵を割り入れる。暫くしたら水を少し入れて、フタをする。トースターに食パンを入れて、ダイヤルを3まで回す。
白身が固まったらフタを開けて、フライパンを濡れ布巾で冷ます。理由は分からない。…昔母がしていたことをなぞっているだけだ。料理をしていると、ふとした事でたまに母を思い出せる。だから俺は自炊をしているし、そのお陰で生活費の振り込まれる口座には凄い額の貯金がある。
フライパンの粗熱が取れたら皿を用意して、目玉焼きを盛り付ける。
トースターがパンが焼けたことを告げる。俺は別皿にトースターを載せる。…そういえば、昨日買ったサラダをまだ食べていなかった。目玉焼きと同じ皿にサラダを盛り付ける。
見た目だけは健康的で、普通に生きる人間の作りそうな朝食だ。
パンに目玉焼きを乗せて、塩胡椒を振る。あの子は目玉焼きをソースとマヨネーズをかけて食べていた。お好み焼きみたいだね、と笑ったのを覚えている。
ソースやマヨネーズは、あの時あの子が使ったもののまま。あまりそれらを使う料理を作らないので、買い換える必要がないから。
朝食を食べ終えると7時になっていた。約束の時間まで2時間ある。ゆっくり準備が出来そうだ。服を着替えて、顔を洗って、歯を磨く。相変わらず無愛想な顔だ。
靴を履いて、外に出る。
外の空気はやっと少しずつ冷たくなってきて、秋を感じさせる。この時期はとにかく暑かったり寒かったり、無茶苦茶な気温設定の日が多い。暑いと思って窓を開けて寝たら寒くて起きてしまうとか。
バグみたいだなと思う。異様なほどの寒暖差も、あの子がもういないことも。
本当は何かの手違いで、明日にでも修正が入って、またあの子が部屋に現れるんじゃないかって。
そんなわけがない。あの子はもういない。あの子のいない世界でそれでも生きていくために、俺は今日を迎えたんだから。
コンビニの前を通る。あの子と初めて会った場所。ここであの子は何を見て、何を感じたんだろう。
物憂げな表情で空を眺めていたのを、よく覚えている。
その日の天気がどうだったかは忘れてしまった。
その目に映っていたのは、晴れ模様?雨模様?それとも、そのどちらでもなく、ただ空虚だっただろうか。
それでもその目からは、希望を感じなかった。目を見ればどういう人かわかるわけでもないけど、ただなんとなくそう思った。
そんな気まぐれが、あの子と俺の繋がりを作ってくれた。
そういう勘違いとか、確証を持てない感覚的な部分も、たまには大事なのかもしれない。
あの瞬間、俺があの子に声を掛けなかったら。
単にあの子は近所の女子高生で、死んでしまったとしても同情の念すら湧いてこなかっただろう。
だからあの時、声を掛けてよかった。
あの子に会えた。
あの子を好きになれた。
あの子が好きだという気持ちを、自覚できた。
…うん。だから、大丈夫。きっと会える。
俺は歩き出す。下ではなく、前を向いて。
駅に着いたのは8時半。約束よりも30分前だ。
この間は遅刻してしまったから、このくらい早くてもいいだろう。
数分も経たずに彼女も来て、一緒に電車に乗る。
マップであの子の眠る霊園の場所を確認する。この街でも、おばあちゃんの街でもない、知らない街だ。
なぜあの子のご家族は、ここを選んだのだろう。
俺はあの子のご家族とは話をしたことがないから、その辺の事情はよく分からない。だけど多分あの子にとっては、大事な場所なのだろう。おばあちゃんがいる街よりも、住んでいた街よりも。
「…どんな場所なんだろうな」
写真は見なかった。写真で見るのとは違うものが、きっとあると思うから。
あの子がその場所を選んだのは、景色なのか、雰囲気なのか、出来事なのか、ひとつも分からないけど。
それを自分の目で見て、それから自分で汲み取りたいから。
周りの施設やお店なんかも、何も確認していない。行ってみて感じたものが、全てだと思うから。
「私も初めてなので、楽しみです」
楽しみって表現は違うかもしれないけど。そう付け加えて、彼女は笑った。
「初めてなんだ」
俺が聞くと、彼女は俯いて答えた。
「あんまり、受け入れたくなかったんです。お通夜もお葬式も行きましたけど、手を合わせて話しかけても、何も返ってこないことを」
「…それでも、来てくれたんだね」
「乗り越えなくちゃいけないですから。薊さんがそうしたように」
彼女は立ち上がって、それから俺を見て言う。
「私と同じように、あの子のことが好きで。私と同じように、あの子がいなくなって何もなくなってしまって。そして私とは違って、あの子の死を乗り越えようとしていて」
彼女の苦痛や心労は、俺には分からない。
分からないけど、辛いという感情は同じだと思う。
「…だから、薊さんみたいになりたいんです。薊さんみたいな、強い人に」
彼女はそれから、にっこりと笑った。
「あの子のおかげで、また私はこんなに素敵な人と出会えた。だから私はきっと、あの子くらい幸せになれると思います」
それがどういう意味だか、俺には全くわからなかった。
だけど次の瞬間、それを理解させられた。
「好きですよ、薊さん。きっとあの子くらい、貴方の事が好きです」
車内では、彼女の霊園がある駅まで、あと2駅という放送が流れていた。
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