第8話

長旅の疲れからか、家に帰ってすぐ睡魔が襲ってきた。

気絶したように眠って、次に起きたのはまた早朝だった。…あの子が死んだ、次の日みたいに。


夕飯も食べずに寝たから、だいぶ腹が減っていた。

顔を洗ってキッチンに立つ。冷蔵庫を見てみると、食材がなかった。


…買い物に行かなきゃな。俺は最低限身なりを整えて、家を出る。


コンビニ…は、やめておくか。コンビニ飯じゃ怒られるからな。

…あ、コンビニ飯を怒る奴なんて、俺にはもういないんだっけ。


ふらっとコンビニに入る。

止めて欲しかったのかもしれない。

そんなんじゃ長生きできないよって、言って欲しかったのかもしれない。


弁当を手に取り、レジに並ぶ。


「いらっしゃいま…あ、先輩」


…え?

財布の中身を確認していた視線を上げて、目を合わせる。


「ここでバイトしてたんだ」


桐野 まつり。

俺に告白をした、高校の頃の後輩だ。


「えぇ。社会経験のためって奴ですかね」


高校の時は眼鏡をかけていたし、髪の毛も黒だった彼女は、今ではコンタクトレンズをして髪の毛も茶色くなっている。


「…バイト、いつ終わりなんだ?」


「え…」


けじめを、つけなきゃいけない。

桐野との関係性も、あの子との事も。


「一応、5時までです。あともう少しなんで、家で待っててください」


家、か。

一度だけ、桐野を家に上げたことがある。あの時は俺達はまだ、ただの友人だった。


その時は交際したいなんて、どちらも思っていなかったんだと思う。

同じ部活で、趣味の合う奴だった。


お互い共通のゲームが好きということで、俺の家で一緒にプレイした。

確かあの時は夜遅くにコンビニに行ったんだよな。

遅くまでゲームをして、夜ご飯を買いに行った。


桐野が公園で食べようと言い出して、あの公園で一緒に肉まんを食べて。

…その公園は、もう見る気にもならないけど。


桐野は言っていた通り5時過ぎには家に来た。…久しぶりに顔を合わせるということもあってか、お互いに会話の糸口は見つけられないでいた。


「ねぇ、先輩」


桐野が口を開く。相変わらず不機嫌そうな表情と声色だ。


「先輩の好きな子ってもしかして、この間亡くなった子ですか?」


「…そうだよ」


桐野はそうですか、と会話を終わらせる。


「桐野は、好きな人とかできたか?」


「…残酷なこと聞くんですね、先輩」


…会話が、全く続かない。

この余計な事を話さない感じが桐野といて安心するところだったなぁ。


口数が少ない人と接するのが苦手になったのは、誰のせいだろうか。


「…先輩はこれから先、一人で生きていくんですか?」


桐野の目線は俺の方を向いていない。

外の風景を、なんの感情もなく見つめているように見える。


ただ、俺は知っている。桐野が興味なさげに見る景色の中に、いつでも何かを見出しているということを。


「そんな訳ないだろ。前を向いて生きていくよ」


そうですか。桐野は呟く。

数ヶ月ぶりに向けられた笑顔は、やっぱり綺麗だった。


「…じゃあ、私も前を向きます」


…こうやって、過去を清算して、前を向いて。

そんな風にじゃなきゃ、人は生きられない。

だから、俺達は幸せなんだと、そう言い切れる日が早く来たらいいな。


俺達はしばらくぶりにゲームをした。

笑いあって、ふざけあって、そうやって時間が経った。


いつの間にか桐野は俺の隣に座っていた。


「そろそろ帰ります。明日もバイトなので」


俺が気をつけて、と言おうとした口に、桐野の唇が覆い被さった。


…一瞬、何が起こったか理解できなかった。


「絶対、振り向かせて見せます。覚悟しててね、先輩」


ドアが閉まるまで。

俺は唇を抑えていた。


適いそうに無いなぁ、桐野には。

一人、ベランダで苦笑した。


だけどごめん、俺は今君のことは考えていられない。それより大事なことが、大事だと思えてしまうことがあるから。

もう会って話すことも、どうにかして連絡を取ることもできないけれど。

それでも俺の中で、あの子は一番大事だから。


今日は桐野に会えてよかった。

自分の気持ちがはっきりと分かった。

誰に何を言われても、変わらないということが。


俺はちゃんとあの子が好きで、大事だったんだ。


好きな所しかないなんて、そんなに綺麗な恋ではないけど。むしろ好きだということすらも、もう伝えることは出来ないけれど。


だけど未だに、あの子は俺の中に居続けている。

俺の心の中で、あの子は生き続けている。

それだけが大事で、それ以外はどうでもいい。


だから、俺があの子の死を乗り越えたらもう一度。そこからもう一度スタートしよう。


空を見上げる。あの子も最後、こうして空を見上げただろうか?それは知る由もない。

だけどあの子がいるとしたら、あの空の上だと思うから。

俺は空に向かって、心の中で叫ぶ。


人を好きになることを教えてくれてありがとう。

君はもういないけど、君の教えてくれた気持ちのおかげで、俺はこうして立ってる。

いつか君よりも大事な人ができたら、また報告するよ。


…自分でも気持ち悪いと思う。気持ち悪いし、恥ずかしい。

だけど、今この瞬間そう思ったんだ。

死以外にあの子が残してくれたものは、確かにあったんだと。


雲のない、綺麗な満月の空が広がっている。月明かりと街灯が、強く強く俺を照らす。それは太陽のような包み込む光ではなく、刺すような光。


それが嫌で下を向いて帰ったあの頃を思い出す。変わるって、こういう所からなのかもしれない。

俺は上を向いて、月に願う。


他でもない、自分の幸せを。


夜。電話がかかってきた。

出ると、彼女が明日の予定を聞いてきた。


「明日は9時に集合しようか。遅れないようにね」


冗談交じりに約束をする。遅れませんよ!と彼女は大真面目に返事をした。


会える、っておばあちゃんは言ったから。

そしてそれが、自分次第だとも言ったから。


俺はあの子とのトークルームを開いた。そして、それを全部読み返す。

映画の話とか、新しく買ったスタンプとか、どうでもいいことがたくさん書いてある。


それが今となっては、物凄く価値があるもので。

もう二度とこういう話ができないことも、全部分かっている。

俺はひとつひとつのメッセージをどんな表情で打ったかなんて、分かりもしないことを考えた。


それは初めてのことだし、多分しても意味はないことだけど。

でもこのトークルームは、確かにあの子と俺のものだ。

形として残った、数少ないものだ。


…しばらく溯ると、気になるメッセージが出てきた。当時の俺はあまり気にしなかった、送信が取り消されたメッセージ。

あの子は何を言おうとしたんだろう。…本人に聞けたら、どれだけ良かっただろう。


でも、もうあの子はいないんだ。だから俺の中で、あの子が何を考えていたのか判断しなきゃいけないんだ。

それが正解じゃなくても。彼女の意思とは違っても。


…そう。明日はあの子に会うんだ。だから。

俺はトークルームを削除した。

それが、あの子と会うための手段だと信じて。


会いたいと願う気持ちが、何か奇跡を起こしてくれると信じて。

空っぽになったトークルーム。あの子のプロフィール写真は、それでも笑顔だった。

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