第3話

コーヒーを飲みながら、彼女はきょろきょろと辺りを見回す。

あの子の面影でも追いかけているように、その目は懐かしげだった。


「お兄さん…いえ、薊さんは」


ふと、彼女がこちらを向いた。


「なんであの子と仲良くなったんですか?」


なんで。なんでだろう。

よくよく考えれば、確かに俺とあの子の間に、仲良くなるようなきっかけは存在しなかったように思える。


ただ何となく仲良くなって、何となく一緒にいるようになっただけだ。

出会い方が異質なだけで、これと言って理由はない。


「何となく、ですか」


伝えると、彼女は驚いたような顔をした。


「あの子、難しい子なんですよ」


彼女の言うところによると、どうやらあの子は俺が思っていたより大人びた子だったらしい。


あの子は表面上の交友関係は広いものの、本当の意味で友達だと呼べる人間は数えるほどしかいなかったのだという。

自分から遊びに誘うのはおろか、自分から話しかけることでさえも、その何人かの友達にしかしていなかったようで、だから俺みたいなケースはレアらしいのだ。


薊さんのどこかを気に入ったんでしょうね。そう言って彼女は話を締めた。


「難しい子、ねぇ…」


俺からすればあの子は扱いやすいほうで、とにかくいろんな物事に一喜一憂する快活な女の子という印象しかなかったので、いまいちピンとこなかった。


あの子が俺のどこを気に入ったのかは知らないし、今となっては本人に聞くことも叶わない。

でも、あの子が俺のどこに魅力を感じていたのかを、俺は理解したいと思う。

これはあの子を理解するための鍵でもあると思うし、何より俺が前を向くための手がかりだと思うから。


「この部屋、あんまり家具置いてないですよね」


ふと彼女が言う。

そもそも家具を置かなくなったのはいつからだっけ。

確か高校生くらいまでは、この家にも普通に家具があったのだ。


だったら、どのタイミングで家具がなくなったんだろう。

…思い出せない。


「なんだかいつでも消えてしまいそうな、そんな感じがします」


いつでも消えてしまいそう。

俺はいつだったか、同じ事を誰かに対して思ったな。…あぁ、あの子と初めて会った時だ。


深夜の街灯も人通りもあまりない暗い道に、あの子は遠い目をして佇んでいた。

まるで昼間からぱっと浮き出すように、または押し出されるように、夜を泳いでいた。


俺は似たような寂しさを感じたんじゃなくて、似たような儚さを感じていたのかもしれない。

あの時のあの子の、いつ消えてもいいような目に。


「あの子は俺に会って、何を感じたのかなぁ」


ぽつりと、そんな言葉が口を衝いて出た。

特に意味なんてないと思っていた人生だ。誰かが少しの間でも、俺を好きでいてくれたら。俺に意味をくれたら。

それは大事にしなければいけないと思うし、実際大事にしていたつもりなのに。

突然壊れてしまって。突然手元を離れて。


俺は、どうしたらよかったんだろう。


「薊さん…」


彼女が心配そうに覗いているのに気付いた。

俺はまた自分を悲観した。原因なく起きた失敗は一つもないんだ。


だから今回のことも、たぶん俺のせいなのに。

何年経ってもこうやって『かわいそうな人』を演じたがる自分に嫌気がさす。


周りに馴染めないから、誰にも興味ないフリをして。

そのうち本当に興味がなくなって、誰のことも分からなくなって。


そんな事だって、全部自分が悪いのに。


冷めてしまったコーヒーを一気に飲み干した。

彼女のカップはもう空だった。


「もう一杯、どう?」


俺が言うと、彼女はお願いします、と両手でカップを差し出した。

同じ仕草。

こうやってなんにでもあの子を重ねてしまうのは、何という感情だろう。

答えはたぶん依存だ。もしくは執着。

簡単な自問自答をしながら、一杯目と同じようにコーヒーを淹れる。


「お待たせ」


カップを渡して、席に着く。

彼女は今、何を考えているのだろう。…わかるわけないか。

他人を理解するというのは、その人の言動について、自分の納得いく言葉や理屈で説明がつくようにすることで、決して同じ感覚を共有することじゃない。

どこかで聞いて、すごく共感した言葉が頭に浮かんだ。


生まれも育ちも、自分とは違う境遇で育ってきた人間と同じ物の見方ができるって思い上がりは、いったいどこから生まれるんでしょうね。

…これは、あの子が言っていた。


俺は確か、共有したいと思ってもらえたらそれだけで充分価値があると思うよ、と返した気がする。

あの子は確かに、と言って笑っていた。何かを捨てるような笑顔で。


「人間って不思議ですよね」


どこか遠くを見て、彼女が呟いた。


「私理解できないって言ったんです。亡くなった人を悼んだり、どんな気持ちで死んだのか考えるのなんて」


あぁ、彼女は確かに、あの子と仲良くできるタイプだろうな。

誰より現実を見ていますみたいな顔をして、本当のところ誰よりも理想を愛している。綺麗事の上に成り立つ世界を、望んでいる。


「でも友達が死んだら、なんで、って思って。理解できなくたって、理解しようとすることに意味があるんだなんて、自分を正当化できちゃうんですよね」


彼女は皮肉めいた笑みで、話を終えた。


「別に整合性なんて重要じゃないと思うけどな。本当に大事なのは、自分の選択を後悔しているかそうじゃないかでしょ」


人間の選択肢…特に俺らみたいな凡人の選択することなんて、大抵の場合ほとんど意味を持たない。だったら大事なのは、その時その時で屁理屈でない理由で行動できたかどうかで、もっと言えばそれが正しかろうが間違っていようが、今この瞬間自分の中で正解なら、それでいいんだ。


人間は変わっていくものだから。


「…あの子が薊さんには敵わないって言ってた意味が分かりました」


彼女はいまいち意図の読めない笑顔を浮かべた。

あの子は俺と話をするたび、敵わないって思ったんだろうか。…俺も、あの子には敵わないって思ってたんだけどな。


「薊さんは素敵な人ですね。あの子が言った通り」


知らないところで話をされていたと思うと、少し照れ臭い。

俺も友達がいたら、あの子のことを話したんだろうか。


寝る時何かを抱いていないと寝れないこととか、そんなかわいいエピソードでも添えて。


やめてよ!とか言いそうだな。サバサバしているように見えて、シャイなところがあったから。


「あの子は、あそこに飛び降りたんですよね」


窓の外の景色を眺めながら、彼女が呟く。

そうだよ、なんて言えるはずもなく、俺は押し黙ったまま次の言葉を待った。


「私たちと遊ぶの、面白くなかったのかなぁ。友達だと思ってたのは、私だけだったのかなぁ」


彼女は涙を流しながら、正直な気持ちを吐露した。

…なんでって思うのが普通だよなぁ。昨日まで生きて、一緒に笑ってた人間が、ある時突然未来を投げ捨ててしまうんだから。


「あ…ごめんなさい、こんなみっともない所見せて」


大丈夫だよ。そう伝えると、彼女は向こうを向いた。

泣けるだけ泣いたらいい。泣き止んだら、別のことでも考えよう。


今の俺達にできるのは、悲しみをいろんなもので薄めることだけだから。

人は生まれて死ぬんだって諦めようとしても、悲しみが減るわけでもないし。

ほかのことに興味を向けられないほどに、あの子のことが好きだったんだから。


すすり泣く声は狭い部屋を埋めて、コーヒーの湯気だけが上向きに、くるくると立ち上っている。

俺は湯気の立ち上る様を、追えるだけ追った。滲んだ視界で、上を向いて、追った。


部屋は悲しみの色に満ちていく。でも俺も彼女も分かっている。この涙が止まったら、また過去を一つ捨てるんだ。

思い出を忘れるんじゃなくて、置いておくために。

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