第2話
だいぶ遅めの朝食を取り、食器を洗う。服でも風呂でもそうだが、用事が済んだらすぐに洗うのが面倒を無くす手っ取り早い方法だ。…まぁ、多ければ溜めてしまうこともあるけれど。
今思い出したが、今日はゴミの日だった。一人とはいえ、ゴミは出さなければ溜まっていく。
参ったな…ゴミの日は、あの子が絶対に声を掛けてくれたのに。
また一つ、あの子の事を思い出してしまった。
思い出したくない訳じゃないけれど、思い出しても辛いだけなのに。
俺は気を紛らわすために、外に出ることにした。
こうやって、目的もなく外出するの、好きだって言ってたな。
またあの子のことを思い出した。
これから先、何をしてもそう思うんだろうか。
思い出しては辛くなったり、思い出してはいけないと思ったり。
それは前を向いていると言えるのだろうか。
思い出さないようにして、いずれ思い出さなくなることを、ポジティブと言うのだろうか。
色々意見はあると思うが、俺はそうだとは思えない。
…そうだ。俺がしなきゃいけないのは。
あの子との思い出について、精算しなきゃいけない。
忘れるわけじゃない。いなくなったあの子について、あの子の心の変化について、ちゃんと理解したいと思った。
あの子の心情を、わからないで終わらせてしまったり、考えないようにすることが、本当にあの子を殺してしまうと思うから。
俺はあの子を殺してしまいたくない。生きている間、見ないようにしてきたあの子の心の底を、ちゃんと理解してあげることが、俺に出来る唯一のことだと思うから。
俺はあの子について、情報を集めることにした。
踵を返し、部屋に戻る。
服を着替え、玄関で靴を履きかけて、ふと気付く。
…彼女のご両親に話を聞くのは、酷じゃないだろうか。
娘が死んで間もなく、ただ近所に住んでいるだけの俺に話を聞かれるのは、あちらにとっても迷惑じゃないだろうか。
ぐるぐるぐるぐると、良くないイメージが頭をよぎる。
汗が噴き出して、動けなくなる。
いつもこうだ。行動を起こそうとすればするだけ、動くまいとする力が働く。
玄関に踞る。知らない声が聞こえてくる。何を言っているのかはわからないが、否定されている気がする。お前はダメだ、生きている価値がない。
誰かの声で、そう言われている気がする。
頭が痛い。
気分が悪い。
呼吸がおかしい。
寒気がする。
うずくまったまま、動けなくなる。
その時、チャイムが鳴った。
ふっと我に返る。
寒気が引いて、動けるようになる。
ドアを開けると、そこには女子高生が立っていた。あの子の面影がどことなくある子だった。
すぐに、あの子と同じ制服を着ているからだと気付いた。
俺を見て押し黙ったその子に、俺も何となく話しかけられないまま、しばらく時間が経った。
口を開いたのは、その女子高生の方だった。
「あなたが、『近所のお兄さん』ですか?」
ほぼ確信、というような聞かれ方だ。確かに俺はあの子に、「近所のお兄さん」と呼ばれていた。
「多分、そうだと思うけど」
彼女の目付きが険しくなる。まるで仇みたいな目で、俺を見てくる。俺はまた、目の前が歪んでくる。
今聞いたばかりの彼女の声で、お前のせいで、と叫ばれた。
お前のせいで、お前のせいで、そう聞こえる。
俺はまた踞る。声が離れない。苦しい。息が止まる。
「大丈夫ですか?」
お前のせいでと叫ぶ声よりも焦った調子で、そう聞こえた。
俺はまた我に返る。立ち上がり、蚊の鳴くような声で大丈夫だと伝えた。
改めて向かい合うと、やっぱり同じ制服で、同じように快活そうな子だった。
まだ心配そうな顔を崩していないところを見るに、いい子なんだろうなと思う。
「…えっと、君は?」
何と声をかけたらいいか分からず、ぼんやりとした質問を投げかける。
「あ、私は葛木円歌です。あの子の…春歌の友達です」
一瞬、思考が止まる。
春歌という知り合いに覚えがなかった。春歌。はるか。ハルカ。頭の中で、言葉を繰り返していく。
…あぁ、あの子は春歌という名前だったんだ。
そんな事も知らないほどに浅い関係性だったんだと、自嘲気味に思った。
「そうなんだ」
俺は淡白に返す。困ったような、ヘラヘラとした笑みを浮かべながら。
「あの…あなたのお名前は」
あぁそうか、名乗らなきゃいけないのか。
「俺は須貝薊。須田の須に貝殻の貝に、花の薊」
俺があの子の名前を知らなかったように、あの子もまた俺の名前を知らないのだろう。
そう思うとなんだか、丁寧に字面まで説明しなきゃいけない気になる。
「春歌から話は聞いています。あなたなら何か知っているんじゃないかと思って訪ねました」
淡々と、はきはき喋るなぁ。自分が話しかけられているのに、他人事みたいにそう思う。
「…ごめん、俺も本当に何も知らないんだ。ちょうど色々調べてみようとしてた所で」
また、困ったような笑みを浮かべて返す。笑い事じゃないと思われただろうか。
誰にも褒められたことのないこの態度は、いつだって俺の心の底の方にこびり付いていて、そう接してしまう度に自分が嫌いになる。
彼女は一瞬困ったような顔をして、それからこう言った。
「じゃあ、あの子がここに来てた時の事について聞かせてくれませんか?」
まっすぐに見つめられる。彼女の瞳は前を見詰めているようで、それでも友達の死から立ち直れておらず、縋るような、怯えた目をしていた。…その瞳に映る、俺の目と同じように。
「…じゃあ、上がって」
俺は玄関から一歩引いて、彼女を招き入れる。彼女はおずおずと玄関に上がった。
彼女を居間に通し、使わなくなったゲーミングチェアに座らせる。
「そこ、あの子がよく座ってたんだ」
彼女は座り心地を確かめるように、一、二度座り直した。
それから懐かしむように、あの子の動作をなぞるように、くるくると回ったりもした。
「あの子、お兄さんの話をする時本当に嬉しそうだったんです」
ぽつりと彼女が言った。
そうなんだ、というほか無かった。
それならよかったとも思えないし、だから何?というほど無関心でいられるわけでもないから。
俺の適当な相槌で、また会話が止まる。正確に言えば適当そうな相槌なのであって、決して適当なわけじゃないんだけど。
俺は居心地悪くなって、コーヒーでも淹れようとキッチンに移動する。
「あの子が言ってた通りですね」
居間から声がする。何の話かわからない。
「ちゃんと考えて返事をくれるのに、ぶっきらぼうに聞こえるって」
…返事はできなかった。そうか、そんな所まであの子はわかってくれていたんだ。
あの子の笑顔が思い出される。嫌ではなかった。
ピィーッという音がして、はっと気付く。いつの間にか、お湯が沸いていた。
俺はドリップコーヒーの封を開け、お湯を注いでいく。二人分のカップを、ゆっくりとコーヒーが埋める。
久しぶりだな、この感覚は。
あの子にもよくこうして、コーヒーを淹れた。
あの子の持ってきたカップではなく、家にある真っ白なカップにコーヒーを淹れた。…何となく、二人でコーヒーを飲んでくだらない話をしたあの時間を、塗り替えたくなかったから。
コーヒーを持って居間に戻る。
まだゲーミングチェアの上でくるくると回っていた彼女に、コーヒーを手渡す。
「ありがとうございます」
カップを両手で受け取って笑う仕草が、あの子を初めて家に上げた時と、よく似ていた。
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