第37話 追憶(前編)
マグヌス平野のはずれにある小さな国、セルウィー公国。豊かな自然に囲われたその国は、激化する人間と魔族の種族争いの中でも比較的平和な日常を送っていた。
というのも、セルウィー公国は古くから多種族との親交が深い融和的な国家としての歴史を持つ。獣人や半魔、エルフ、ドワーフ等……人間だけでなく、幾多の種族が慎ましくも争いとは無縁の平穏な日々を過ごしていた。
そんな国を治める公爵、グスタフ=クラシュタインは、自室で頭を悩ませていた。
アルビオン帝国から今朝届いた書簡。あまりにも一方的なその内容に目を通してからというもの、高潔な彼の顔はずっとしかめっ面を保ったままだった。
そんなグスタフの内心を察してか、この家に仕える執事の男が心配そうに声をかける。
「グスタフ様……いかがなされましたか?」
「あぁ、すまない、マグニトフ。心配はいらないよ。少し気を悪くしただけだ」
「……左様でございますか。宜しければ、内容をお伺いしても……?」
マグニトフは僭越とは知りながらも尋ねた。アルビオン帝国からの書簡だという事は知っている。セルウィー公国という領地を所有する帝国からの書簡に、何か悪い予感を感じたためだ。
思いもよらない執事からの言葉に、グスタフは一拍おいて答える。どうせこの内容を正直に伝えたとしても、今更どうする事もできない。ならせめて同じ国に住む者同士、このやるせない気持ちを共有したい。そんな意図を含めて。
「……端的に言えば、帝国からの最後通牒だよ、これは」
「というと?」
「これ以上、人間以外の種族を領地内に住まわすなら公国を敵国とする――――とね」
マグニトフはその尊厳な表情にしわを寄せる。執事としてクラシュタイン家に仕えて三十年余り。古くからこの国の酸いも甘いも経験してきたつもりだったが、今回は今までにないくらい相当厳しい選択を迫られているようだ。
そう考えると、主が頭を悩ますのも理解できる。数年前に若くして公爵の地位を引き継ぎ、他国が魔族と種族争いをしている最中であっても平穏にこの国を統治してきた。その実績を鑑みると、とても許容できるものではない。
「……まだ続きはおありで?」
「あぁ。明日までに明確な返答がない場合、武力行使に出るそうだ」
そこまで言うと、グスタフはその心情を表すように深い溜め息をつく。
重苦しい空気が室内に漂った。
グスタフは険しい表情のまま、書簡を見つめる。
期限は明日。それまでにどうしろと? この国に住む人間以外の種族はどれほどいると思っているのか。人間とそれ以外、比率で言うと半々くらいだ。
他国は魔族との争いの真っ最中。亡命させようにも受け入れてくれる国などないだろう。では新たに領地を作り、一時的にそこへ避難させるか? 一番現実的だと思うが時間がない。だが一番の問題は、この国から出ていく事を民が受け入れてくれるかどうか……だな。
無言のまま考えを巡らせていたグスタフだったが、ふと目線を上げるとマグニトフも同じような表情だった事に気付く。
そして目が合うと、口髭を蓄えたマグニトフは冷静に口を開いた。
「この事を公妃様には……?」
「いや……まだだよ。ナスターシャの事だ、すぐにおっかない事を言い出しかねない。それに――」
「アルキュミー様、ですか」
「あぁ、幼い娘の事を思うと、な……。だから、この事はまだ内密にしておいてくれるかい?」
「畏まりました」
深く一礼をするマグニトフ。その後、グスタフはおもむろに立ち上がった。
そして自室に保管してある豪華な装飾が施された
その様子を見たマグニトフは、目を見開き慌てたように声をかけた。
まさか一人で帝国に――いや、それとも民を自らの手で――――そんな思いが頭に過る。
「な、何用で!?」
「ははっ、少し外の空気を吸いに行こうとしてるだけだよ」
「そ、そうでしたか……では私も――」
「いや……マグニトフ、それには及ばない。一人がいいんだ」
「……畏まりました。ならせめて護衛を」
「ははっ、心配しすぎだよ。私が、勇者でもあるという事を忘れたのかい?」
「大変失礼致しました。では……いってらっしゃいませ、グスタフ様」
「あぁ、行ってくる」
装備を整えた主を、マグニトフは深く一礼して見送る。
バタン、という扉が閉まる音がしてから、白髪が混ざったオールバックの頭を上げる。その表情は険しいままだ。
そして苦悩する主の事を、ひいてはこの国に訪れるであろう厳しい未来を憂慮しつつ、ゆっくりと部屋を後にした。
* * *
時刻は正午前。午前中の農作業も一段落し、町にある小さな商店や飲食店を行き交う人々を中心に、町は穏やかな時間を過ごしていた。
人々――といっても、ただの人間だけではない。子供ほどの背丈のドワーフ族。恵まれた体躯を持つ
ドワーフ族は鍛冶技術や鉱石細工の技術が優れており、町のあらゆる装飾品はドワーフ族が手掛けている。兵士などが装備する剣や防具なども請け負っているが、中でも公爵かつ勇者でもあるグスタフの装備は、貴重な魔光石をあしらった特别製だ。
その他にも、公国を護衛する兵士を務める
その町の大通りに、輝く装備を身に纏ったグスタフは供回りもつけずに闊歩していた。そして苦悩する内心を決して感じさせない穏やかな表情で、行き交う民を視界に入れる。
「おぉ、公爵様。ごきげんはいかがでございますか」
「こんにちは、公爵様」
「今日も良い天気ですね、公爵様」
すれ違う民達は、顔を合わす度に朗らかに話しかけてくる。
グスタフが公爵としての地位になってからまだ日は浅いが、変わりなく接してくれる民に対し自然と顔を綻ばす。
そしてグスタフは、目に映る公国の平和な光景を見て決心した。
たとえ国は小さくても、多種族が協力し合い立派に生きている。もうこの国は立派な一つの国なのだ。それを、人間の愚かな差別心で壊される訳にはいかない。公爵として――――帝国からの要求を飲む事は出来ない。
しかしこの決断のせいで、こんな平和な日常が明日にはなくなっているかもしれない。そう思うと、すれ違う民にかける言葉が見つからない。ただ今は、いつものように手を上げて応えるしかなかった。
しばらくして大通りを抜けると、公国へと入る為の小さな検問所までやってきた。
そこには気を抜いた様子の
「ご苦労様。今日も平和そうだな」
「こ、これはこれは公爵様。何用でございますか?」
「何もないさ。こうやって自分の目で町を見守るのも、私の役目だからね」
「それは素晴らしい行いでございます」
「ところで……もし、この国へ武器を持った人間が現れたとしたら、君達はどうする?」
クルトンは急に投げかけられた謎の問いに、思わず言葉に詰まる。
この質問の意図はなんなのか。日頃、暇そうにしている自分達への当てつけなのか。それとも何か裏があるのか。いずれにしても、適当な返事は出来ない。
そう考えて、恐る恐る質問に答えた。
「まずは目的を尋ねます。侵略目的であるなら敵ですし、もしかしたら何か理由があっての事かもしれませんので」
「わ、私も同じ意見です。武器を持った人間が全て敵だとは思いません」
もう一体の
検問所にいる見張り役として、ほぼ完璧な答えだと自負して。
しかし、主から返ってきた言葉は、彼らの想像とは違った言葉だった。
「なるほど、良い答えだ。でも、これから……いや、今すぐにでもその考えを改めて欲しい」
「……と、言いますと?」
「これからこの国に武器を持ってやって来る人間は、全て敵だ」
グスタフは真剣な表情で答えた。普段の穏やかな公爵とは思えない、冷徹な一言。
到底冗談とは思えないその雰囲気は、クルトンとラナンダを固まらせた。
「急にこんな事を言ってすまない。こんなご時世だからね、いつ何が起こっても不思議じゃない、という事を覚えておいて欲しい」
「はっ……畏まりました」
そう言って深く一礼をする
言いたい事は伝えた、とばかりにグスタフはその場を足早に去って行く。その足取りは決して軽い物ではない。これから待ち受けるであろう苦難を思うと、すぐにこの場から逃げ出したい気持ちも少なからずある。
だが公爵として、この国の勇者として、民を守る為にグスタフは帝国に立ち向かうと決めたのだ。
その紺碧の瞳に決死の覚悟を宿して、妻と娘が住む屋敷に向かった。
* * *
「――で、そのような返答があったと?」
玉案に佇む身なりのよい男は、書簡を読み終えた侍従に不機嫌そうに尋ねた。
今朝、公国宛に出した書簡。その返答に関してだ。
書簡に記されていたのはこうである。
――セルウィー公国は多種族の民によって国家運営を維持しており、公国から生まれる富や資源は帝国にも献上している次第。
したがって、それが認められないという事は今後、帝国への献上も必要ないという事だと承知している。
以上により、この書簡をもって公国は帝国からの独立を宣言する――
「全く……愚かな公爵だ。帝国が魔族との争いの真っ只中だというのに、属国風情が多種族との平和を気取ってどうする。そう思わんか? シーベン」
「はっ。仰るとおりで」
「つまりところ、これは帝国への宣戦布告と私は受け取ったのだが……誰か、何か意見はあるか?」
室内には肯定を示す沈黙が流れる。皇帝陛下に意見を出来る者など、この部屋にはいないのだから当たり前だ。
その皇帝であるフェイエンは、自ら作り出したその沈黙を破るように口を開いた。
「シーベン、すぐに兵士団の出立の準備をしろ。抵抗しない人間以外は皆殺しで構わん」
「はっ」
「それと、イドラ。哀れな公爵と公妃の始末は貴様に任せよう」
「はっ……娘はいかが致しましょう?」
「あぁ、そう言えば幼い娘がいたのだったな。見込みがありそうなら連れてこい。そうでなければ好きにしろ」
「御意」
指示を受けたシーベンとイドラは、即座に部屋を離れた。
それを見送ったフェイエンは部屋の隅に佇む侍従を呼び寄せ、鷹揚に手を差し出すと、侍従から書簡を奪い取った。
フェイエンが下がれ、と一言告げると、侍従はそそくさと部屋を後にする。
「これはもう、必要ないな」
独り言のように冷たい口調で告げると、びりびりと書簡を破り捨てた。
足元には散らばった紙くずが広がる。フェイエンはそれを冷酷な眼差しで見下しながら憂慮した。
対外的には、魔族に襲われたとでも言えばどうにでもなる。魔族と争っている国がほとんどの状況だ、容易に信用するだろう。
属国の人的資源を失うのは痛いが、いつまでも反乱分子を飼う訳にもいかない。ここらで粛清するべきだったのだ。そう――全ては、人間の勝利と帝国の為に。
フェイエンは僅かに口角を上げ、立ち上がる。
そして散乱する紙くずの上を踏み歩き、この部屋を後にした。
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