月の微笑 ～略奪された王女と独善の王～

第49話 行かないで

　重苦しく雲が立ち込める空を窓から見上げて、サーリアは侍女に話し掛けた。

「ねえ、これは雨が降るのではなくて？」

　サーリアの言葉に、侍女も窓の外に視線を移す。

「それならいいのですけれど……」

「けれど？」

「これくらいなら、よくあるのですわ。降っても夕立程度で……もちろん、本降りになればいいのですけれど」

「そう……」

　彼女たちも、何度もこんな空を見上げては期待してきたのだろう。喜ばしい態度にはならなかった。

　もう一度空を見上げて、ため息をつく。

　私が神に愛でられているならば、なぜ神は私の願いを聞き届けてくださらないのだろう、と思う。

　願っても願っても、雨は降らない。アダルベラスはもちろん、エルフィにも。

　サーリアは、最近膨らんできたお腹に手を当てた。

　こんなに色んなことがあったのに、お腹の中の子どもはすくすくと育っているようだ。

　雨が降らなくても。戦が起こっても。人が人を傷つけても。そんな世界でも、あなたは産まれてくるつもり？

　本当にいいの？　生まれるところを間違えたとは思わない？

　心の中で問いかける。

　世界は優しくはない。神も天使も現れない。幸福は保障されていない。

　神は、何も愛したりしない。

　それが世界だ。

　しばらく目を伏せて考え込んでいるサーリアに、侍女の一人が話し掛けてきた。

「サーリアさま、よければ散歩に出掛けられませんこと？　気分も晴れましょうに」

　部屋から一歩も出すな、というレーヴィスの言葉はあったが、目を盗んでは侍女たちが、中庭までなら連れていってくれていた。

「陛下は男性ですもの、妊娠中も適度な運動が必要なことがおわかりにならないのですわ」

　そう言っては、気晴らしに連れていってくれた。

　きっと王室での出来事を見ていた侍女が、なにかしら感じてくれたのだろう。彼女らなりの慰めだ。

　ありがたかった。でも。

「今日は……いいわ。ありがとう」

「さようでございますか……」

　それ以上無理強いもできないと悟ったのか、侍女も食い下がることはなかった。

　　　　　　　　　　◇

　部屋を訪問したレーヴィスは、窓際の椅子に腰掛けて空を見上げたまま、微動だにしない彼女に声を掛ける。

「サーリア」

　呼び掛けられて彼女は顔をこちらに向けてくる。

　今にも崩れ落ちそうな表情をしている、と感じられた。

　しかしその瞳から涙は零れない。

「これを」

　レーヴィスは手に持ったものをサーリアに差し出した。

　それは何通かの手紙だった。彼女の叔母からの手紙だ。

　サーリアは飛びつくようにそれを受け取ると、もどかしく中の便箋を開いていた。

　中になにが書いてあるのか、レーヴィスはもちろん知っている。

　ごめんなさい。

　自分の力不足を痛感しています。

　私では国民を治めることはできそうにありません。

　あなたでなければならなかった。

　あなたが今ここにいればと、切に願います。

　何通も何通も、言葉を変えて書かれた手紙。

　だがそれは一通たりとも検閲を通りはしなかった。

　便箋を持つサーリアの手が震えている。

「わかって欲しい」

　そう言うと彼は屈んで跪き、彼女の手を両手で包み込むように握った。

「今、エルフィに向かうのは無理だ。その身体での遠距離の旅は許可しかねる」

「……でも」

「でも？」

「この子はそんな風に大切にされて産まれてきても、幸せにはなれない気がして」

「どういう意味だ？」

「為すべきことがあるのにしないままの私を、この子は許してくれるでしょうか」

「……やむを得まい」

　そう言ってレーヴィスは握っていた手を離すと、立ち上がる。

「そんな風に考え込むのはお腹の子にもよくない。とにかく無事に産まれなければ、許すも許さないもないだろう」

　再び口をつぐんでしまったサーリアを見て小さくため息をつくと、レーヴィスは彼女を背にした。

「私……もっと上手くやれればよかった」

　その言葉に、サーリアのほうに振り返る。彼女はこちらに目を合わせようとはしない。

「頭に血が昇ってしまった。あんな……問い詰めるようなことを言ったって、あなたを動かせるはずもないのに」

　俯いて、そう言う。

　暗に非難している。レーヴィスのことを。

「私は……甘かったのです」

「ああ、そうだな」

　彼女の言葉を特に否定はしなかった。

　そうだ、甘い。こんなに揺らいでいることに、彼女は気付いていない。

　あと一押しあれば、すべてを投げ打って彼女の望みを叶えるのかもしれないほどに、揺らいでいるのに。

「陛下」

　呼び掛けられ、サーリアの顔を見る。

「なんだ？」

　サーリアはしばらく彼の顔を見つめていたが、小さく首を横に振った。

「いいえ、なんでもありません。呼び止めたりして申し訳ありません」

「……いや」

　しばらくそんなサーリアの様子を見つめていたが、それ以上彼女の口からは何の言葉も紡がれないことを知ると、レーヴィスは部屋を出て行く。

　　　　　　　　　　◇

　彼が立ち去るその背中をじっと眺め続けていたサーリアは、さきほどまで握られていた手が、急に寂しさを覚えたような気がして、自分の逆の手でその寂しさを握り締めた。

　行かないで。

　私の傍に、ずっといて。

　そして抱き締めて、大丈夫だ、と言って。

　そんな想いが湧き上がってくるのは、なぜだろう？