月の微笑 ～略奪された王女と独善の王～

第23話 歯車

「懐妊と！」

　サーリアの懐妊が医師の口から発せられてからものの数分としないうち、レーヴィスが部屋に駆け込んできたらしい。

　寝所で休んでいたサーリアは、それを耳だけで聞いた。

「陛下、サーリアさまは寝所で休まれておりますれば」

「あ、ああ……そうか」

　侍女の言葉に我に帰ったように息を整えている。

　仕事をほっぽりだして駆け出したのだろう、あとから息をきらせながら王付きの侍女が二人、追いかけてきていた。

「へ、陛下、お待ちください」

「なにも言わずに飛び出されては困ります」

　そんなことを荒れた息で言っている。

　こちらの侍女が「水を」などとうろたえている様子だ。

「なにごとです？」

　ここまで騒がれては出て行かないわけにもいかない。

　サーリアは起き上がると、寝所の扉を開けた。

　こちらに振り向くとレーヴィスは一目散に駆け寄ってきて、人目も憚らず彼女を抱き締めた。

「へ……陛下？」

「よくやった、サーリア」

「陛下、お放しください。皆が見ております」

「構わない。待望の世継ぎだ。この喜びを表してなにが悪い」

「お世継ぎとは限りません」

　サーリアの冷静な言葉に、レーヴィスはふと我に帰ったのか、抱き締めていた腕をほどいた。

「そうか……そうだな」

　前例を思い出したのか、レーヴィスは素直にうなずいた。

「いやしかし姫でも、喜ばしいことには変わりはない」

　そう言ってまた抱き締めてくる。さきほどよりは、少し優しい抱擁だった。

　それを見て、皆が微笑ましいと思っているのだろう、誰も彼もが笑顔を浮かべている。

　久しぶりに走らされた侍女たちも、仕方ないという風に肩をすくめる。

　今この瞬間にも、笑顔でないのは月の君、サーリアただ一人だった。

　　　　　　　　　　◇

　その喜ばしい報告は、瞬く間に城内に広まった。

　気の早いことに数日後には、贈り物まで届き始めた。

「まだ誕生してもいないのに……」

　戸惑うように言うサーリアに、侍女たちは笑顔で答える。

「ヴィスティ殿下のときもこのような感じでしたわ。皆、嬉しいのです」

「でも、気の早いこと。姫かもしれないのに……」

「姫でも構いませんことよ。いずれはお世継ぎも産まれましょうに」

　ふと入り口のほうから声がして、サーリアは振り返る。

　今まさにベスタが入室するところだった。

「まあ、お久しぶりですこと」

「私、本日付でこちらに控えさせていただくことになりました。出産には馴れておりますので、陛下直々の命ですの。此度はおめでとうございます」

　そう言って頭を下げる。サーリアもそれに素直に礼を返す。

　そして訊いた。

「慣れているというのはヴィスティ殿下のときもお世話されたのね？」

「ええ。それに陛下も」

「陛下も？」

「私は元々、陛下の乳母でしたのよ」

「ああ」

　侍女頭とはいえ、ずいぶんとレーヴィスと軽口を叩き合う、とは思っていた。

　その軽口に親子のような親しみが含まれているのは、産まれたときから知っていたからか。

「王太后さまは線の細い方で、乳があまり出ませんでしたから。ですからサーリアさまももう少し食べられたほうがよろしいですわ。私はもう乳は出ませんからね」

　そう言って胸に手を当てて笑う。

　その言葉に、部屋にいた皆も笑い声をあげた。

　　　　　　　　　　◇

「そう……懐妊したの」

「はい」

「そう……」

　ヒルダの報告を聞き、恐れていた事態が起こったと思った。

　陛下は私が懐妊したときに見せてくれたあの笑顔をあの女に見せるのだろうか、と思う。

　それは、彼女の身体を震わせる想像だった。

「詮無きこととはいえ……」

「妃殿下……」

　どんどん身体が重くなっていく。気分が沈んでいく。

　空は晴れているはずなのに周りの景色は暗いままで、セレスはその中で色を失くして立ちつくすしかないのだ。

「どうにかならないものかしら」

　自分のその声には、毒が含まれていた。あえて毒を含んだのだ。

　ヒルダならばわかってくれる、と確信していた。

「王妃殿下、ご心配なさいますな。私はいつでも妃殿下の味方にございますれば」

　思った通り、ヒルダの声にも同じように毒が含まれていた。

　その返事を聞き、セレスはうっすらと口の端を上げた。