第22話 懐妊
いらいらして親指の爪を噛むと、それを見咎めた侍女に声を掛けられた。
「王妃殿下。はしたのうございます」
その言葉を聞くと、自分の悪い癖が出たことを知り、彼女は口元から指をはずした。
「ヒルダ」
「まったく、幼い頃からちっとも変わっていらっしゃらない。王妃なのですからもう少しお気を付けていただかないと」
オルラーフから嫁いできた折に付いて来た侍女だから、たとえ王妃相手であろうとも小言が始まると長い。
それをうざったいと思う反面、ありがたいとも思う。今彼女に意見できるのは、ヒルダただ一人だけだった。
他には誰もいない。
皆顔色を窺い、そして陰ではなにを言っているものやらわかりはしない。
「気を付けるわ」
「して妃殿下。いったい何に、いらついておいでですか?」
「いらついてなど……」
そしてまた親指を口元に持っていこうとして、それに自らが気付き、落ち着かなく手を膝の上に置く。
その様子を見てヒルダは大きくため息をついた。
「ご心配なさいますな。王妃殿下が正室にあられることは揺るぎない事実ですから」
「そのようなことを」
心配しているのではない、と言おうとして次の言葉が出てこなかった。
あの女。
側室に収まってしまった、サーリアと名乗る弱小国エルフィの元王女。
確かに美しい女だった。それは認めよう。
しかし、最低限の化粧、装飾品しか身に着けないような、地味な田舎女ではないか。
セレスは人知れず努力してきた。王妃ともなれば人前に姿を見せることも多い。
優雅に見える立ち振る舞い。会話。より美しく見せる化粧、服装。子を産んだあとに崩れがちな体型の維持。
陛下の御心に適うよう、私は努力してきたのよ。そう思う。
なのに産まれた御子が女であったことで側室を許さなければならない。
どんなに美しくあろうとも、レーヴィスはもうセレス一人のものではない。
しかもあの女は娘すら手懐けてしまったようだった。楽しく談笑する姿のなんといまいましかったことか。
ヴィスティ。
あの娘がもし男子だったなら、私は今でもあの方のたった一人の妻でいられたはずなのに。国母としてこの国での地位を確立できたはずなのに。
毎日毎日、そう考える。
わかっている。娘が悪いのではない。
けれどこのどこにも行き場のない思いは、自分自身でも制御できないのだ。
……今宵、陛下はこちらにいらっしゃらない。
もしや、あの女の部屋にいるのだろうか? あの逞しい腕で、あの女を抱いているのだろうか?
「……妃殿下」
呼び掛けられて、はっとする。ヒルダが彼女のほうを咎めるように見つめていた。
知らぬ間にまた、悪い癖が出ていたようだ。
◇
「サーリアさま? 少し顔色が悪うございますわ。横になられたほうが」
書物を読んでいると侍女にそう話し掛けられる。
実際、今朝がたから具合が悪く、なかなか頁が進まないのだった。
「そうね……万全とは言えないわね。休ませていただくわ」
そう言って寝所に向かおうとすると、侍女が慌てて言う。
「医師を呼んで参りましょうか」
「いいえ、それには及びません。少し横になれば気分も晴れましょう」
「お待ちください、サーリアさま」
パメラがなにかに気付いたようにサーリアの傍まで駆け寄る。
そして耳元でひそやかに言った。
「もしや、月のものが遅れているのでは?」
「……そうね、少し……」
実のところ、それには気付いていた。しかし、遅れることなどよくあることなのだから、大げさに騒ぎ立てることでもない。
それに、そのことを認めたくなかったのかもしれない。
少し遅れているだけ、と自分に言い聞かせてきたのだった。
「やっぱり」
サーリアの言葉を聞くと、得たりとばかりにパメラが大きくうなずく。
その姿を見てサーリアは慌てて手を振った。
「いえ、私はよく遅れることがあるから」
「なんにしろ医師には見ていただいたほうがよろしいですわ」
そう言うと、サーリアの静止も聞かずに駆け出してしまう。
二人のやりとりを眺めていた他の侍女たちもわらわらと集まってきて、サーリアを寝所に押し込めてしまった。
そしてほどなく侍女に引っ張られるように、女性医師が部屋に到着したのだった。
◇
「自覚症状から考えても、ご懐妊に間違いないでしょう。産婆の手配をしなければ」
医師のその言葉に侍女たちがわっと湧いた。伝える医師も嬉しそうだった。
この部屋で笑顔でないのはただ一人、サーリアだけであった。
「王子かしら、姫かしら」
「まあ、気の早い。まだ第一子ですもの、どちらでも構わないのでは?」
「待望のお世継ぎならいいのですけれど」
侍女たちはサーリアの表情には気付かない様子でそんな風に談笑していた。
嬉しくないわけではない。もしこのお腹の子が男子なら、これでサーリアは契約を果たしたことになる。
国母となるサーリアの故郷のエルフィの人々が無下に扱われることもないだろう。
ただ、なんとなく釈然としないのだ。
世に産まれてくる子どもというものは、すべて愛し合う二人から産まれてくるような気がしていた。もちろんそうとも限らないことは、知識としては知っている。
しかし。
愛がなくとも子どもはできるのだ。
その事実を、サーリアは我が身で知った。まだ膨らんでもいない自分のお腹をそっと撫でる。
果たして契約のために産まれてくるこの子どもは、彼女を許してくれるだろうか、と思った。
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