第2話 国王の死
足音が聞こえる。
何百、いや何千という男たちの荒々しい足音は、やけに耳障りだった。
石畳の上を走る靴音。剣と剣が交わる金属音。そして時折、悲鳴が聞こえるのは、聞き間違いなどではないだろう。
男のいるこの広間の静寂と、外の騒々しさがあいまって、それはすぐ隣の地獄を感じさせるのには十分だった。
しばらくすると、扉のすぐそこまで足音が迫ってきた。何人かの断末魔の叫びとともに、荒々しく扉が開かれる。
ああ、決断が遅すぎた、と男は思う。
やはりすぐさま降伏するべきだった。こんなときにも判断を誤るとは、国王として自分は本当に失格だったと口の端を上げる。
瞬く間に兵士たちがなだれこんで来る。もちろん見慣れた顔はない。
男たちのその姿は、地獄の悪魔たちを思わせた。
元の色がわからぬほど返り血を浴びた鎧。まだ凝固していない血が、彼らの持つ剣から滴ってもいた。そこにいる誰もが、ただ、血に飢えたような瞳をしているのが印象的だ。
その男たちの間から人ごみを掻き分けるようにして、一人の男が前に進み出てきた。
「エルフィ国王、でよろしいか」
「さよう。そなたは」
「私はアダルベラス軍の将軍、ゲイツと申す者。以後、お見知りおきを」
言って頭を下げてから、そして目だけをこちらに向けるように少し顔を上げる。
それは、「以後」など決して訪れない、と言わんばかりの視線だった。
ああ、ついにこのときが来たのだ。
男の心の中にごくごくわずかに残っていた希望が、瞬時にして消え去った。
そのときだ。ふいに背後から人の気配がして、振り返る。
ほのかに花の香りがする。この香水を使っているのは。
隠し扉からやってきたのだろう。彼のたった一人の愛しい娘、サーリアが寝衣のまま、そこに立っていた。
どうして。
ここには来させないようにと命じたはずなのに。
……いや、心のどこかで最期に娘に会いたいと願わなかったか? あの隠し通路からやってきてくれないかと心待ちにしなかったか?
なるほど愚王の思考よ、と自嘲的に小さく笑う。
彼女は背筋を伸ばして辺りを見回してから、わずかに眉をひそめ。
そして口を開く。
「控えよ!」
それは、凛としてよく通る声。
「エルフィ王の御前である。足を止めよ、恥知らずども!」
毅然と言い放つ少女のほうに視線を向けたとたん、ゲイツは目を見開いた。
それから、ほう、と声を洩らす。
「これはこれはお美しい。あなたがサーリア王女で間違いないな?」
「お前たちに名乗る名はない」
こんな場にまったくそぐわない少女の言葉に、だが兵士たちは嘲笑を向けることはできないようだった。
美しい少女の体中から溢れ出んばかりの気品が、その言動も当然と思わせているのだ。
事実、さきほどの彼女の一喝で、あとずさった兵士も多数いたほどだ。
本当に王にふさわしいのは、彼女なのだ。
男の胸中に、そんな思いが沸き起こった。
だからこそ、彼女を渡すわけにはいかなかったのだ。
「少し、娘と話をしても?」
できる限り穏やかな口調で、男は言った。将軍は小さく肩をすくめて返してくる。
「我々にも、情けはある」
そう言って、意思表示のつもりなのだろう、一歩だけ下がる。
それを見て男は、なおも兵士たちを睨みつける少女に向かって手招きをした。
「お父さま!」
彼女は一目散に男の元に駆け寄ってきた。
「来させないようにと言っておいたのに」
「私が勝手に振り切って参りましたの。私の侍女たちをお責めにならないで」
その言葉に笑みが零れる。彼女は昔から、こういう人間だった。
「ああ、大丈夫だ、サーリア」
男は愛しい娘の名を呼ぶと、隣の椅子を手のひらで指す。
「ここへ座りなさい。いつものように」
サーリアはわけがわからない、という風に眉をひそめたが、男の言う通りに玉座の隣の椅子に腰掛ける。
王の隣には本来、王妃が座るはずであるが、彼女の母親は彼女を産んだあと、すぐに命を落とした。
王妃の命と引き換えに産まれた王女は美しく成長し、いつも王妃の代わりに玉座の隣に優雅に腰掛けていた。
月の光のごとく輝く銀の髪。深い海の色の瞳。つややかな桜色の唇。たおやかな肢体。細くなめらかな指先。すべてが美女と呼ぶに相応しい。
彼女に出会った者は皆、口々に言う。それは、天使のごとき微笑よ、と。
ああ、なんと罪深き美貌であろうか。そして、なんと魅惑的な微笑みであろうか。
「私は見たのだよ。お前が産まれたとき、天使が空を羽ばたいたのを」
「今はそんな話を……」
「いいから」
娘の言葉を制すると、男は優しく彼女を見つめた。まるで周りには誰もいないかのように。
「この話は何度も聞いただろうが」
「ええ、皆が私にしてくださるわ。私が産まれたとき、天上に三人の天使が現れて、生誕を祝福するように空を舞ったと」
「その通りだ」
男は娘の言葉に満足して、大きく首を前に倒す。
しかし娘は納得しかねるようだった。いつも彼女はこの話を聞くたびに、居心地悪そうにしていたものだ。
「でもそれは、お母さまが亡くなられたから、私の誕生が不吉なものにならないようにと……」
「いや」
男はゆっくりと
「数人の者が見たと言っておる。それに誰がなんと言おうと、私自身のこの目で確かに見たのだ。お前は、『神に愛でられし乙女』なのだよ」
この神の愛し子が自分の娘だとは、なんという奇跡だろう、と思う。
「お願いがあるのだ、サーリア」
「……なんでしょう」
「微笑んでくれないか、私のために」
そう言って笑った。でもそれは、彼女には笑みに見えただろうか。彼女の瞳から涙が零れ落ちそうになっていた。
けれども涙は流れない。そうだ、男が言ったのだ。王女たるもの、決して人前で涙を見せてはならぬ、と。
だから男は、努めて明るく言った。
「『神に愛でられし乙女』の微笑みは、見る者をすべて幸せにするというからな」
無理矢理にでも笑わなければ。でなければ、彼女はきっと堪えきれずに涙を零すだろう。
だから男は努力した。この場に不釣合いな爽やかな笑みを浮かべていると、自分でわかった。
娘は口元をきゅっと強く結ぶ。涙が溢れそうになるのを懸命にこらえている。
男は手を伸ばして、娘の手の上に自分の手を乗せた。彼女の手が小さく震える。
「サーリア」
「わ、私が笑うとお父さまが幸せになれるというならばいくらでも。でもそれは生き残ってから……」
「いや、今でなければ。私はこの国を滅ぼした愚王として死なねばならぬ。お前に微笑んでもらえたら、こんな私でもきっと神の国に行ける」
男の言葉には、娘にとって聞き捨てならない言葉があったようだった。ぴくりと身体を震わすと、こちらに顔を上げてきた。
「愚王?」
男はその問いに応えず、ただ口元に笑みを浮かべた。娘は慌てたように、自分の手に置かれた男の手を握り返してくる。
「この
「お前もいずれ知る日が来よう」
「お父さま?」
「さらばだ、サーリア。お前だけは、どうか幸せになって欲しい」
男は最後にもう一度、愛しい娘の顔を眺めた。
死んだ王妃によく似た可愛い娘。腕をそっと伸ばし、その頬を撫でる。
それから、正面に向き直ると声を張る。
「私の首をもって、この戦を終わりにして欲しい。もう誰の命も奪わないよう」
将軍は、少しだけ肩をすくめて返してきた。
「我々も無益な殺生をするつもりはない。ただ、戦利品を一ついただいていくが」
その言葉に、ため息が漏れる。
どうせこんなことになるのなら。そうだ、決断が遅すぎたのだ。
「彼女には決して手荒な真似をしないよう頼む」
「もちろん」
将軍は腰に佩いた長剣をすらりと抜いた。それはまだ、誰の血も吸っていない輝きを放っていた。
よく見ればもう一本剣が腰にあり、その柄にはエルフィの紋章が入っている。
誰かから奪ったのだ。最後に王の首を斬るために、自分の剣を使わずにとっておいたのだ。
なんという力の差だろうか。最初から、この結末は決まっていた。
将軍はゆっくりと歩み寄ってくる。そして大きく剣を振りかぶった。
しかし、そこで動きを止める。
「目を閉じなくても?」
「ああ。最期まで見届けなければ」
これは、自分の罪だ。受けねばならぬ、罪なのだ。
剣が振り下ろされたのが見えた。最期に、渾身の力で叫ぶ。
「エルフィに未来永劫の幸があらんことを!」
そして。
男の世界は、終わりを告げた。
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