彼女の矜持

きさらぎみやび

彼女の矜持

 都会の生活に疲れ果て、流れ着くように移り住んだ片田舎の住みかは築何年だかも良く分からないような古い家なので、何しろ隙間が多い。きっちり窓も扉も閉めたつもりなのに今頃の季節になるとどこかからか秋風が忍び込んでくるような始末で、夏場はほとんど気にならなかったのだけど、こうも朝晩が冷え込んでくるとさすがにやせ我慢するのも厳しくなってくる。隙間を見つけるたびに新聞紙を丸めて塞いでみるものの、どこをどう通ってくるのか家の中でもそよ風が吹く。


 隙間がある、という事は侵入がしやすいという事でもある。そよ風はまあ致し方ないにしてもこういう土地柄だと生き物が侵入してくることがあるという事に移住してから気がついた。


 この辺りは下手をすると観光ガイドに掲載されるくらいに猫が多い。

 どうやら地域ぐるみで猫の保護活動をしているらしく、耳にV字の切れ込みの入った猫は去勢手術をした猫らしい。そういうこともこの地に来てから初めて知った。

 そんな話を人にすると「うらやましいですね、猫と一緒に暮らせるなんて最高じゃないですか」などと言われるのだけどあいにくと僕は特に猫好きというわけではない。どちらかというと犬派だった。


 こちらに興味がないことを分かっているのか、ときおりすれ違う猫もこちらを特に気に掛けるでもなく飄々とした顔で歩いていく。そんな生活でもある程度過ごしているとなんとなく見たことのある猫がいることに気がつく。ちょっとした顔見知りのようなものだ。人よりも猫とすれ違う事の方が多いような町なので、そうなるとこちらも会釈するわけではないが多少なりとも反応に違いが出て来るものだ。すると不思議なもので向こうもこちらが個体を認識していることを理解しているのか、立ち止まってこちらをじっと見つめてきたりする。


 しかし猫は猫、人は人。猫を猫可愛がりするような人間ではないので、ちらりとお互い気にかけていることを意識するくらいの関係だった。


 だんだんと肌寒い日が増えてくると、猫の方もこの気候のなかで居心地の良い所を探すのか、どうも我が住まいのどこかに侵入してきている気配を感じるようになってきていた。


 夜、一人静かに布団にくるまっていると、天井裏で何かが動き回る音がする。大抵は静かに歩いているようなのだが、鼠でも捕まえているのか、ときどきバタバタバタッと走り回る音が聞こえるようになった。


(……まあ、鼠でも捕ってくれるのなら、気にしないでおこう)


 そう思いながら布団をかぶって二度寝する、というような暢気な対応だったからなのか、徐々に彼らの活動は大胆になってきていた。

 我が家の台所の天井は長年の水気を吸っていたからなのか、どうにも脆くなっていたらしく、ある日の夜に台所でお茶を沸かしているといつものようにバタバタと天井裏を走り回る音がする。


(今日も寒いのに元気なもんだ)


 などと思っていると、たまたま脆くなっていた天井板を踏み抜いたのか、突然、バリンという音と共に猫が降ってきた。

 これにはお互いびっくりである。

 こちらもあちらも目を丸くしてしばし見つめ合うと、彼だか彼女だ分からないがその猫は慌てて家から逃げ出そうと部屋の中を縦横無尽に走り回る。こういった時の猫の動きは凄いもので壁も垂直に走るんじゃないかというくらいの勢いで別に捕まえやしないのだが必死に逃げ回っていた。しかし戸締りしているから逃げ場はなく、こちらも走り回ってあちこち物を壊されては困るので玄関を開けて外へと逃がしてやった。安全だ、と思うところまでその猫は逃げていき、そののちこちらを伺うように見つめてくるのに軽く手を振ってから扉を閉めた。


 その出来事が猫の集会で共有でもされたのだろうか。

 あいつは侵入しても特に怒らないぞ、という噂が猫の間で広まったのかは知らないが、侵入猫をしばしば見かけるようになった。

 こちらも特に気にすることもなく、見かけたら窓なり扉なりを開けて追い払うくらいの対応を繰り返していたのだけども、ある日二階の寝室に上がるとなんと僕のベッドで母猫が子猫を生んでいた。


 さすがにこれには驚いた。


 気が立っているのか、僕を見るとシャーッ、と威嚇してくる。いやシャーッって言われても、そこ僕のベッドなんですけど。

 引っ掛かれるのも面倒なのでその日は居間のソファで寝たのだが、翌朝にはもっと安全な場所を探しに行ったのかその猫はいなくなっていた。掛布団はダメになったけど、どうせボロだったしと諦めて羽毛布団を奮発した。


 どうも僕の家は猫の緊急避難所に認定されたらしい。


 少し弱ったらしい黒猫が家の周りをうろつくようになったので、放っておくのも気分が悪く地域猫の世話係の方に相談すると、面倒を見てもらえないかと逆に頼まれた。


 基本的に家には入れない。

 勝手に侵入する分には防ぎようがないけど、そこは僕と彼女(どうやら雌猫らしい)の明確な区分けだった。彼女は元々体力がないのか無理に屋内に侵入することもなく、僕が用意した餌をいつの間にか食べていなくなるという態度から徐々に慣れてきたのか目の前で餌を食べるようになった。僕もなんとなく声をかけてみたりする。


「美味しいかい?」


 そうすると彼女はこちらをちらりと見ながら舌をぺろりと動かした後、にゃあ、と返事をするかのようにひと鳴きするのだった。



 本格的に冬が訪れて、羽毛布団が大活躍となってきた頃には、いよいよ雪がちらつくようになった。


 そんなある日、二階の寝室で毛布にくるまっていると、窓をカリカリと引っ搔く音がする。窓を開けると彼女がちょこんと座っていた。わずかに体が震えているから、どうやら寒さに耐えきれなくなったらしい。どうにも可哀そうに思えたので窓を大きく開けて、「入るかい?」と聞いてみる。しかし彼女はにゃあ、と鳴くだけで決して窓から内側には入ろうとしなかった。窓の付近に座り込み、屋内の暖かさで体を温めると、震えも収まったのかそのまま彼女は去っていった。彼女には彼女なりのけじめがあるらしく、それは僕を感銘させるのに十分だった。


 なるほど猫にも猫なりの矜持というものがあるのだな。


 そう思うと食事を差し出すのもどことなく恭しくなろうというもの。元々女性らしさをその仕草に纏わせているのが猫という生き物だが、それ以来僕はまるでお嬢様に傅く執事の気分だった。


 だが今年の寒さは知らず知らずのうちにお嬢様の生命力を奪っていったらしい。食事の量が徐々に減っているなと気をもんでいると、食事を残してこちらの足にすり寄るようになった。


「もういらないのかい?」


 尋ねながら背中を撫でてやると、それに怒ることもなく、にゃあ、と返事を返してきた。撫でた背中は肉があまりついておらずに骨ばっていて、いよいよ医者にでも連れていくべきだろうかと考えているとその翌日に、本当に唐突にお嬢様は僕の家の玄関の前で静かに息を引き取っていた。


 猫は人間に死ぬところを見せない、というけれど、お嬢様は僕の家を最期の場所に選んでくれたらしい。


 僕は自分でも驚くくらいに泣きはらしながら彼女を家の小さい庭に埋めてやった。


 盛り土をして、その上に墓標代わりの石を置く。名前もつけない間柄だったから、石に刻む文字はない。ただ僕の中で彼女はいつの間にかすっかり「お嬢様」だった。



 彼女の凛とした態度を思い出しながら手を合わせていると、後ろに気配を感じた。


 ……彼女が最後に僕の事を紹介でもしたのだろうか。


「こんにちは、君が新しい入居希望者かい?」


 僕が尋ねるとまるで言葉が分かっているかのように、その猫はにゃあ、と一声鳴いて答えるのだった。

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