第27話 Ατλαντίς
第三対災ステーションAIが時報をお伝えします。
西暦三二八一年 九月一四日 日曜日 午前八時です。
第三対災ステーションは月軌道を航行中です。
「アコウギさん、目を覚まして、起きて」
穏やかな涼しい風。何度も繰り返される声と共に、頬が叩かれる。眩さに目蓋を開く。視界の中央に、膝を折りこちらを覗くレーグルのいまにも泣きそうな顔が見えた。――視えた。ほかは全くぼやけているのに、光を発するその小さな頬が、冷え固まった水の瞳が、黒い髪が、はっきりと確かに見えた。
「や、やったぁ……。今度は夢じゃないですよね、生きていますよね。わたしが、見えますか。ねぇ、何か、何か、はやく応えてくださいよ」
震える声で、必死に
「ぁ、あぁ、おはよう、レーグル」
「う、うぁあああああああああっ」
黒髪の少女の叫びに共鳴して目が覚め、凪いだ感情が色を変えて一気に決壊する。涙は、まだ枯れていなかった。上半身を起こし、
いくら経っただろうか、落ち着いたころ、俺はようやくレーグルに尋ねた。
「どうやってきた」
「飛んできました、一人で、地上から」
「嘘だろ」
「嘘じゃないです。何てったって天才なので、へへっ」
涙声と不満そうな口調でそう答えた彼女は、しかし柔らかく表情を崩し、こっちです、と俺を先導した。生きているものしか見えない。狭く限られた視界に迷いそうになる俺をよそに、小さな黒髪の少女は何の困難もない様子で複雑な順路を抜け、後方展望室と記された部屋に入った。
「八○年も時間を潰していたんですから、この第三対災ステーションでわたしに分からないものはないですよ」
俺の視線に気付いて、笑って言う。六○○年が経って、一つの老いの兆しもないレーグル。あぁ、きっと俺もそうなのだろう。たった二割の共通項が解き明かした生命の神秘は、胸のなかに途切れない無限の熱を持ってあった。奇跡というやつだ。シルダリアのいう人類の真理の一つに、俺たち二人は到達していたらしかった。
「小さい方が地球で、大きい方がオルエイクハル星です」
指に従って目を向ければ、遥か彼方の暗い闇のなかで、大小二つの球体がいままさにぶつかり合おうとしている。大きな球体は小さなそれと比べて五倍程度の体積だ。レーグルが言ったことには、生命体の存在しないオルエイクハル星の外殻には複数の巨大な墳進機が残されていて、その自立制動によって遥々この地球まで辿り着いたらしい。寂しさと、恨みと。
「おいていかないで。そんな遺志を、感じる気がしませんか」
黒髪の少女の芸術家染みた問いに、俺はそうだなと頷く。ずっと前に聞いた
「あそこに空はないですけど、行ってみますか」
「止しておくよ。何も見えそうにない」
「ええ、そうですね」
星が死ぬとしたら、きっと単細胞生物のそれに似ている。小さな球は、岩石の表皮を熔かし、形を崩して大きな球に注いでいく。そして、大きな球もまた、質量を増して膨らんだかと思えば、自転の速度のまま割れ、砕けて飛び散る。もっと目が良ければ、大気の摩擦で極光に染まった鮮やかな接地点を捉えることができただろうが、もはやそれは叶わない。俺たちは、もう生きているものしか見えないのだから。
第三対災ステーションを静かに揺らす重く長い衝撃波と、AI放送による高熱源及び振動警告だけが、遥か彼方の闇に浮いた図形が織り成す終末の色合いを教えてくれる。軌道を計算されていたのだろう、この宇宙機に直撃するはずの大小の岩塊は、すっと射線上に入り込んだ月によって全て防がれた。
一人にしてしまって、ごめんなさい。そう謝ってから、再び静かになった船内でレーグルは語り出した。日が翳り、超高温の岩石片の降り注ぐ死に満ちた環境のなか、レーグルとシルダリアの二人は教会建築のさらに下部に用意されていた地下室に籠り、残された資料を頼りに宇宙機に関する研究を始めた。狩れる
わたしはシルを死なせたくなかった。レーグルは言う。黒髪の少女の怪我はあの戦いあと超自然的に回復したが、対するシルダリアの負った重篤な傷はそのままだった。胸のなかにある無限の熱の感覚から、自らに甚大な変化があったことを悟るのに時間は要らなかった。空腹も病もなく、どんな大怪我だってすぐに治せてしまうことは、
揺れる吊り下げ式の照明、机に詰み上がった研究資料に、壁に張り付いた設計図と無数の討論の書き留め。もう半世紀近く二人で過ごした広い地下室。その奥で自作の寝台に横たわったまま浅く息をするシルダリア。
十分な設備がないから、大きな彼女の怪我を上手く治療することはできなかった。しかし、最後の最後で餓死だけはどうにか防げるかもしれない。二人以外の地上の生き物たちは絶滅したが、まだ食べられるものはある。小さなレーグルの身体がそうだ。黒髪の少女は何度も必死にこの方法での延命を勧めたが、同じ超然的な女性は一回目以降きっぱりと拒否したという。工業用の切断機に挟み込んで無理矢理切り落とした黒髪の少女の右腕を口に入れたシルダリアは、
「アコウギさんに、シルから届け物があります」
レーグルは部屋端から一つの黄色い石片を持ち出した。扁平なそれには、俺の知らない文字が記してある。古代ギリシア語というらしいそれを、彼女はゆっくりと翻訳してくれる。
大きな陸が海に沈んだ日から、およそ一万一○○○年後、この星は終わる。
友人たちよ、空を目指せ。
「アトランティス。わたしたちの時代には幻だと思われていた大陸です」
レーグルが補足したことにはこうだ。俺たちオルエイクハルと地球の繋がりはたった八年ではなかった。月の地下には複数人の亡骸が転がった傷だらけの無人艦があり、保存されていた資料を七○年かけて解読したところ、遥か過去の邂逅の様子が記録されているのが分かった。
それは悲劇的な出会いだった。オルエイクハル人の最初の深宇宙探索艦は、航海の途中で星間ガス嵐に巻き込まれ、ほぼ半壊の状態で月に降り立った。既に数人しかいない乗員の全てが小惑星片などの被害によって死に瀕していた。艦内の通信機はオルエイクハル本星に地球の座標と大気構成、生物種の情報を送信した時点で故障してしまったし、航海機能はその一切を失っていた。
数十人しかいなかった傷だらけの探検家たちは地上の微生物に侵食されて全滅が避けられなかった。加えて、地球に持ち込まれた細菌は環境に適応して進化し何度も大規模に人類を襲うことになった。
探検家たちは全滅してしまうおよそ一年の間アトランティス人と協力して多くの構造物を造り上げたが、途中で大陸は天変地異により海底に沈んだ。オルエイクハルの人々は下ろした科学装置で終末的な大災害が未来に想定されることを突き止めると、海神ポセイドンを讃える神殿の床や壁を特殊な金属で合金化し地球の文字を刻んだ。
微生物への対抗策はオルエイクハル本星で長い時間をかけて学問として練り上げられたのだろう。
黄色い石。『
「これが、マヤを始めとするあらゆる西暦二○○○年周辺の終末予言と、様々な古い伝説や遺構の真相であり、また人類を空に向かわせた原点の一つとなったのかもしれません。シルが持っていました。小さいころ偶然見つけたらしいです」
私はずっと怯えていた、そうシルダリアは語ったという。その石の文書をまだ小さな桃色の
降りてきた旧人類たちはオルエイクハルの存在を隠すために古い史料や遺構について語らなかったから、研究は困難を極めた。
「『ねぇ、アコウギ。明日にも世界が滅んでしまうとしたら、どうする』と、ある日シルは縋るような気持ちで尋ねたそうです。そうしたら、あなたは虹を指さして」
「『綺麗だろ。ああなるんだ、悪くない』。そうやって適当に返した」
いままで忘れていたくらいだ。本当にあのときの俺からは必死さ以外の全てが欠落していて、何も考えてはいなかった。石、ひっくり返してください。レーグルが言うのに従って、くるっと古オルエイクハルの遺品を回す。
――励ましてくれてありがとう、ずっと愛してるわ、アコウギ。
裏面に刻まれた文字に、桃色の
アトランティス大陸は海に沈み、降り立ったオルエイクハル人は全滅した。
人間には可能性の分限がある。そう言っているとしか思えないほど、世界にはどうしようもなく酷いことが多すぎた。どうやったって避けられないことばかりだった。身体が震える。また吐き気が漏れ出す。やりきれない。狂いそうだ。気持ちがいっぱいになって膝をつく。零れる涙を抑えられないのは、俺だけではなかった。
様々なことを思い返して、ぼろぼろと泣きながらレーグルは続ける。シルダリアと別れて、ずっと一人ぼっちで地上を歩いた。たびたび寂しくなって空を見上げたけれど、そこには何もなかった。拾った追加の
生きているものしか見えなくなって、やっと分かった。太陽も、月も、星々も、虹も、オーロラも、銀河も、おぼろげに付いてまだ熱のある電灯も、輝いて色鮮やかなものは、あらゆる頭上の世界の情景は、ほとんど命のない、死んでしまっているものだった。地上から離れたあそこは、英知も、愛も、希望も、未来も、全てがあるように見えるだけの、虚無の場所だ。だから、わたしも――。
肩を寄せる黒髪の少女。発される言葉に、俺は黙って頷く。
レーグルが死を選ばないでいてくれてよかったと思った。
旧人類と現人類。俺たちは互いに神であり、人だった。
しかし、前者を名乗るほど無暗に地から足を離したいとは考えなかったし、こんな残酷に壊れてしまうどうしようもない世界を作るような真似はしないだろうと思えた。
桜の木の下に屍体が埋まっているのなら、雨上がりの空には魂が昇っていく。そして、人は死ぬと星になる。弟が溶岩に落ちて死んだ日にも、祖母はそう言った。
二つの星の死者たちは、シルダリアやヘンダーソンは、ヘールは、弟や祖母自身はいまどこに行ってしまったのだろうか。風に流れたのか、地に埋まったのか、それとも、言う通り、燃えるままの星となったのか。また、人以外の全てはどこにいってしまったのか。殺し、死んでしまった
旅を共にした二人と、家族の笑顔が、鮮やかに脳裏に蘇る。
わずかな火花から、炎が立ち上がっていく。
「……あぁ、どこにもやるものか」
涙を拭い、力を籠め、口を開く。どうしようもないとしか思えないことを、最後まで諦めないでいよう。奇跡はこの胸のなかにある。俺は息を吸って立ち上がり、人類の英知が巡ってぼんやりと光る身体を湛えて、ただ運命を呪うばかりの無力でいることをやめた。
死者たちを、この手の届く限り、ありったけ捕まえて、見て、聞いて、思い出し、自分のなかに溶け込ませてしまえ。命の失われてしまった何ものも、失ってたまるものか。色合いばかり鮮やかな空などに取られてたまるものか。地獄も煉獄もごみに捨てたが、天国ならまだここにある。
この二つの星々の死者たちは、決してどこにもやらない。大切に想ってくれたシルダリアとヘンダーソン、奇跡を渡してくれたヘール、愛しい家族たち、ほかの
過去の何ものも無意味にはしない。
忘れずに、全てを着込み、生きて、進め。
「第三対災ステーションは回頭し、深宇宙へ向かいます。乗組員のみなさんは、用意をお願いします」
目配せをして、隣で黒髪の少女が言う。
返事はなく、音もなく、船内は暗闇で満ちている。
しかし、それでいい。俺たち二人の間の蛍光色の揺らめきが消えない限り、何一つここに失われているものなどない。
薬剤の影響か、俺の翼は中途半端な彩度で固まり、色を変えなくなっていた。紅色の差した白銀。それはシルダリアの桃色より淡く、あの花の色に似ている。
六〇〇年の冬眠薬である
死のうと思えばいつだって死ねるけれど、俺たちはずっと生きていることにした。
空を嫌う人たち 最終章 月天 ――了
次話 エピローグ
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