月天
第26話 孤独の神
最終章 月天
第三対災ステーションAIが時報をお伝えします。
西暦二六七六年 一二月二五日 月曜日 午前八時です。
第三対災ステーションは月周回軌道を航行しています。
機械質の声によって俺はまた目覚めた。いままでのことが夢ではないと声高に主張するように、ヘンダーソンの亡骸はそのままそこにあった。彼は熱に燃えて死んだだろうか。大気圧に潰されて死んだだろうか。宇宙空間で息ができなくなって死んだだろうか。戻すにも、腹のなかのものはもうなかった。俺は血走った目を擦り、ふらつきながら無暗に光る身体をおして立ち上がると、足を進めた。
対災ステーションには、十分な食料と
奇跡はきっと起こります。生きてください、アコウギさん。
「何が、奇跡だ」
吐き捨てるほどには気力が戻っていた。知っている。食料をありったけ補給し、
この『第三対災ステーション』という宇宙基地が定期放送で説明することには、このなかに俺を除いた生存者はおらず、十全な防衛機能を持たないほかの宇宙基地は全て破壊されてしまっているらしい。分かっていたことだが、やはり俺は独りだ。どこにも希望などない。
ただ、もうあえて自殺しようとはしなかった。一歩進んで死を想うたびに、脳裏に焼き付いたヘンダーソンの亡骸が現実へと引き戻した。船内を見て回り、誰もいない休眠室で
分厚い窓の向こうには茫漠とした星の海が広がっている。近くに白く浮いているのは、月だ。地上から四○万キロメートル。俺はいま月の向こう側にいる。
背には冷たい機械質の感覚があった。薄暗い気持ちが渦巻く心のままに、レーグルが教えてくれた
俺が縋った歴史学など役立たずだ。ヘロドトスも、トゥキディデスも、ランケも、ブロックも、ル・ゴフも、トゥクヴィルも、ハスキンズも、ブルクハルトも、全員よく知らないがご愁傷さまだ。もう馬鹿な俺しか生きていないのだから、過去はみんなごみになった。
俺が嫌った天文学もまた欠片ほどの価値もない。プラトンも、プトレマイオスも、コペルニクスも、ガリレオも、ブラーエも、ケプラーも、ニュートンも、アインシュタインも、ハッブルも、ガモフもいまさら何だというのか。俺はこの宇宙機がどうやって動いているか見当すらつかないというのに。
同じ理由で、言語も倫理も、ほかのあらゆる地域に根差したことは値打ちを失った。軍人でも研究者でもなく、
乾いた笑いが漏れる。ともすれば、生きている俺は神様みたいなものではないか。何しろ人類の全てが自分ひとりによって左右されるとも考えられるからだ。いまや世界はこの矮小な脳のなかにあって、その支配権は俺にある。水を冷え固まらせると体積が増すことや、三角形が二つの鈍角を持たないことを知る者はほかにいない。一日が三○時間で、一メートルと
ならばこの俺は、レーグルが教えてくれたところの、ヤハウェか、オーディンか、デミウルゴスのような、何かなのか。または、ほかの世界を破壊する神様なのか。ふざけた話だ、そんなはずはない。俺はただの俺だ。こんなものなら怪物だった方が良かったとさえ思えるくらいの、空虚な個人だ。
有名な哲学者の絵画『学堂』、
アシロマ会議や後続する国際サミットはもはや錆び付いた遺物に過ぎない。生命倫理専門調査会も日本学術会議ももはや滅んだといっていい。いまさら躊躇うことはなかった。第三次世界大戦は大きな犠牲を払いながらも終結し、日本国には辛うじてゲノム編集の技術が残された。学問的な英知の極点とこれからの再生医療の進歩を目指し、私たちはオルエイクハル星の友人と共同して日本の遺伝子工学の粋を尽くした。
大戦では身元の特定できない犠牲者が多く出た。伊方原子力発電所に落ちた大質量爆弾の犠牲者、四肢欠損、脳死状態の身寄りがなく名も知られない少女が、私たちの縋るべき人物だった。
アルブミン遺伝子を基盤にした複雑なゲノム編集を施し、オルガノイド治療で人工生体脳と内臓を組み入れて造られたAndroid-VER.1認識個体名『
VER.1は目的の筑波研究センターに収容して活用しているが、来るべき第六次大量絶滅期に際し、我々は独自の防衛策を取る。バックアップ個体としてVER.1の複製、クローンを製造する。クローンはオリジナルに知られないよう対災ステーション搬入まで休眠状態におくが、オリジナルに何らかの機能不全が起こった場合に『
愚かな戦争の時代は終わった。
再び光を得た彼女が、人類再興の希望の星となってくれることを祈るばかりだ。
この世界は俺を
この世が平穏であったのは、誰か無力のお陰だ。
あるいは、誰かの無関心と、怠惰と、忘却のお陰だ。
そして、あの子を奪い去って仕舞えなかった、僕の臆病のお陰だ。
あぁ、僕は空が嫌いだ。
僕からあらゆるものを奪い去った、空が嫌いだ。
もう虹も、雲も、雨も、なくなるとしても、いつまでだって上にある空が嫌いだ。
だから、どこかでこれを読む誰かがいるなら。
空を嫌って欲しいし、空からくるものを愛さないで欲しい。
――
ふと、これまでのことを思い返して、気付いた。『肩部ID―VER.2認証しました システム再起動』、VER2、つまり第二版。俺が出会った『レーグル』は複製の方だ。彼女の本体はほかのレーグルたちに先んじて降下できていたが、途中で何らかの事故によって瀕死の重傷を負い、その記憶が古都ツクバの
「何なんだ……何なんだよ……」
はぁ、と深い息を吐く。ため息しか出ない。正面の窓を見ても、相変わらず驚くほど不細工な月と、図体以外に取り柄のない太陽と、塵の塊にも似た地球が、俺を嘲笑うように鎮座しているだけだ。
もはや何もかも枯れ果て、冷たいばかりに思えた身体に熱が籠るのが分かった。この情念は何だ。少なくとも虚無ではないだろう。旧人類の
六○○年間の身体の冬眠を引き起こすという
紙の二枚目からは日記のようで、こう書いてあった。
限られた旧人類が宇宙空間に避難して以降、へール率いる地上に残された科学者の集団は、大震災の津波によって崩壊したつくば市を模した避難設備を造った。それは地上に残った旧人類を護るための要塞でもあったが、旧人類は外環境の変化に耐えられず絶滅してしまい、護るものを失った都市から翼を持った強靭な異星人たちは飛び立った。
恐らくこれが、現在の七つの都市の生活圏の基本となる定住を生み出したのだろう。旧人類の遺体はそれぞれの故郷の近くに埋葬するために持ち出されたそうだ。ヘールがツクバに一人残って、レーグルの帰還を待つという意思を固めたというあたりで、日記は終わっている。
しかし、めくれば、もう一枚紙がある。それには『不老不死補助剤について』と表題が付されていた。不老不死。第三次世界大戦の原因となった実に思い上がった間抜けな言葉。レーグルから聞いた以外にも、有史以来ずっとそうした研究が多くの場所で行われていたらしいことは
俺やこれを書いた根性なしのように、誰もが無力で、無関心で、怠惰で、忘れっぽかったなら、世界はまだしばらくの間は平穏だっただろう。何もかもいまさらで、馬鹿馬鹿しい話だ。全身を襲う強い眠気をおして読む価値があるものなのか疑問を抱きながら、一応それを確認する。
書いてあることはこうだ。へールはオルエイクハル星から持ち込んだ水棲生物と地球のあるヒドロ
たった二割の遺伝子しか共有しない僕たちの星々が起こした奇跡だ。彼はそう前置いたものの、強化型GFPをお互いの身体に適切に取り込むにはあまりに大きな壁があった。成分に薬物として効果を発揮させるには『
結局のところ、彼らの努力はやはり無駄になったようだ。
この薬剤に関連する史料は現伝していない。遥か昔の大災害は何もかもが粉微塵に壊された破局的なものだった。俺たちが地球人の進化種であると誤解するくらいに、数少ない文明の断片しか残りはしなかった。熱に浮かされず冷静な頭で考えるなら、ヘールの書いた薬とやらも既に失われて久しいのだろうということは簡単に分かる。
また、仮に奇跡的に保存されていたとしても、見つかっていなかった可能性もある。
大きく伸びをして、誰もいない鋼の船で身体を横たえる。ささやかな息遣いすら咎めるように、無遠慮な照明の光が全身を打ち付ける。食料は横にある。腹は減っているが、虚無感と、脱力感と、眠気が勝った。視野が狭まっていく。身体から漏れ出る明かりで照らされていないものが消えていく。元来災害が早まらなければオルエイクハルの人間も宇宙基地に避難する予定だった。遺伝子の違いに少し期待したが、ご丁寧にしっかり考慮して造られた永遠剤の効果と副作用は俺にも働くらしい。
はぁ、とあくびが出る。手に持った紙、『不老不死補助剤について』。文句を付けながら眠たい頭と目でその最後の行を読んで、あまりに適当に読んでいたために、途中の三行分くらいを飛ばしていたのに気付いた。首を振って目線を上にやり、歪んだ視界にそれを捉える。そして、脳が理解すると同時に、眠りにつく。
併用するべき
熟成期間が過ぎ、この薬物が不老不死補助剤として使えるようになる目安は、一つ。
――飲んで、身体が光ることだ。
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