第25話 終末ー1 俺を撃ち落とせ

 地下を抜けたところで見えた、街の奥に浮く桃色の服状翼ふくじょうよく。このままでは俺を乗せた宇宙機は飛んでいく。飛んでいけば、誰もいなくなる。誰も見えなくなる。頭上では空が待ち構えている。距離が縮まる。近付いてくる。迫る。あぁ、触れてしまう。ふざけた色の揺らめく空が宇宙機ごと俺を呑み込もうとする。


 弟を失った日のことを思い出す。

 俺は空が嫌いだ。大嫌いだ。いまや何より嫌いだ。

 空は、俺を、独りにするから、嫌いだ。

 桃色の服状翼ふくじょうよく、彼女の持った、銀色の銃。それで、


「――俺を、撃ち落とせぇええええッ!」


 身の全てが紅く染まりそうな思いで、叫ぶ。

 一息遅れて、悲しみを噛み殺した小さな悲鳴が返ってきた。


 遥か遠い巨星の死が照らし上げた昼。ふらつく視界で電力板を見れば、その幻想的な景色が羽搏いて眼前に浮いている。彼女の願ったように、俺が空を好きになることは決してないだろう。声でそれを悟って一瞬で色が変わった。あれだけ揺ぎなかった桃色はもうない。緑と紫の帯を引く天空を背負った冷え固まった水の色。馴染みのない正しい言葉でいうなら、どうしようもない絶望を乗せた氷の翼。


 美しい頬に流れる涙、絶叫、振り上げられる腕、向けられた銀色の銃口、引き金にかけて震える指、輝く義翼板ぎよくばん――直後、土煙が奔り、圧倒的な閃光と爆音。


 日輪を背に冠して神々しく中空に浮いたシルダリアは、こちらに向かって銀色の銃の一撃を放った。しかし、それは俺に死をもたらすことはない。眼前の電力板は、両肩の生体部品から粒子の羽根を拡げて浮遊する小さな少女の背中を映している。街の周囲にある一三・二一メートルの円錐のうちの一基が女性二人の間に盾になるように浮いていた。ふざけた威力の銃撃を浴び、大きく拉げ、凹んだそれは、傾いてゆっくりと墜落する。


 中原愛星なかはらかほ・肩部生体システム起動。

 架橋金属かきょうきんぞく通電、能力『恒星のような里程標たちアステロイド・マイルストーンズ』運航開始。


 電力板の画面に文字が浮かぶ。とんでもない地鳴りが消えるより前に、鎮座していたほかの五基の円錐が滑り流れるようにレーグルの隣に飛んでくる。それらは砕け、また複雑に組み合わさって、三角柱、四角錘、紡錘、球、正二四面体など、数秒ごとに変形する鋼色の立体物となり、紫電を放ちながら中空に座した彼女を周回する。


 日輪に似た同心円状の義翼板ぎよくばんを負って銀色の銃を構えるシルダリア、絶えず形を変えて回る立体物の中心に浮くレーグル。大小の超科学の女性たちはじっと睨み合うと、いくつか俺の聞き取れない言葉を交え、激突した。


 一瞬深く沈んだ氷点下の服状翼ふくじょうよくが空を縫い、音を置き去りにする速度で横合いから黒髪の少女を捕まえにかかる。それは再び盾として入り込んできた直径八メートル超の半球の底面に受け止められるが、シルダリアの背にあった義翼板ぎよくばんの三枚目が輝き失活すると同時に、追加された莫大な推力のまま二人ともが街の中央に突き刺さる。


 着弾の爆音の直後、眼下をく青白い閃光。土煙を吹き払うように、立体物の一つが電磁加速的に撃ち出され、眩い軌跡を引いて覆い被さらんばかりの巨体を弾き飛ばす。しかし、立て続けのもう一撃の弾丸は人体の性能を遥かに凌駕した無茶な腕力で殴打されるままに地面に叩きつけられ、三発目はぶつかり合った銃撃の威力に押し負けて反対に黒髪の少女の遥か後方に吹き飛ばされた。


 瓦礫のなかから流れるように持ち上がる黒焦げの内腕。銀色の銃口がこちらを向き、音を鳴らす。再び割り込んでくる小さな少女の背中。直後、閃光と爆音。正面で盾となった全て、レーグルを周回する立体物の四割が熔け落とされる。小さく白く綺麗な柔らかい肌はもう見る影もない。けほっと咳きこむ声。ほんの数秒で擦り傷と打撲痕だらけになった黒髪の少女の口から、冗談では済まない量の赤色が漏れる。狂いそうだ。血まみれの全身に少しばかり光を発する彼女は、こちらに振り向き笑いかけると、急加速して同じく満身創痍のシルダリアに正面から突っ込む。


 下に見えるのは地獄だった。剣に、槍に、弓に、図形を超えて変形を繰り返しながら、暴威を吹き散らす標準塔ひょうじゅんとうの断片。そして、義翼板の推力と破壊的威力の銃撃を伴って相対する巨大な影。瞬く間に現人類でも身体がばらばらになりそうな一撃が幾度となく放たれる。轟音が地面を揺らし、青白い閃光が奔り、空気が焼ける。絶え間なく爆炎が上がり、建造物が薙ぎ払われて、瀝青れきせいの道路の欠片と、血に濡れた狂い咲きの桜の花びらがきらめきながら宙を舞う。


 次第に高度を上げていく宇宙機のなかで、俺は声の限り叫んだ。

 なぁ、分かってくれよ。言っただろう、レーグル。

 俺は嫌いなんだ。空が嫌いなんだ。

 もう全て教えてもらった。それで満足だった。十分でこれ以上なかった。

 俺以外の誰が生き残ってくれたって良かったのに、どうして俺だけなんだ。

 ふざけるな。空からきて、空に俺を近付けるばかりのお前なんて……。


『嫌いだ』。その一言が胸から喉に込み上げ、脳裏に残ったままの傷だらけの少女の優しい微笑みと混ざりあって、嗚咽に形を変え、漏れる。


 宇宙機は本来膜があった位置を超え、いまだささやかに吹く風のなかに飛び込む。もうどうしようもない距離まで離れ、はっとこちらを見上げた女性二人の姿を最後に、斜め眼下を映し出していた電力板は淡い空気の壁に濁った。


 冷え固まった水の色の服状翼ふくじょうよくも鮮明に網膜に焼き付いている。あぁ、シルダリア、空を好きになれなくて、ごめん。本当にごめんな。口腔を切ったのか、漏れるまま血が吐き出される。もう舌を噛み切る気力もなくなった俺は、強くなる重力に負け、床に身体を預けた。


 しかし、また一人の静寂が戻ってくると思った耳に、音が響いた。風に煽られて部品が剥離したのか、天井付近から断続的に獣の鳴くような歪な雑音がする。電力板で確認できないので分からないが、この宇宙機にも何かしら不備があるのかもしれない。祈空領きくうりょうで見た爆発事故。それを夢見て、横たわる。


 倒れたまま、何の感慨もなく画面に目をやる。宇宙機の速度が上がり、莫大な量の空気を圧し潰して映像が炎に染まる。起動した冷却機能のために不気味に身体が冷たくなる。熱圏ねっけん。古い言葉が目に映る。どうやら上層流臨界高度じょうそうりゅうりんかいこうどの遥か上を通過しているらしい。緑と紫の天幕に突っ込みながら地界ちかいでの日々を思い返していると、しばらく俺に寄り添って希望を与え続けてくれた雑音はいつの間にか消えてしまっていた。


 古くは、地上一○○キロメートルから先を宇宙と称したという。色を変えてしまったから、惑星地球はもう青くない。地表は熱の色に染まり、いまにも飛び立とうと第二文明末期世界超層群だいにぶんめいまっきせかいちょうそうぐんを捲り上げて灰の翼を拡げている。死んだ遠い星の光で、全てが昼のように明るい星。両翼を完全に伸ばした意匠で現す正午のこの時間帯は『風駆時かぜかけどき』というんだ。そう、レーグルに教えてやればよかった。レーグルからも、シルダリアからも、ヘンダーソンからも、俺は教わることばかりだった。

 

 地球を去りながら、夢を見た。俺の遺伝子に刻まれた、本当の過去の夢を。

 戦争を避けるため、母星から逃げ出した。

 移住可能な惑星の候補は絞れていたが、旅路は困難を極めた。

 果てなく暗く遠い宇宙。一○○を超える船団は小惑星片の激突などによってその八割以上を失った。燃料も僅か、特殊航法に耐えられるのもあと一回と限られたそのとき、異星からの贈り物は突如として旗艦の艦橋にぶつかった。小さな宇宙機。回収し、内蔵された地図を解読し、辿ると、近傍に目的とする惑星があるらしい。

 信じ、祈り、跳んだ。最後の超長距離跳躍航海ちょうちょうきょりちょうやくこうかいの果てに歪む時空帯のなかから姿を現した青く美しいそれは、まさに希望の星だった。そして、そこに暮らしていた小さな知的生命体たちは、きっと空の救い主に違いなかった。平和。あまりに長い旅の終わり、そればかりが降り立った俺たちの願いだった。


 第三対災ステーション隣接宙域に入りました。

 オペレーション・オート 接岸します


 宇宙機の機械音声で目を覚ます。隕石の激突による岩石群はほとんど地上に降り落ちたらしく、赤かった星が今度は鈍色の煙に巻かれていた。その余波による被害は、遠く離れて電力板に映る標準塔ひょうじゅんとう一五〇基分ほどの大きさの紡錘形の宇宙基地にはなさそうだった。


 少し経って接岸完了という表示が出て、軽く空気の抜ける音がする。密閉状態が解除されたのだろう。手近なものを握って立ち上がろうとする手に複数枚の紙が触れる。この宇宙機を造ったへールという人物の残したものだ。隠すように置かれていたものが、暴れ回った衝撃で出てきたらしい。他人の筆記物を読む趣味はないが、ここに置いていても仕方がない。一通り掴んで立ち上がる。


 円錐の側面を開いて外に出ると、そこは直方体状の白い大部屋だった。部屋端にまで歩いていき、西欧州語古グルームレイク方言で書いてある地図を確認すると、ここは格納庫で、ほかに動力室、休眠室、操舵室など様々な部屋があるらしい。正面に見える通路は俺が通れるくらいには広い。


 どこへ行く当てもないし、特にもう行動を縛られることもない。ふと思いつく。例えば、宇宙機から出た状態でこの格納庫を開閉すれば、俺は一人生身で宇宙空間に放り出され、死ぬことができるのではないか。俺たちは自由を着せられたという。ならば、いまこそがそれを行使するべきときに違いない。焼け付く脳が生み出した天才的な発想に手を叩き合わせ、制御装置を探して振り返った、そのときだった。


 呼吸が止まる思いがした。視界の中央に死体があった。

 死体は俺の乗っていた一三・二一メートルの宇宙機の天井に張り付いていた。

 拡げられた二対の白い服状翼ふくじょうよくは泡立ち、皮膚は骨が浮き出るほど熱に溶けていたが、最期の渾身の力を示すように翼腕の爪を強く噛ませ、滑りやすい円錐を掴んでいた。何が何だか分からないが、お前を独りにはさせない。命はとうになく、その強い意志だけが、ひしゃげて煙の上がる身体に残されている。


 宇宙機の電力板からは正面と斜め下しか見えなかった。

 レーグルと、シルダリアでない、もう一人。

 天井部に響いていたあの異音は、この亡骸は――。


「へ、へっ、は、はあ、ぁぁ、あ、……」


 名前を呼ぶことさえできなかった。視界がぐらつき、床だけが近づいてきて、硬い感覚と、鈍い痛みがした。床の冷たさと、空気を震わせる呼吸の音。腹のなかの全てを吐き出して呻いても、倒れたままでたらめに身体を動かしても、どうしようもなく俺が生きていて、ほかの何もかもが死んでいることが分かるだけだった。




 空を嫌う人たち 第六章 古都ツクバ ――了


 次章 最終章 『月天』

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