第24話 終末ー2 夜を照らし出す昼に

「……月が、二つある」


 いつの間にか日は沈んでいて、吹き飛ばすものを全部吹き飛ばして透明に澄み、風ばかり流れる空には、二つの満月が浮かんでいた。昨日は一つしかなかった月が、二つだ。いやいくら何でも馬鹿げている。終末のなかでいよいよ自分の頭の方が先にどうにかなってしまったのかと思って確認するが、何度見ても間違いない、二つある。人工衛星の光量でも、ほかの隕物の輝きでもない。模様が見て取れないほど強い光を放つ二つ目の月は、さらに莫大に明るさを増し、一瞬ののち、炸裂するように闇夜を晒し上げて昼を作り出した。


 磁波などの影響だろうか、風の吹きすさぶ天上は何十条もの輝く巨大な緑と紫の帯に覆われ、幽玄と揺らめく別世界と化している。まさしく終末と呼ぶべき現実離れした景色。こんな超常的なありさまを脳に描くのは、神話の作家だけだろう。旧人類も、いつかこんな空を見上げたのだろうか。俺とヘンダーソンが言葉もなく感動していると、生物に由来する光源しか認識できないレーグルがその様子に首をひねった。そうか、見えないのか。状況を短く説明するやいなや、彼女は興奮した様子で俺を押しのけ、爆光の差し込む天井の大穴の直下まで走って両手を広げた。


「オリオン座の赤色巨星ベテルギウスの超新星爆発です。まさかこの瞬間に立ち会えるだなんて。生きててよかった。アコウギさん、助けてくれて本当にありがとうございました」


 数百年前に死んだ巨星の光が、いまここに届いている。そう説明を加えたレーグルの言葉を翻訳して伝えてやると、ヘンダーソンも驚いたようだった。レーグルは研究者のそれとも、ただの個人のそれともとれる感銘に目をきらめかせ、何か覚悟を決めたような表情になると、せっかくですからこっちにきてくださいと俺を手招きする。


「うわ、外見の割に狭い。本とか手紙とかめちゃくちゃあるし……」

「それわたしあてですね。あとでしっかり読むので、ちょっと外に出してください」


 円錐状の構造体、『いのしるべ』は、なんとなかに入ることもできるようだった。側面を開けて雑多な内容物を掻き出す。俺には小さすぎる椅子を脇に置いて座ると、正面に見える内壁が横ずれし、一つの大きな電力板が視界を覆った。


 この構造物は愛の結晶でもある。加工して利用されこそすれ、内部に侵入することを許された現人類はきっと俺がはじめてだろう。種々様々の機械が床から浮き出してくることに興奮を覚えていると、レーグルは何かの操作をして扉を閉めた。密閉される音ののちに、電力板に光が灯る。


「レーグル、俺はもういいよ。できればシルダリアとか、ヘンダーソンにも見せてやってほしい。最後にこんな経験をするのが俺だけじゃもったいない」

「――わたしは選べなかったんですよ」


 眼前の画面に、レーグルの姿を含め、正面を見下ろすような画角が映る。


「――『レーグル』権限をもらっていたわたしは、同乗する人を選ぶことができました。けれど、わたしは誰かひとりに絞ることはできなかった。空神様そらがみさまのこの人、ヘールを選ぶなんてもってのほかです」


 想いが籠った山ほどの手紙と本に埋もれながら、小さなレーグルは電力板を持っていない方の手で目を瞑った老人の亡骸の頬に触れた。撫でながら、彼女はこう続ける。


 ヘンダーソンは素敵な人だ。お互い言葉が分からないながら、疑いない素朴な優しさがあった。捜空領そうくうりょうで観光地を回ったとき、わたしの安全にばかり気を張って全然他人の話を聞いてなかったのはいまとなっては笑ってしまう。人生柄、体力仕事の人とは話が合わないかもしれないと思って避けてきたが、それは間違いだったと確信できる。


 シルダリアは凄い人だ。才能と知識に満ち溢れていて、わたしたちの時代の一流の科学者とほとんど変わりがなかった。描空領びょうくうりょうの宴会は楽しかったし、もし筑波研究センターに所属していたなら、わたしやヘールの良い競争相手となっていたに違いない。


「けれど、わたしはいま、三人のなかからあなたを選んだんです。アコウギさん」


 わたしの命を助け、こんな景色を見せてくれた、優しく、力強く、それでいてちょっと卑屈で、この人に似た、あなたを。


 俺は、本当に間抜けで、馬鹿だった。黒髪の彼女が何を言おうとしているのか分かったのは、正面に見える電力板の映像の上に文字が浮き出してやっとだった。

 

 第三対災ステーションまで、残り四○万キロメートル。

 オペレーション・オート 離陸まで、一○、九、八、……。


 対災ステーションには、十分な食料と永遠剤えいえんざいが残されている。

 奇跡はきっと起こります。生きてください、アコウギさん。


「ふざけるなぁああッ!」


 画面の前の彼女の言葉をかき消すように、俺は金切り声を上げて叫んだ。暴れた。内壁を叩き、電力板を殴りつけ、目につくあらゆる機器をでたらめに動かした。彼女はこの円錐で俺を宇宙基地まで飛ばす気だ。冗談じゃない。なぁ、俺一人でどうしろというんだ。あんたが乗ればよかったじゃないか。ここはあんたのために残された街なんだろう。この宇宙機もあんたのためのものじゃないのか。ふざけるな。本当にふざけるなよ。


 どれだけ暴れたって仕方がなかった。制動に関することがらはもう入力されてしまって俺には変更のしようがないし、とてつもなく頑強な作りのために画面を破壊することも可動棒を圧し折ることもできなかった。ただ乱雑に機器を動かしたせいか通信機能は起動され、外部に声は届くままになっていた。


 第○号基 ボイジャー

 どこまでも旅をし、人理の希望を届けるために。


 画面端に出たこの宇宙機の説明に唇を噛み締める。俺たちだって舌を噛み千切って死んでやることができるが、その実践は訪れた浮遊感に遮られた。飛んだ。画面越し、こちらを見上げるレーグルと交差していた視線が外れる。一三・二一メートルもある巨大な円錐が、特殊な未知の力学で、重力に逆らってゆっくりと加速しながら上昇していく。

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