旅の終わりへの島
第19話 アポカリプス・イブー1
第五章 旅の終わりへの島
あれから三日経っても景色はあまり変わらなかった。何度か起こった揺れが眼下の海面を波立たせたり、軍隊の旅団と思しき集団が俺たちに目もくれず飛び去って行くのとすれ違ったりしただけだ。昨日と今日、不気味なほどに風がない。色を変えて重苦しく往来する空気の感じから、どこかで何か良くないことが起こっているだろうことは俺にも分かっていた。
桜の木の下に屍体が埋まっているなら、雨上がりの空には魂が昇っていく。そして、人は死ねば星になる。祖母の口癖を思い出す。オルダの荒れ日の死者たちは、弟や祖母自身はいまどこに行ってしまったのだろうか。風に流れたのか、地に埋まったのか、それとも、言う通り、燃えるままの星となったのか。また、人以外の全てはどこにいってしまったのか。殺し、死んでしまった
冷え固まった宵の空気は、心を沈め、感傷的にするばかりだ。
「俺たちは、たった二割しか同一ではないらしい。最新の遺伝子研究で分かったそうだ」
四方から聞こえる潮騒に、疎らな雲。凪いだ水平に照らし出された憎たらしいほど奇麗な夜空を見上げて、口を開く。
「祭りに紛れて、ほかのみなさんに言われました。わたしたち旧人類は、現人類たちの祖先ではない。そして、このことを決して彼らに伝えてはいけない、と」
沈黙。ずっと長い沈黙。
「ねぇ、アコウギさん。わたしがとっても悪い人だったらどうします」
――例えば、全ての不幸を着込んで落ちてくる、祟りの星だったとしたら。
冷え固まった水の声色。思ったよりずっと平坦な、落ち着いたようにすら聞こえるそれは、しかし、いつか聞いたときと同じ絶望の息遣いをはらんでいた。
なるほど彼女たち旧人類が戦争に使うために現人類と
「レーグル、もし俺が、俺たち現人類が、人工的に生み出された怪物だとしたら、どうする」
沈黙はなかった。不意をつかれ、こちらを冷え固まった水色の瞳で見上げた小さな少女は、困ったような表情でこう言った。
「それは、……嫌ですね」
「そうだろう。俺も、あんたがとっても悪いやつだったら、嫌だよ」
「そっか。あぁ、うん、それは、そうですね」
嫌だ。彼女の口から漏れた、平易で軽さを感じる言葉。それは、装飾されていないだけ真理を突いたものにさえ思われて、意味合いとは裏腹に底まで沈みかけていた俺たちの自意識の不器用な浮袋となった。レーグルは息を吐き、頭を振って身体を起こすと、いたずらっぽい笑顔で
「さっきの遺伝子の話、わたしにして良かったんですか」
「あんたも俺のこと言えないだろ」
「まぁ。わたしたち、ちょっと悪い人たちかもしれないですね」
「そうだな、ちょっと嫌なやつらだ」
俺たちは、ちょっと嫌なやつら。だから、いまさら嫌なやつらになったからといって、なんてことはない。俺が教えられ、彼女が至りかけている最悪の事実も、この悪い予感と焦燥も、ささやかな風に流されて飛んでいけばいいのに。
ふと思い出す。
「そういえば、あの大きな化け物たちから避難しているとき、シルダリアさんも同じことを聞いてきたんですけど、二人して何なんです?」
「いや、ちょっとあんたに似た旧人類を見たってだけの話だ」
「へぇ、ドッペルゲンガーってやつですかね。――おや、アコウギさん、ドッペルゲンガーをご存じない顔をしてますね」
二人で話した。過去の多くの面白いことや、くだらないことをレーグルは教えてくれた。もう何巡したかも分からない問答の末、彼女は一つの質問を投げ返してくる。
「どうして、アコウギさんはわたしに付き合ってくれるんですか。あの中華風の街の担当者の方が言うには、旧人類に専属の
確かに、翼に多く穴の開いた俺も、翼面の狭い
「それは、あんたと一緒にいるのが楽しかったからだ」
ありがとう。思いを伝えると、小さな黒髪の少女は、えへへと照れてほほ笑んだ。天にも地にも夜空を構えた波打ち際で風に柔らかく揺れる彼女の笑顔は、とても魅力的で引き込まれるものがある。
大きく頭上を旋回しながら一つの影が下りてくる。哨戒の交代時間ちょうど、シルダリアだ。俺はそのまま倒れ掛かって寝静まってしまった
しかし、
「ねえ、アコウギ」
大きな体躯の彼女はふわりと浮き、月影を浴びて中空で身を翻す。一瞬の間もなかった。桃色の
「――いまから私に殺されるのと犯されるの、どっちがいい?」
耳を疑う暇はなかった。咄嗟に身を起こそうとしなければ、
「嫌だ、どっちも」
けれど、おかしかった。彼女の腕力は暴れるように上下し、想定していたほどしっかりと抑え込んではこなかったし、その容姿の優美さも、声の艶やかさも、過ぎた誇張のためにひどく霞んでしまっていた。
――だからか、俺は驚くほど落ち着きを取り戻していた。
咆哮。掴み合い、暴れ、波のなかに転がり込み、海水をぶちまけながら二人できりもみ状に飛び上がる。爆発的な速度で中空を駆け、また平衡感覚を失って墜落する。暴風と激震を伴って夜空に散る複数の水柱と、その間を縫う桃色と白銀の軌跡。力を出し切って、秒速三〇〇メートル。熱を上げる翼に、あらゆる景色が線となって遠ざかっていく。動線上に位置した別の小さな無人島群が、俺たちの通過の衝撃によって大波に呑まれて次々に海面から姿を消す。
「あーあ、頭も身体もいまひとつ足りない男ね。だから私に勝てなかったのよ」
「お前がイカレ野郎過ぎたんだよ、俺の六年間を返せ、畜生め」
「私は『野郎』じゃないわ、そういうところよ、不勉強さん」
「
数分かけてどうにかこうにか彼女を引っぺがすと、シルダリアは勢いのまま砂浜に仰向けに寝転がり、思いっ切り悪態をついてきた。俺も疲れに漏れ出す息と共に、押し留めていた暴言を吐き捨てる。
憎らしい夜天を見上げたまま本音を晒し続けて、少し。呼吸も落ち着いてきたころ、シルダリアは顔だけ向けてこちらを見た。晴れていた空はいつの間にか大量の
「初恋だった。アコウギ、空を学び、虹について話すあなたが好きだった」
夢か何かに思える景色のなか、それを背負えるだけの超然性を持った桃色の
「競い合うのが楽しかった。全力を出して、勝ったら告白しようと思った」
――けれどそうしたらあなたは見る間に落ちぶれて、こんなに酷い有り様になってしまった。私はどうにかあなたにあの日の情熱を取り戻させたかった。
続けて漏れ聞こえるあまりに失礼な言い草。思わず笑ってしまった俺に、シルダリアは寝転がったまま純粋な子どものような目を向けてきた。見れば、着込まれた彼女の翼は本当に徐々にではあるが色を失っていく。
「もう、空を好きになってはくれないの?」
「分からない。けれど、きっとなれないだろう」
「そう……色々教えてあげたのに、興味がないみたいだったし……」
「――ごめん」
渡る数万の命の巨影に隠れた無人島。寂しそうな声のまま、耐えられない様子でシルダリアはくしゃっと顔を歪めた。それは飄々としていて、あるいは威圧的で、どちらにせよ触れ難く立ち振る舞う彼女からはとても信じられないような幼い表情だった。とんでもないまでの二面性に混乱する頭をどうにか動かして考える。
言い分から察すると、シルダリアにとってこの旅には俺を
けれど、まだ俺は空を好きになれない。
弟がそれを好きだったとしても、何かがまだ空に近づく自分を引き留める。
いままでも、これからも。俺は、目の前で涙を流すこの女性のことを恋愛の意味合いで意識することはないだろう。友達でいてくれる分にはありがたい。けれども彼女は、一対一で付き合う恋人にするには超常的で、あまりに素晴らしく、出来過ぎていて、とても手に負えなかった。一生シルダリアが隣にいて片方でも幸せになる自信がない。俺は彼女の光によって消されてしまうか、干乾びてしまうだろうし、彼女もこの不出来な男につられて道を踏み外した人生を歩む羽目になるだろう。自分を愛することができない者は、ほかの誰を愛することもできないらしい。そんな言葉をふと思い出した。
俺たちの壁はほかにもあった。きっと学問に対する興味を再燃してくれるはずだ。そう思って彼女が明かしたらしい遺伝子の真実も、「何だと思う?」と見せつけた時計たちも、恐怖と混乱の種にしかならなかった。俺があれからどんな思いで今夜までを過ごしたか、彼女はきっと分かっていないし、分かっていても真に理解することはできない。
シルダリアはしばらく俺の反応を
いつも通り感情の読めない声で夜天を見上げた彼女は、空を好きになってくれない俺にとびきりの悪口を投げるように、衝撃的な言葉を呟いた。
「遅くても明日の深夜には、この世界は終わるわ」
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