第18話 世界の全ての偽りの祭ー2

 肉を食べきってこれからのことを考えていると、ふと遠くから人々の活気が一際大きく耳に届いた。待降祭たいこうさいがいよいよ盛り上がってきたのだろうか。多くの音が入り混じった地鳴りを伴うほどの喧騒は、空気を揺らしてこの路地を一息に駆け抜ける。すっと耳に入った声。温まりかけていた心臓がもう一度冷え固まった水にさらされた思いがした。


 ――助けて。


 脳を揺らした言葉は、聞き間違いではなかった。賑やかな音ではない、歓声でもない。急激に音量を上げてこの都市のあらゆる場所から絶え間なく聞こえてくるのは、地界ちかいの荒れ日に耳にしたのと同じ、悲鳴と怒号だ。


 身体が動いたのはヘンダーソンと同時だった。路地の建物の壁面の凹凸に指をかけて上り、黄色い瓦の天井面に飛び乗る。目を引いた光景に喉が干上がった。数にして数万の黒い影が輪郭も淡く月明かりを反射して学生街方面の西の空を覆いつくしている。考えるまでもない。見えた一体一体の大きさ、あれは龍属種りゅうぞくしゅだ。


「トンフォン一号緊急回避命令です。市壁の防衛砲門を起動します。屋外のみなさまは着陸し頭を守る姿勢を取ってください。屋内のみなさまはできるだけ地面に近い階層へ降りてください。地界ちかい担当者は、避難民受け入れの準備をお願いします。――繰り返します」


 州都庁舎と街道に整備された通信機から、けたたましいまでの警戒音とそれにかき消されないだけの張り詰めた声が響いた。足の筋肉を動かし、爆発的な速度で駆け抜ける。俺たちが避難命令によって人の疎らに散った大通りの地面に着地した瞬間、目をくほどの閃光が夜空を白飛びさせる勢いで頭上に走った。


「緊急起動権限トンフォン。起動式【古詩こし】、市壁防衛砲、発射」


 ――疑是銀河落九天もしかしたらこれは銀河の真上から落ちてきているのだろうか


 直後、炸裂。あらゆるものを吹き飛ばす列風と、世界がひっくり返ったような激震。建物が崩壊する音が立て続き、遥か彼方で立ち上る巨大な黒煙を中心に視界が大きく揺れる。捜空領そうくうりょう東方の市壁から音速を超えた速度で標準塔ひょうじゅんとうが撃ち放たれ、怪物たちの群れの中心で爆発した。そう気付いたときには、俺は圧し折れた街灯の横で仰向けになっていた。


 土煙に咳きこみ、寝転んだまま未だ眩い方に目をやって、言葉を失う。西の空に浮く雲海にも似た龍属種りゅうぞくしゅの群れが、炎上しながら形を崩して学生街にしだれ落ちてきている。それは夜天を燃やし尽くす溶岩のように鈍く生々しい光を上げ、生き物が焼ける音と共に下方の半壊した建物群をおぞましく照らし、ゆっくりと飲み込んでいく。捜空領そうくうりょうの一撃は、空に集まったほとんどの怪物たちを焼き殺すことには成功したが、吹き散らすまでには至らなかったらしい。


 耳を澄ませて分かる。遠くから激しく響く、数千、数万の羽音。怪物はどこからかまだ集まり続けている。西方から避難を呼びかける人々の声が聞こえ、多くの軍兵が頭上を通過して飛んでいく。


 荒れ日から忘れていた他人の死への恐怖が身を包む。レーグルは、どうしているだろうか。一般人よりよほど安全には配慮されているとは思うが、それでも彼女は旧人類であり、化け物の俺たちよりずっと小さく脆い。空神様そらがみさまは自らを危険から保護する生体部品を備えており、一人に一つの異能力ともいえる超常的な力を振るうとされているが、記憶のないレーグルがそれを使いこなせるわけがない。


 抱いた危機感も冷めないうちに、巨大な影が眼前に躍り出た。路地裏から飛び出してきたのは、俺の倍の体格を誇り強靭な筋肉と鋭い爪を備えた龍属種りゅうぞくしゅ四足獣型しそくじゅうがた。ここまでの規模だ。空を飛ぶ以外の龍属種りゅうぞくしゅも集まってきているだろうということは予想が付いていたが、実際に目の前に現れるとおぞましさが違う。


 一体ではない。大通り、俺たちを囲むのは合計三体の巨大な獣だ。有翅虫型ゆうしちゅうがたとは格が違う。統合専門学校とうごうせんもんがっこうで学んだ未開の地についての規則では、四足獣型しそくじゅうがたが現れた場合、五人以上からなる兵団が戦略的に対処に当たることになっていたはずだ。交通整理員こうつうせいりいんと配管工が一人ずつでどうにかなる相手でも数でもない。


 周囲には俺たちのほかに誰の気配もなかった。捜空領そうくうりょうで対応能力を持つ人員は学生街に集まっていて、一般人は良く訓練された避難によって上手く地界ちかいに逃げ果したのだろう。唸りを挙げて振るわれる爪を大きく後退して避ける。


 背にぶつかる建物の壁。追い詰められたらどうしようもない。色が変わったままの服状翼ふくじょうよくを硬化させ、足に力を込める。紅の軌跡を引くほど爆発的速度で身体を捻って前方に飛び込み、一撃。衝撃波が大通りを駆け抜け、地鳴りを伴って街灯を揺らす。裂帛の勢いで四足獣型しそくじゅうがたの頭部に決めた蹴りだが、固い筋肉と骨格に阻まれて大した手ごたえはない。ヘンダーソンも果敢に別の個体に攻撃を加えているが、結果はこちらと同じらしい。


 遺伝子的には、旧人類よりこの怪物たちの方が俺に近しいところにある。ならば、第二文明期だいにぶんめいきに造り出されたもの同士というよしみで話せば分かるかもしれない。ひりつく空気。装備した義翼板ぎよくばんで飛んで逃げるという当たり前の選択肢が浮かばないほど混乱する頭で、苦笑いと共に浮かんだこのふざけた考えは、しかし、突如として聞こえた雷鳴によって目の前の怪物ごと粉砕された。


「やっと見つけた。二人とも、怪我はないわね」


 紫電を放つ八枚の細長い義翼板ぎよくばん。円を描いてくるくると回る赤銅色のそれを日輪のように背負って大通りに降り立った超然的な彼女は、左の内腕にしがみついた空神様そらがみさまのレーグルより数段神々しい様子で、瞬く間に周囲三体の巨大な獣の頭蓋に大穴を開けて見せた。

 

 空神様そらがみさまを支えていない方の内腕に握られた小型の銃。その艶めかしい異様な質感に目を奪われる。何であれ、第二文明期だいにぶんめいきの携行火薬武器の威力では、俺たちの服状翼ふくじょうよく龍属種りゅうぞくしゅの外殻に穴を開けることはできない。シルダリアが撃ち放った銀色のそれは、おそらく別の特殊な方式によるものだろう。


 街灯が折れ瓦礫の散乱した大通りに、一人君臨する桃色の服状翼ふくじょうよく。路地裏から遅れて顔を出した二匹の四足獣型しそくじゅうがたが、圧倒的な威を帯びた彼女の眼力で逃げ出していく。


 それから間もなく、複数の甲型服状翼こうがたふくじょうよくの影が頭上に見え、レーグルの神輿が俺たちの眼前に運び込まれた。運んできて、大通りに降り立ったその誰しもに憶えがあった。統合専門学校とうごうせんもんがっこう時代、シルダリアには及ばなかったものの、学校を代表する天才と呼ばれていた先輩、同期、後輩たちだ。彼らは特殊な義翼板ぎよくばんを背負った研究室の代表者とその腕のなかの空神様そらがみさまに軽く会釈をし、こちらを向く。


 世界有数の碩学たち。俺が足を滑らせた道を真っ当に進み、シルダリアと共に遺伝子の真実に辿り着いた者たち。その先頭に立つのは顔立ちも凛々しく体格も俺よりずっとしっかりした男性だ。地界ちかいに落ち延びた俺と配管工のヘンダーソンに何の用だろうか。彼らの目には、シルダリアの隣にこんなやつが立って一緒に過ごしているのは、さぞ場違いで腹立たしくさえ映るだろう。離陸者りりくしゃたちの翼の色がゆっくりと変わっていく。感情的になっている証だ。強い侮蔑の言葉を恐れて、小柄な友人を庇うように一歩前に出る。


「――その旅路の終わりまで、きっと幸福がありますように」


 だから、どう反応していいか分からなかった。バイコヌール語で背後の人々と声を合わせた大柄の男性は、俺たちを兄弟のように抱き締めた。醜く穴だらけで義翼板ぎよくばんがなければ空を飛べない俺の服状翼ふくじょうよくも、泥臭い仕事のせいで錆び付いたヘンダーソンのそれも、構わず、強く。第二文明期だいにぶんめいきにはハグといった。いまの地上圏ちじょうけんでも、抱き合うのは挨拶として珍しい手段ではない。けれど、俺たちに、何故。疑問は、ただの暖かさに押し流されていった。ひねくれたせいで友達がほとんどいなかった俺は、誰かとの抱擁がこんなにも優しいものであることを深く思い知り、噛み締めた。


捜空領そうくうりょう標準塔ひょうじゅんとう砲もちゃんと起動したし、小型電磁衝撃砲こがたでんじしょうげきほうも機能して良かった。補助翼状電源ほじょよくじょうでんげん八つがこんな形でしか用意できなかったのはあれだけど、まぁ間に合ったから良しとするわ。アコウギ、先を急ぎましょう……って泣いてる?」

「うぇ、え、泣いてない、別に泣いてないし」

「何言ってるか慣れてきましたよ! わたし見ました。真っ赤になって感極まった感じでバッチリ泣いてました!」

「まぁ、彼は昔から翼に出やすいしね」


 激戦続く西の空へ飛んでいった離陸者りりくしゃたちを見送って呆然としていた俺を、シルダリアの言葉が現実へと引き戻した。咄嗟に否定してみるが、レーグルにはしっかり目撃されていたらしい。それにしてもそんなに大声で報告したり、恥ずかしい納得の仕方をしたりしなくても良いと思う。頬に伝う暖かいものを拭うと、突然のことに隣のヘンダーソンも驚いていたようだった。二人揃って翼と顔を見合わせる。


「さて、ここは捜空領そうくうりょうの人たちに任せて、次に渡りましょう――時間がないわ、急いで」


 軽い言葉とは反対に、心臓を穿つ覇気のある視線が俺を捉えた。圧だけでない、そのなかに真剣な祈りのような何かを見て取って、俺は黙って頷いた。この大通りにまたいつ別の龍属種りゅうぞくしゅが現れないとも限らない。直ぐにレーグルを神輿にしまい、大きく東の空へ飛び立つ。


 眼下に、半分以上が焼け落ちた学生街。だが、状況はかなり落ち着いてきているようで、当初聞こえていた悲鳴や絶叫はなく、軍人と交通整理員こうつうせいりいんたちが冷静に拡声器で避難を誘導する声ばかりが繰り返されている。


 上空から確認すれば、円状の捜空領そうくうりょうの市壁の向こうから集まってくる龍属種りゅうぞくしゅの影もそろそろ頭打ちといったところだ。急場はそれほど致命的な被害を出さずに収まりそうに見える。神輿から聞こえるレーグルの話によれば、ほかの空神様そらがみさまたちは安全な地界ちかいに避難させられたらしい。


 空を往くことしばらく経って、眼前に月明かりを返す水面が拡がる。東西両大陸にわたる大洋、主海しゅかいだ。凪いだ海。その中心に巨大な風の滝、夜空の半分の星を淡く飲み込んだ大天降帯だいてんこうたいが悠然と姿を現す。海上ではこの色のない帯こそが鉄道に変わる航路の目印になる。喧騒は遠く去った。波と、星と。揺らめく茫漠とした自然を除けば何もない世界で、空気の流れる音だけが耳に響く。 


 輝く身体で空を先駆けながらふとシルダリアのことを考える。超然としていて博識な仲間があれほどいる彼女が、どうして馬鹿だと分かっている俺なんかについてきてくれているのか、まだ分からない。あの研究室の時計たちは何なのか、まだ尋ねる勇気はない。


 残り一三時間五六分。思い返せば、そろそろあの部屋で目にした最も短い期限を迎える。重心を変え、大きく風を掴む白銀の翼。周囲確認のために旋回しながらさりげなくシルダリアの様子を確認する。揺ぎないままの桃色の服状翼ふくじょうよく。しかし、何か思いつめたような表情をしたその頬に一筋の涙が伝っているのを見て、驚きと共に胸が詰まった。何であれ彼女が抱えた事情は、彼女自身に良くない思いをさせているらしい。


 シルダリアは雲の上の人物で、自分なんかが気遣うのは分不相応甚だしい。いままでの経験、そして捜空領そうくうりょうの地下にあった研究室での一件でさんざん思い知ったことだ。それでも一人で苦しむ誰かを俺は放っておけなかったし、いまやそれは広がりつつある自分の空虚さを埋めるための偽善であってもいいとさえ思えた。再び神輿に先駆けながら内腕の両拳を強く握る。俺は自らを鼓舞し、どうにかこの主海しゅかいにいる間に桃色の服状翼ふくじょうよくの彼女の抱えた事情について聞いてみようと決意した。


 空を嫌う人たち 第四章 捜空領そうくうりょうトンフォン ――了

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