第7話 旧い空の落ちる日ー1
一瞬、何を言っているか分からなかった。洞窟天井岩盤の崩落。つまり、空が落ちてくる。荒れ日のあとなら、そんなことはいままでもしばしばあった。しかしながら、
地下発電施設。その機能が全て失われようとしているといっても過言ではない勢いだ。
「アコウギ。範囲を見たところ、洞窟の天井岩盤の剥離は『オルダ』岩塊の天井面の六分の一に及びそうだ。厚さと質量次第だが、そのまま落とせばこの街は事実上終わりだと思っていい。オレたち配管工は、被害可能性のある部分の発電機を解体し、岩塊内に保存する作業に移っている。それが片付き次第、『
仕事人の顔で、小男は必要な情報を述べた。どうやら配管工たちのなかで大方の対応は決まっていて、ヘンダーソンは
「分かった。岩塊内の避難の指揮を任せていいか。どうせ手数が足りないだろうから、俺は岩上に出てやつらを手伝いながら
「それは助かるが、その『
「あぁ、そうか」
言われて、振り向く。いつもは賑わいに満ちているはずの街は、足音と叫びの混乱に塗り潰されている。中央にそびえる
食堂玄関、尋常でない様子の音と光を浴びて、レーグルは怯えていた。言葉は分からないものの、何かまずいことになっているとは察したらしい。思考が切り替わる。この急場でどこに彼女を逃がすか、それが問題だ。天井岩盤が崩落した場合、
少し無理をしてでも、共に行動した方が良いだろう。
恐怖に震えるレーグルをそっと抱き上げ、中性的な顔立ちの小男と一緒に騒然とした街を駆け抜ける。足の筋肉が唸り、風が頬を撫でる。混乱した様子の数人と肩をぶつけながらも、着底した指令室まで辿り着く。小男の頼みを聞き入れ、本日二回目の
「こちらヘンダーソン。みんな落ち着いて聞いてくれ。さっきの緊急放送であった通り、この街に洞窟の天盤が墜落しようとしている。オレたち配管工が対応しているが、被害を抑えるにはみんなの協力が必要だ。だから、いま一度頼む。――これから言う地区に居住する者は、大劇場に避難してほしい」
小男は実に男らしく二対四枚の
頭は落ち着いてきた。身体で目線を遮り指令室奥に隠したままの旧人類の少女をどうするか考える。オルダ岩上の危険度は一だ。俺なら素肌でしばらく行動できるが、彼女はそうはいかない。体躯に合う防護服もない。このままいけば貯水槽に残すことになり、そうすると彼女は何も見えなくなる。
とはいえ、何も無策で連れてきたわけではない。オルダ岩上の建物のなかには、観測拠点となることを目的として設計されたものが三つある。それは安全を確保しながら岩塊外部の環境が目視で確認できるようにしてあるもので、床以外の五面を覆う鉄壁に熱に強い素材で作られた透明な強化窓が複数備え付けられている。
レーグルになるべく落ち着いた口調でこれまでの事情を説明する。そのまま色々と考えていると、小さな手が俺を引っ張った。見下ろして、愕然とする。目の前の彼女は目覚めたときと同じ絶望を背負っていた。冷え固まった水のような瞳で、言う。
「……これって、わたしのせいですか」
一瞬、言葉を失った。
巨大な洞窟の溶岩帯に浮く岩塊内の街、オルダ。
「いまは、まだ分からない」
否定できない。咄嗟に嘘を吐ける勇気もない。
だから、ただ突き放すような現状の認識だけが口から漏れた。
沈黙のまま、頭上の水面が波紋を拡げる。指令室は上り切った。この直上はオルダ中央の貯水槽であり、三つある観測室とは離れている。
こちらの様子に気付くことなく飛び降りていったヘンダーソンの影が雑踏に消えるのと同時に、俺は
足の筋肉を唸らせ、勢いよく飛び移る。内腕に白く太く硬い縫い目が絡まる。片手でぶら下がり、身体が宙に浮く。ふらつく視界。見下ろせば、指一本ほどの大きさの人々が半円球状の大劇場に列をなして入っていく。顔を上げる。いきなり失われた足場に怯えたレーグルが息を呑むのを感じながら、大きく紐を揺らし、別のものに渡る。
腕だけを頼りに中空を駆ける。八本立て続けに移動して、最も近い観測室に繋がる紐を掴み、そのまま辿って上る。オルダ岩塊内天井面に設置された金属板をずらすと、顔を覗かせたのは通気口を兼ねた暗い通り道だ。街を内包したこの岩の厚さは平均で
同じ金属の天板を横滑りさせ、辿り着いた観測室は、少し手狭だった。しかし、高さは直立したレーグル三人分、床面積は平伏した俺が何とか二人収まる程度あることから、彼女を一人残していくには十分な広さだといえる。
壁面と天井部の窓越しに、洞窟内をせわしなく飛び回る複数の人影が見える。肋骨にも似た形を取って洞窟中空を貫く地熱発電設備の一部が解体され、オルダ岩塊上の貯水槽の街に整理されて積み上げられていく。崩落するだろう箇所は、見上げるだけですぐ分かった。
頭上、洞窟天頂部の『サンクトペテルブルク・モスクワ層群』から、平べったい岩盤のようなものが、見たところ
溶岩の海の熱を浴び、岩盤に比して飛び散る火の粉にも似た様子で発電施設の解体を続ける配管工たち。あの古い鉛色の空が墜落してくるまで、どれほどの猶予があるか分からない。
全天から突き刺さる奇異の眼差し。俺を仲間とは認めない視線。
俺は弱い。人の死がとても恐ろしい。未だ脳裏に新しい数日前の惨劇を無暗に思い起こさずに済んでいるのは、レーグルの命を救うことができたからだ。すっと振り向く。窓越しに不安そうにこちらを見つめる目。それに応えて、別の誰かに向けて大きな声を発する。
「こちらは
声を上げてしばらくすると、巨大な影が俺の前に舞い降りた。立派な黒の
呼吸を落ち着ける。見て分かるくらい自分より強そうな相手と対峙するのは久し振りだ。目が合う。その静かな眼光に射抜かれるような心地がする。翼の色は変わっていない。つまり理性的な話し合いができる段階にあるが、万一殴り合いになればそれなりの覚悟がいる。聞いてくれ。そうこちらが切り出す前に、大男は
「お前のことは、ヘンダーソンから聞いている。この街のためにいつも良くやってくれているそうだな。ありがとう、助かっている。
驚いたことに、彼の口から出てきたのは、感謝と謝罪の言葉だった。ありえない、自分は嫌われているはずだ。現に、商店には害意のもとに騙された。
「我々配管工は解体作業を継続する。私が爆破の指示を出そう。
唖然とした俺の肩を叩き、大男は巨翼を拡げて飛び去った。俺は、嫌われていたのではなかったか。少なくとも、配管工たちを含めた、
けれどもし、それが違うとしたら。避けてきたことが、やつらが俺を白い目で見る原因の一部となっていたとしたら。助け合って睦まじく暮らす機会を自分で跳ね除けていたとしたら。俺はいままで、何をやっていたんだ。空から逃れてたどり着いたこの
喜びはなかった。安堵もなかった。ただ俺の脳内には、浅ましく滑稽な自分が、丸まったまま直下の地面を掘っている図像だけが浮かんだ。レーグルの時代の言葉でいうところの、『墓穴を掘る』というやつだ。失態でさえ地に向かい、空に怯える自分に呆れた。
「『英知は空にある』、『
[『英知は空にある』、受領。代理人アコウギ。通電、待機状態を認証]
熱気が身体を撫でる。顔を上げ、揺れる鳥籠にも似た巨大な金属の錨に声を飛ばすと、合成音声で世界を覆う返信があった。――あとは、俺が指示するだけで爆破できる。
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