第6話 現人類と旧人類

「へえ。あんた俺の三〇倍くらいの年かぁ」

「何て言い方するんですか。令和六年生まれはそこまで年齢いってないはずですけど」

「年号だ……感動した……」

「こらーー!」


 集合住宅の暗室に戻ってきた俺たちは、荒れ日の被害報告が揃うまで時間を潰しながら古代の書物の頁をめくっていた。令和六年は、グレゴリウス暦に換算すると二〇二四年にあたる。最も権威ある考証学派の測定法で、新オルエイクハル暦九五年現在を起点として、およそ六四三年から六五八年前だ。旧人類が神という仰々しい呼び方をされているのも納得するというもので、俺とレーグルの年の差は約六五〇といったところらしい。


 俺たちは会話をした。本をめくり、寝転がって、いままで見たもの、聞いたことについて語り合った。驚いたのは、空神様そらがみさまにも国や地域別に様々な慣習があり、食事の摂り方一つとっても大きな違いが見られたということだ。食器を使わないのが通常の民族などもいたらしい。わたしの時代にも世界には先進国しかないみたいな喋り方する人がいましたよ、なんて呆れ顔で言って、彼女はこう続けた。


「アコウギさん、『空神様そらがみさま』も嫌いなんじゃなかったですっけ」

「そうだったはずなんだけどなぁ」


 言われた通り、不思議とこの冷え固まった水のような瞳をした彼女には、いままで空に関するものに抱いていた嫌悪感というものが全くといって良いほどわいてこなかった。はっきりとはまだ分からないが、俺が空を嫌う理由にこの黒髪の少女は関係しないという感じがする。


 レーグルをどうするか、その腹は決まった。疲れのためにすやすやと寝息を立て始めた彼女を持ち込んだ組み立て式の長椅子の上に寝転ばせると、電力板の電源が付いた。いつも通りの時間だ。


「旧人類の墓地が確認されているのは標準塔ひょうじゅんとうの一○番台から三○番台がある地域だから、『冥空領めいくうりょうパルマヒム』北部の第一禁足地だいいちきんそくちになるけど、何? アコウギ、あなた『未開の地』の探索許可と、禁足地への特別侵入許可、それから『空神様そらがみさま』の同伴許可は取ってあるの?」

「最初のやつが期限切れな以外、見たこともないな。シルダリア、止めるか」

「止めると思っているならこんなこと教えてないでしょ。面白いわ、最高。思った通りよ。……待ってて、必要なものを持ってすぐにそっちに降りるから」


 光差す公園で、いままで見たこともないほどの満面の笑顔を浮かべて、あまりに美しい女性は通信を切った。希代の天才で俺の学友だったシルダリアは、子どものように目をきらめかせ、興奮を抑えきれていない様子だった。


 彼女は権力や法に拘泥しない。むしろ長いものを巻いて手毬にしてしまう。そんな人間だからこそ、この手の話に釣られないわけがなかった。ついでに俺に幻滅してもらえれば、唐突に劣等感を煽られることもこれで最後になる。


 シルダリアが直接降りてくるなら、追加の仕事がある。集合住宅一階に戻ったころには、五重塔ごじゅうとうを照らし出す明かりが青白く変じ、深夜寸前の時間帯を伝えている。桃色の服状翼ふくじょうよくの女性に手渡すべき説明資料を作って暗室に戻ると、レーグルは長椅子の上でうなされていた。一瞬黒髪の少女の隣に転がった第二文明期だいにぶんめいき判の稀覯本きこうぼんが目に映るが、それより生々しいうめき声が注意を引いた。悪夢を見ているらしい彼女は、寝返りをうち、うわ言のように誰かに謝り続けている。経験がある。こういうときに眠らせておくとただ苦しみが続くだけだ。指先でそっと触れ、起こす。


「ぁ……あぁ、……うあぁぁぁぁ!」


 目を覚ました直後、レーグルは大きく身を起こして声にならない声を上げたかと思うと、項垂れてこちらに倒れてきた。憔悴と怯えが混じった表情の彼女の身体を支える。腕のなかの小さな少女は何かを伝えようと顔を上げて口を開く。しかし、言葉の重さに窒息したように苦しみ、呻き声と共に噎せ返り、少し藻掻いてぐったりと動かなくなった。


 荒い呼吸音だけが薄暗い部屋に満ちる。黙ってその小さな背中を潰さないように指で撫でること少し、彼女は嗚咽の混じった言葉を発する。


「アコウギさん……わたし、何か、忘れていることがあるんです」

「あぁ、聞いたよ」

「絶対に思い出さなきゃいけないこと、それだけは分かるんです……」

「そうか」

「でも、どうしても……」


 ――思い出せない。

 レーグルはそう言い、身体もさらに小さく丸まって、最低だ、と自身を罵った。

 いや違う。最低なのは俺の方で、年季だって負けてはいないはずだ。


 それに、その最低を抱え込むには、レーグルは小さく、細く、脆過ぎるように思えた。空は嫌いだ。だから、俺の元にくるべきではない。苦しみながら落ちてくるべきではない。もしそれに見て見ぬふりをしてしまったならば、増大した胸のなかの空虚さに圧し殺されてしまうだろう。助けなければという危機感の方が強かった。だからこそ、俺はレーグルに嫌悪感を抱かなかったのかもしれない。


 深夜の生ぬるい風が頬を撫でる。俺は泣き疲れた黒い髪の彼女を再び長椅子に眠らせ、床で寝転がった。首をもたげる。レーグルは規則正しい寝息を立てている。うなされている様子もない。安堵しながら、俺は改めて自覚した。


「あぁ、何だ。怖いんだ」


 目の前でこれ以上誰かが死ぬのが、苦しむのが、傷付くのが。


 俺の頭は学問を諦めてからの三年で疲弊して、怯えていた。身体を鍛え、傷付け、壊しても、幼く弱い脳の中身はこれっぽっちも変わっていなかった。そのことに気付いて、いまさら気付いたところでどうしようもないと笑う。見れば、翼の色は元に戻っていた。


 どうやっても眠れないので、別のことを考える。


 レーグルは俺のことが怖くないだろうか。彼女のような旧人類からすれば俺たちはかなり大きな身体をしている。腕は内腕と翼腕を分ければ二対、足は二本持っている。目、鼻、口など感覚器は頭にあり、旧人類と数も並びも変わらないが、体毛は薄く顔以外の全身に広がっていて、彼らの思う髪というよりは鬣に近いものが生えている。


 俺も小さいころはじめて資料で旧人類の容姿を見たときには、柔らかい皮膚に覆われた四肢を持つ彼らを大型の爬虫類かと思ったくらいだ。反対に旧人類がいきなり俺たちを視界に入れれば、あまりの見た目の違いに唖然としてしまうだろう。


 旧人類は進化し、翼を得て、現人類になった。これは、拠空領きょくうりょうで教鞭を振るう最も権威ある研究者たちや、空神様そらがみさまたち自身にも認められている事実だ。そうでない限り、こんな見た目で旧人類と似たような社会性、倫理思考、価値観を持っているはずはないし、それらに由来した言語体系や習慣を手に入れてはいないだろう。


 羽化した有翅虫が、その幼虫を同種だと自認できるか。あるいはその反対は。そんな問題が、両者の間には横たわっていた。なかでもこの翼が最も大きな差異だろう。

 服状翼ふくじょうよく。上半身の皮膚が割れて捲り上がり、長く変形した翼腕に張り付いて形成された空を飛ぶための体構造。人を複数抱えて運べる程度に強力な揚力を生む一対の甲型、揚力は劣るものの非常に小回りの利く二対の乙型の二つの型式がある。どちらが顕性の形質なのかは分からないが、俺が知る限り六対四くらいの人口比だ。丙型は先天的に飛べない病を持って生まれた人々の差別を避けるために造られた型式で、例外になっている。


 我らは自由を着せられた。


 災害のなかで翼を得た俺たちにとって、服とは纏い、身体の一部を成すもの。つまり、この上半身の皮膚が裂けて形作られる服状翼ふくじょうよくであり、これを拡げ切った状態は旧人類の目線で見るところの半裸にあたる。といっても、あまり意図して不自然なまでに拡げ過ぎていなければ倫理的に奇異の眼差しで見られることはないし、むしろ、他人に心から訴えかける際に翼を着込んでいるのは誠実でも本気でもない証拠だとされている。


 眠ったレーグルを見ながら、ふと古語を思い出す。例えば、『腹を割って話す』なんて、昔の人間は自分たちが進化して翼を得ることを知っていたのだろうか。多くのことがらは変わってしまったが、過去と現在は確かに繋がっているように思える。古い人たちの言葉は、学問を失って久しい俺をしてもいまだに興味深いものであり続けている。


「おはようございます。って、ぐへっ」


 様々なことを考えているうちに、朝になっていた。名の通り『旦駆時あさがけどき』、窓に見える五重塔ごじゅうとうが緑色に染まっている。


 もぞもぞと動く音が聞こえる。レーグル。黒い髪に、冷え固まった水のような雰囲気の彼女は、とんでもなくひどい寝相で自身の五倍ほどの体躯を想定されて作られた長椅子を横断して俺の上に落ちてきていた。


「おはよう。レーグル、気分はどうだ」

「ベッドも翼も同じくらいゴワゴワでちょっと……」

「悪かったな……」


 地界ちかいの商店は俺にろくなものを売ってくれないし、代わりに買ってもらおうにもヘンダーソンは復旧工事で出払っているところだ。昨日と同じくこっそり駆け込んだら、早朝の第二食堂にはやはり誰もいなかった。適当なものを摂ってもらいながら適当に口を開く。


「変なことを聞くけど、あんた、俺が怖くないのか?」

「え、あぁ、はい。わたしはそんなに物怖じしないタイプなので。そりゃ最初はびっくりしましたけど」

「あぁ、そんなもんなのか。それなら別にいいんだ」


 会話を続けながら、ふと口に出してみる。


 彼女の肩に埋め込まれているだろう、超科学の生体部品。その部品から引き出される能力のために、旧人類は遥か上空の宇宙機から無事地上に降下することができたという話であり、地上圏ちじょうけんの最も恵まれた地域ではその力を利用して暮らしていたとも聞く。目の前の少女、レーグルのそれがどういったものであるのか、寝起きの頭はじわじわと興味を示していた。


「ええと……部品……?」

「あ、いや、」


 しかし、話題に上げた瞬間、冷え固まった水のような瞳をした彼女の顔に疑問符が浮かんだ。俺は言葉に詰まる。軽率だった。一六歳以降の記憶がほとんどない彼女は、空神様そらがみさまとして基本的なはずの知識も大きく欠損しているらしい。うなされていた昨日の表情が頭を過る。不用意に何かを尋ねれば、いたずらに彼女を刺激してしまう危険がある。何とか上手く誤魔化し、それからどうにか探り探り会話をしていると、唐突に食堂入り口の扉が開かれる。


「おい、お前ら!」


 現れたのは、息も絶え絶えに走り込んできたヘンダーソンだった。オルダ岩上から貯水槽を通して一気に飛び降りてきたらしく、服状翼ふくじょうよくもしっかりと着込まないまま、両肩を激しく揺らしながら言葉を発する。――その直前、甲高い警報音と放送が地界ちかいを覆った。


『緊急警報、緊急警報。『オルダ』岩塊直上の洞窟地層『サンクトペテルブルク・モスクワ層群』の大規模剥離を予測しました。このままでは発電施設に甚大な影響が及ぶ恐れがあります。地界ちかい住民は安全を確保しつつ、設備の保守に努めてください。……』

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