第5話 空を嫌う人
仕事のために出て行ったヘンダーソンを見送ると、窓越しの
俺たちは時間を
伝統的な現人類の時計は、一対の翼の意匠で表される。真夜中から正午にかけて翼が六段階に分かれて開き、また正午から真夜中にかけて同じく閉じるという仕組みになっていて、指示できる時間は計一二段階ある。
唯一、
「これは、これは、ほぉお」
俺にとっては生ける化石のようなレーグルは、まじまじと時計の表示された壁面の電力板を見やる。いまの翼は全開から三段階目に閉じられたところで、『
その瞳に燃え上がるような知的好奇心を感じながら、俺たち二人は
『続いて、『本日の遠古から』。
第一文明期。つまり、グレゴリウス暦に記される最初の千年期周辺の情報は、現代にはほとんど残されていない。当時用いられていたという言語も、いまだ実を結ぶ気配のない翻訳の試みがなされている最中だ。
――だから、驚いた。
隣で、小さな少女が歌っていた。きっと第一文明期の言語だ。揺れながら上る指令室。荘厳な音楽に乗った透明な声が、荒れ日の明けたオルダの街に響き渡る。不意に復旧作業の振動や、人々が語らう声、通りを走る足音が全て止んだ。恐ろしいほど静かな
俺の人生にいままでなく、これ以降もないだろうと思えるほどの衝撃を身体に感じながら、息を詰まらせる。感動が心を包み、翼もほんのり紅い。
「レーグル。あんたもしかして『
「多趣味なだけですよ。歌とか、アコウギさんは嫌いですか?」
「生憎、勉強ばっかりだったんで」
「えー、うわ、ちょっとそれはつまんない男」
「……思ってたけど、口悪いってよく言われるだろ」
「よくは言われませんけども」
他愛ない会話を続けていると、指令室が天井部に辿り着いた。
あとは上にある貯水槽でレーグルに防護服を着せて、
彼女に合う大きさの防護服がない。これは食器がない以上の問題だ。防護服は安全を確保するための重量がある。
考えが甘かった。
「申し訳ない。考えが足りなかった。引き返そう」
言って身体を沈めかけた俺に、彼女は問い返した。
「わたしをどこに連れて行こうとしていたんですか?」
「ああ、申し訳ない。伝えていなかった。
現人類の居住地は主に二つに分かれる。
対して、
土地の境界、または地上の世界。レーグルの話す東アジア語古タネガシマ方言に由来する『
「わたし、まだ、行きたくありません」
「行きたくないって?」
驚いて問いかける俺に、彼女は簡単に答える。
「わたし、ほかに行くべきところがあるんです」
俺の身体から溢れる光が貯水層の底膜を帯のように揺らめく。
隣に立つレーグルが口に出したことは、こうだ。
「そこに行けば、きっと。全て思い出せるんじゃないかって」
指令室の床に腰を下ろした彼女の言葉に、空気が冷えて固まった。
レーグルには、一六歳になってからここに落ちてくるまでの記憶がまばらにしかないらしい。憶えているのは、宇宙機で災害から逃れたこと、その宇宙機のなかで『レーグル』と呼ばれていたこと。そして、大切な人がいたこと。この三つだけだ。なるほど、東アジア語古タネガシマ方言、つまり『日本語』を流暢に話すのにあまり典型的ではない名前をしているわけだ。
「ごめんなさい。助けていただいたのに、余計なことを……」
あまりに低く、淡白で、感情のない口調。知っている。それは、自分に絶望したときに漏れる声だ。いつかこの口から吐き出されたのと同じ声だ。過去を思い返しながら沈降していった彼女の感情は、ここにきて錆び付いた灰色の底を打ったらしい。
どうして彼女が急にこんな様子になったのか、知る由もない。
だが、そのまま何もしないでおくことは、俺には耐えられなかった。
ぼんやりとした表情で力なく涙を流す黒髪の少女に、思わず目を逸らす。
逸らしたまま、言う。
「なあ、レーグル」
指令室の天井の水面が、言葉に小さな波紋を拡げる。
「俺は、空が嫌いだ」
口を開く。どうして彼女に切り出すのがこの話だったのか。それは、頭上の水面に揺らめく淡い燐光と、真横で膝を折った小さな少女の嗚咽が、無暗に感傷を煽ったからだとしか言いようがない。翼は情けなくも紅く染まっている。
ありがちな話だ。弟がいた。親は直ぐにいなくなったから顔も覚えていない。二人で、祖母の家で育った。その弟が、宇宙に興味を持っていた。色々な本を集めて、一緒に勉強した。弟は
溶岩帯の凪が続いていたある朝、俺たち二人は愚かにも
急に訪れた荒れ日だった。吹き飛ばされた俺がどうにか中空で体勢を立て直すと、展望台の下、防護服もなく、眩いばかりの熱の海に沈んでいく弟の姿が見えた。祖母が病気で死んだのはそれから数日後だ。
桜の木の下に屍体が埋まっているなら、雨上がりの空には魂が昇っていく。そして、人は死ねば星になる。それが、上古文学を専門に
勉強をした。天文学のことを、これでもかと勉強した。勉強しているときだけ、ほかのことを忘れられた。雨上がりの窓から見える
最も、自分が成すべきことを全てしていたか、いまとなってはわからない。けれど、それ以来思い出した。空に関わるものを見て、聞くたびに、喪失が、挫折が、いまを生きる自分自身の空虚さが。
弟を殺した色の翼を揺らして、言う。
「レーグル。俺は空が嫌いだ。空にかかわるもの全てが嫌いだ。星が、月が、太陽が嫌いだ。夜明けも、夕暮れも、嵐も、虹も、何もかも嫌いだ。正直なところ『
空を嫌って最低なところまで降りてきたのが、空虚な俺ではどうしようもなかった。
落ち着いたころ、口を開いたのは彼女の方だった。
「アコウギさん。助けてくれてありがとうございます。あなたの言う通り、やっぱり、その
強がった声で、レーグルは言う。これ以上迷惑はかけたくないと、彼女は言外に告げていた。けれど、俺はこうも知っている。
旧人類の墓所は未開の地にしか確認されていないが、
迷うことはないはずだった。当たり前に、レーグルを
だから、迷うことはないはずだった。それなのに、迷っていた。彼女をこのまま地上に帰してしまったならば、自分のなかにうごめく逃れようのない空虚さが、さらに勢いを増して広がる予感があった。
「アコウギさん。もっと笑った方が良いですよ。何てったって、小奇麗なわたしと違って」
神妙な顔になっているのに気付かれたのか、黒い髪の少女は立ち上がり、横から傷だらけの俺の足に触れた。伝わる暖かい体温。彼女は静かに優しくそれを撫でて、呟く。
「あなたは、こんなに誰かを想ってきたんでしょう」
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