第5話 空を嫌う人

 仕事のために出て行ったヘンダーソンを見送ると、窓越しの五重塔ごじゅうとうが照射光によって淡い赤色に染め上げられているのが分かった。片付けをしていたら、昼を大きく回ってしまったらしい。


 俺たちは時間を五重塔ごじゅうとうの光の色と屋内の時計で判断するが、しかし後者は、時計といっても、第二文明期だいにぶんめいきにあったような長短二種類ないし三種類の棒を回転させたり、電力板に数字を出力したりするものではない。


 伝統的な現人類の時計は、一対の翼の意匠で表される。真夜中から正午にかけて翼が六段階に分かれて開き、また正午から真夜中にかけて同じく閉じるという仕組みになっていて、指示できる時間は計一二段階ある。地上圏ちじょうけんでは第二文明期だいにぶんめいきに倣って二四時間制が導入されて久しいが、地界ちかい居住区では大雑把な区分で特に問題になったことがないので、翼の意匠が室内の電力板端に映し出されるという形でこの伝統的な時間表示が維持されている。


 唯一、五重塔ごじゅうとうの最上部には長短の棒を用いて連続変化的に時刻を指示する第二文明期だいにぶんめいきの古い型式の時計が申し訳程度に掛かっているが、俺が地上圏ちじょうけんとの交渉ごとに使う以外で注意を向けている人間がいるだろうか。


「これは、これは、ほぉお」


 俺にとっては生ける化石のようなレーグルは、まじまじと時計の表示された壁面の電力板を見やる。いまの翼は全開から三段階目に閉じられたところで、『彌巣降時みすおりどき』というのだと説明すると、彼女は興奮に目を輝かせた。


 空神様そらがみさまは、生きているものしか見えない。正確に言えば、蛍光薬けいこうやくを飲んだ交通整理員こうつうせいりいんのような、生物に由来する光源しか認識できないのだが、反対に、生物に由来する光源に照らされた範囲であれば、電力板の表記なども読み取れるようだ。


 その瞳に燃え上がるような知的好奇心を感じながら、俺たち二人は地上圏ちじょうけんへの道を少し足早に歩き出した。オルダ岩塊の床面に着底した指令室を動かすと、ご機嫌な音楽と共に、本日二回目となる真実日報しんじつにっぽうが流れてくる。


『続いて、『本日の遠古から』。第一文明期だいいちぶんめいき音楽特集です。バイコヌール学際研究局が、発掘された楽譜資料から、第一文明期の音楽を見事に再現いたしました。いまやもう知るもののない言葉の響きで描かれた旋律を聞きながら、遠い過去の情景に思いを馳せましょう』


 第一文明期。つまり、グレゴリウス暦に記される最初の千年期周辺の情報は、現代にはほとんど残されていない。当時用いられていたという言語も、いまだ実を結ぶ気配のない翻訳の試みがなされている最中だ。第二文明期だいにぶんめいき、つまり、二番目の千年期周辺に残された数少ない遺物を介してはじめて、それ以前の人類の歴史が明らかになってきたと言っていい。


 ――だから、驚いた。


 頂点に座す王よRex sedet in vertice

 破滅を恐れよcaveat ruinam

 何故なら車輪の下にわたしたちは読み取るnam sub axe legimus

 ヘカベ、あの王妃をHecubam reginam


 隣で、小さな少女が歌っていた。きっと第一文明期の言語だ。揺れながら上る指令室。荘厳な音楽に乗った透明な声が、荒れ日の明けたオルダの街に響き渡る。不意に復旧作業の振動や、人々が語らう声、通りを走る足音が全て止んだ。恐ろしいほど静かな地界ちかいで、遥か遠古の旋律が木霊する。耳慣れない言葉に、美しい声に、誰しもが立ち止まって耳を澄ませたのだということは、指令室の壁越しにでも伝わってきた。


 俺の人生にいままでなく、これ以降もないだろうと思えるほどの衝撃を身体に感じながら、息を詰まらせる。感動が心を包み、翼もほんのり紅い。


「レーグル。あんたもしかして『空神様そらがみさま』のなかでも取り分け凄いやつだったりするのか」

「多趣味なだけですよ。歌とか、アコウギさんは嫌いですか?」

「生憎、勉強ばっかりだったんで」

「えー、うわ、ちょっとそれはつまんない男」

「……思ってたけど、口悪いってよく言われるだろ」

「よくは言われませんけども」


 他愛ない会話を続けていると、指令室が天井部に辿り着いた。


 あとは上にある貯水槽でレーグルに防護服を着せて、地上圏ちじょうけんに運ぶだけでいい。思考を進めた俺は、そこでようやく自分の間抜けに気が付く。


 彼女に合う大きさの防護服がない。これは食器がない以上の問題だ。防護服は安全を確保するための重量がある。地界ちかいにある最小の防護服は小男ヘンダーソンが余裕をもって着ることができる程度のもの。その三分の一以下の体躯の彼女に着せると、ほとんど服そのものの重さで圧し潰すことになる。


 考えが甘かった。地上圏ちじょうけんに連絡すれば、旧人類の身長に合わせたものを見繕ってきてくれるだろう。急がず、それまで待ったほうが良い。


「申し訳ない。考えが足りなかった。引き返そう」


 言って身体を沈めかけた俺に、彼女は問い返した。


「わたしをどこに連れて行こうとしていたんですか?」

「ああ、申し訳ない。伝えていなかった。地上圏ちじょうけんだよ。『空神様そらがみさま』が本来いるべき場所だ」


 現人類の居住地は主に二つに分かれる。地上圏ちじょうけんと、地界ちかいだ。


 地上圏ちじょうけんは、ほとんどの人々が暮らす場所で、文字通り地上と低い空域のことだ。山も、海も、丘も、砂漠もあるそこには、七つの都市域からなる連邦政府が鎮座している。その政府の中核となる州は『拠空領きょくうりょうグルームレイク』という。グルームレイクは、地上圏ちじょうけんで最も恵まれ、この世のありとあらゆる一番を集めた街で、空から降りてきた旧人類たちが住み、末永く暮らしていける設備が整った唯一の場所となっている。


 対して、地界ちかいは発電所だ。地上圏ちじょうけんで必要とされる莫大な電力を賄うために地下に作られたもので、地熱などを利用した発電設備が設置され、その整備のための人員が住む街ができている。地界ちかいオルダと呼ばれているここは、『敬空領けいくうりょうバイコヌール地下発電施設』。俺以外のほとんど全員が岩上の機器に関わる仕事をしている。


 土地の境界、または地上の世界。レーグルの話す東アジア語古タネガシマ方言に由来する『地界ちかい』という言葉が、現代と違う意味を持っていたことは知っている。語義の変遷だ。古典語を学んでいた俺は、そのあたりを誤解されないように説明する。


「わたし、まだ、行きたくありません」


 地上圏ちじょうけん、特にグルームレイクの素晴らしい情景を語って聞かせたあと、地界ちかいの情報を愚痴交じりに伝えていっている途中で、レーグルは首を振った。


「行きたくないって?」


 驚いて問いかける俺に、彼女は簡単に答える。


「わたし、ほかに行くべきところがあるんです」


 俺の身体から溢れる光が貯水層の底膜を帯のように揺らめく。


 隣に立つレーグルが口に出したことは、こうだ。第二文明末期だいにぶんめいまっきの大災害を前にこの星から脱出できたのは、旧人類のなかでも限られた数に過ぎなかった。地上に残されたうち、彼女にとって大切な人がいた。もう亡くなっているはずの、その人の墓に向かいたい。


「そこに行けば、きっと。全て思い出せるんじゃないかって」


 指令室の床に腰を下ろした彼女の言葉に、空気が冷えて固まった。


 レーグルには、一六歳になってからここに落ちてくるまでの記憶がまばらにしかないらしい。憶えているのは、宇宙機で災害から逃れたこと、その宇宙機のなかで『レーグル』と呼ばれていたこと。そして、大切な人がいたこと。この三つだけだ。なるほど、東アジア語古タネガシマ方言、つまり『日本語』を流暢に話すのにあまり典型的ではない名前をしているわけだ。


「ごめんなさい。助けていただいたのに、余計なことを……」


 あまりに低く、淡白で、感情のない口調。知っている。それは、自分に絶望したときに漏れる声だ。いつかこの口から吐き出されたのと同じ声だ。過去を思い返しながら沈降していった彼女の感情は、ここにきて錆び付いた灰色の底を打ったらしい。


 どうして彼女が急にこんな様子になったのか、知る由もない。

 だが、そのまま何もしないでおくことは、俺には耐えられなかった。

 ぼんやりとした表情で力なく涙を流す黒髪の少女に、思わず目を逸らす。

 逸らしたまま、言う。


「なあ、レーグル」


 指令室の天井の水面が、言葉に小さな波紋を拡げる。


「俺は、空が嫌いだ」


 口を開く。どうして彼女に切り出すのがこの話だったのか。それは、頭上の水面に揺らめく淡い燐光と、真横で膝を折った小さな少女の嗚咽が、無暗に感傷を煽ったからだとしか言いようがない。翼は情けなくも紅く染まっている。


 ありがちな話だ。弟がいた。親は直ぐにいなくなったから顔も覚えていない。二人で、祖母の家で育った。その弟が、宇宙に興味を持っていた。色々な本を集めて、一緒に勉強した。弟は丙型服状翼へいがたふくじょうよく、明け透けな言い方をするなら、『無翼病むよくびょう』だった。


 溶岩帯の凪が続いていたある朝、俺たち二人は愚かにも地界ちかいを抜け出して地上圏ちじょうけんへ向かおうとした。オルダ岩上から翼のない身体を抱え上げて飛び立とうとしたところで、洞窟を尋常でない熱波が駆け抜ける。


 急に訪れた荒れ日だった。吹き飛ばされた俺がどうにか中空で体勢を立て直すと、展望台の下、防護服もなく、眩いばかりの熱の海に沈んでいく弟の姿が見えた。祖母が病気で死んだのはそれから数日後だ。地界ちかいにはもう居場所がなかった。家財道具を整理して捻出した遺産は、最も金のかからない地上圏ちじょうけんの学校へ通うことができるくらいのものだった。


 桜の木の下に屍体が埋まっているなら、雨上がりの空には魂が昇っていく。そして、人は死ねば星になる。それが、上古文学を専門に拠空領きょくうりょうで教鞭を執ったこともある博識な祖母の口癖だった。桜なんていう植物が一体この地球のどこに残っているのか。俺が捻くれた文句を言うと、未開の地にはまだあるかもしれないじゃないかと返すのが日課だった。


 勉強をした。天文学のことを、これでもかと勉強した。勉強しているときだけ、ほかのことを忘れられた。雨上がりの窓から見える第二文明期だいにぶんめいきと変わらない虹の美しさが、折れそうになる俺を何度も励ました。学校ではしのぎを削り、研究を進める同い年の友達ができた。しかし結局、思った道へは進めなかった。巨大な壁になったのはその桃色の服状翼ふくじょうよくの友達で、どうあがいてもどうしようもなかった。


 最も、自分が成すべきことを全てしていたか、いまとなってはわからない。けれど、それ以来思い出した。空に関わるものを見て、聞くたびに、喪失が、挫折が、いまを生きる自分自身の空虚さが。


 弟を殺した色の翼を揺らして、言う。


「レーグル。俺は空が嫌いだ。空にかかわるもの全てが嫌いだ。星が、月が、太陽が嫌いだ。夜明けも、夕暮れも、嵐も、虹も、何もかも嫌いだ。正直なところ『空神様そらがみさま』も好きじゃない。――そして、何より、空っぽな自分が一番嫌いだ」


 空を嫌って最低なところまで降りてきたのが、空虚な俺ではどうしようもなかった。甲型服状翼こうがたふくじょうよくは着込んでから拡げるまでに感情とは関係なく色を変える。しかし、灰色から白銀へ、ここまで目に見えるほどの変色をするのは、いままで出会ったなかには二、三人しかいなかった。虚無と劣等感に煽られて、不安定に揺れ動くばかりの自分。気付けば頬に冷たいものが伝っていた。泣いている。泣いたのは、いつかヘンダーソンに話して聞かせたとき以来だ。


 落ち着いたころ、口を開いたのは彼女の方だった。


「アコウギさん。助けてくれてありがとうございます。あなたの言う通り、やっぱり、その地上圏ちじょうけんというところに行きます。それからでも、きっと遅くはないです」


 強がった声で、レーグルは言う。これ以上迷惑はかけたくないと、彼女は言外に告げていた。けれど、俺はこうも知っている。地上圏ちじょうけんといっても、現人類の居住地はその面積のほんのわずか一割程度を占めるに過ぎない。そのほかの領域は未開の地とされ、上空から一見して目につくもの以外、何があるかはほとんど不明なままだ。


 旧人類の墓所は未開の地にしか確認されていないが、空神様そらがみさまは安全のために居住する拠空領きょくうりょうから滅多なことでは出られない。さらに、拠空領きょくうりょうに旧人類が暮らしていると言っても、レーグル以外の空神様そらがみさまの降下はおよそ三○年以上前にあったものだ。その第一世代と呼ばれる空神様そらがみさまたちは、俺が統合専門学校とうごうせんもんがっこうに入学するときには寿命や環境変化などといった原因でみんな亡くなってしまっていて、いまそこに暮らすのはその子どもたち、第二世代の空神様そらがみさまたちになる。レーグルと同じ時代に生きた人間はもうどこにもいない。このまま地上圏ちじょうけんに戻って、正規の順路を辿れば、記憶を取り戻すという彼女自身の希望を叶えられる可能性はほとんどないといっていい。


 迷うことはないはずだった。当たり前に、レーグルを地上圏ちじょうけんに送り返すべきだ。彼女の命は救った。これ以上特別な何かをする必要性はどこにもない。もし、あえてこの黒髪の少女の願いを叶えようとするならば、付随する問題が数多くあって、どれを取っても非経済的で、可能性も低く、何より空に近いところに向かうことになる。


 だから、迷うことはないはずだった。それなのに、迷っていた。彼女をこのまま地上に帰してしまったならば、自分のなかにうごめく逃れようのない空虚さが、さらに勢いを増して広がる予感があった。


「アコウギさん。もっと笑った方が良いですよ。何てったって、小奇麗なわたしと違って」


 神妙な顔になっているのに気付かれたのか、黒い髪の少女は立ち上がり、横から傷だらけの俺の足に触れた。伝わる暖かい体温。彼女は静かに優しくそれを撫でて、呟く。


「あなたは、こんなに誰かを想ってきたんでしょう」

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