第3話 空神様
いつの間に寝ていたのか、電力板に設定してあった目覚ましの音がけたたましく響く。身体を起こすと、そのまま画面の明かりが灯り、本日一回目の
『『運命』の衝突確率は現試算でかなり高く、危険は避けなければなりません。我々バイコヌール政府は未来に対しても責任を負っています。『英知は空にある』。『
昨日の会議はそういうものだったのか。電力板の電源を切り、ぼんやりした頭で
「おう、お前やっぱそっちにいたのか」
「てめえ何で他人の家に入ってきてやがる。配管工どもの出発式はどうした」
階段を上り開けた扉の先には、寝具に転がって俺が昨日買ってきた菓子を貪るヘンダーソンの姿があった。ここで一夜を過ごしたらしいことは、床に蹴り散らされた布団から明らかだった。珍しいことではない。この小男は他人様の家の鍵をそこらの針金で簡単に開けると、侵入してはまるで自分の家のように過ごし、俺を客人よろしく迎え入れる。
部屋が、爆音と共に大きく揺れた。
集合住宅の鉄骨が軋みを上げ、窓越しに見える街から悲鳴が聞こえる。外に駆けだした俺とヘンダーソンは、いきなり噎せ返るような灰色に口を押える。円柱状のオルダ岩塊の内壁が擦れ、散った塵が霧のように街全体に広がって、視野を極端に狭めている。
落下音がしなかったから、落石などによる被害はなさそうだ。霧のなかでおぼろげに光るオルダ中央の
『緊急放送、緊急放送。『
危険度は最大値の五。どうやら今日は荒れ日らしい。オルダ岩塊は溶岩の上に浮いている。つまり、動く。
憎たらしい空を思い出すから、俺は嫌いだ。
「夜明けからこんな調子だ。明日には大規模な修復作業が始まるから、仕事仲間は寝てる」
戻った部屋のなかで、ヘンダーソンは困った顔をして両手を広げる。空への苛立ちと、目の前の不心得者への怒りと。漏れるのはため息ばかりだ。話半分にもうほとんど中身の残ってない菓子袋をひったくり、丸呑みにする。そのまま壁面の廃棄孔にごみを叩き込むと、てめえもついでに捨ててやろうかの目で眼前の中性的な顔立ちの小男を見下す。優れた翼長と幅を誇る
「状況は分かった。で、謝罪の言葉は」
「すまん。けど、こっちの方が旨いと思って」
小男はあっさり謝ると、俺が買ったのと同じ種類で、数段世代が新しく見える菓子袋を投げて寄越した。どうやら昨日商店街で最新注目商品として吹っ掛けた金額で買わされたのは、中古品の在庫あまりだったわけだ。この街では珍しくない。いつも通りだ。だからといって、悔しくも悲しくもないわけではない。
怒りはあっという間に足場を奪われ、宙に浮いた虚しさに色を変えた。不意に息が詰まる。ささやかな絶望の一滴が空想的に嵩を増していくのがわかる。長いものに巻かれるのは苦手だった。学問ではどうにもならなかったから、次は力を磨いた。けれども、結局上手くはいかなかった。何か反抗をやり遂げるほどの根性も勇気もなかったし、どこにだって上には上がいた。
ああ、そうだ。俺は、空が嫌いだった。
自嘲して、ヘンダーソンに向き直る。
「ちょっと出てくる。菓子、ありがとな」
「大丈夫か」
「ああ」
自分の家から逃げ出すように外に出る。岩塊が擦れ、零れた砂ぼこりが視界を覆う。走る。誰もいない。だからこそ都合が良かった。一体どこに行こうというのか。そのあてはなかった。一人になれる場所ならどこだって良かった。
何か嫌なことがあると、いつだってこうやって逃げ出した。それが俺にとって一番簡単だった。ただ、ぐずぐずと崩れていく腐った果実のような自分が気がかりだったのも事実だ。
危険度五、俺が小さかったころは年に一度だったこの荒れ日も、最近は頻度が上がって四半期に一度くらい訪れるようになった。年と共に荒むばかりの自分の心を表しているように思えて、歯噛みする。
灰色の塵で歪む視界のなか、轟音に軋むオルダの街を駆ける。こんなに息苦しいのは、前も見えないのは、粉になって
生きていたって仕方がないのに自殺もできなかったのは、足がすくんだからだ。感情に任せて誰かを傷付けてしまえなかったのは、心がためらったからだ。いつもこうやって誰もいない場所に逃げ出すのは、空虚なばかりの自分に嫌気がさしたからだ。
笑いが漏れるほど無様だった。全てを察しているヘンダーソンは直ぐには迎えにこない。気が済むまで放浪し、翼の色が戻るのを待ってから、いつも通り一人で家に戻る。それが、いまや結構な頻度で訪れる俺の心痛の限界だった。
砂塵に喉が詰まる。足がもつれ、倒れ、ごほごほと咳きこむ。感じられるのは灰色の
遠い視界のなか、煙に霞んで揺らめく柱にも似た
背中に伝わる冷たい機械質の感覚。数少ない
唐突な爆発音。通信で、今度はオルダ岩塊が
ここはまさに嘆きの谷の深淵の縁といってよかった。惨劇の街を一人離れて呆然と眺める。ただいつも通り浅ましく足を進めていたら、随分とひどい場面に出くわしてしまった。過去、荒れ日には最多で二三〇人の死傷者が出たことがある。五桁の人口を誇る街では致命的な数ではなかったが、影響は間違いなく大きかった。
立ち上がろうとすると、足が震えているのに気付いた。他人事のように見える悲劇に、俺は怯えているようだった。何とか背後の
雷鳴。直後、瞬く閃光に、激震。剥離しかけていた天井の岩片が吹き飛ばされて横壁の商店街に突き刺さり、灰燼のなかで複数の建物が倒壊する影が見える。一瞬遅れて、突風。揺れと合わせて足をすくわれ、背を打ち付けた俺の直上で、いままで視界を覆っていた煙が吹き晴れる。
目に映ったのは、小さな穴の開いた岩塊の天盤。何かが
けれども、おかしい。彼女は落ちていた。頭から真っ直ぐ、何の身じろぎもせず。旧人類である
だからこそ、空から
未だ紅い
崩落する岩塊はどうしようもない。
けれども、降ってくる
腰を屈め、息を止め、地面から足を離す。目まぐるしく動転する景色に、きぃいんと耳鳴り。気付けば俺の巨大な
静寂の世界に、一瞬遅れて爆音と激震。空気が荒れ狂い、俺の前方に莫大な衝撃波が奔る。直下の地面がひび割れ、灰燼が巻き上がり、見える限りの石造りの家々がひどく軋んで歪な音を発する。岩石ではなく、
第七〇四号基 ユーリ
たくましく生き、人々の助けとなり、誰からも愛されるために。
背後、古バイコヌール方言の文字が刻まれた
一瞬の出来事。明らかに人類の限界を超えた無茶な挙動だ。身体のいたるところが軋んでいまにも千切れてしまいそうな痛みも、風圧で焼け焦げて穴の開いた翼膜も、俺にとっては慣れ親しんだものだった。
重力が捻じ曲がっていくような感覚。身体が大きくふらつき、墜落する。何とか制動は上手く行った。温かい命の熱を持った腕のなかの誰かをかばって、背中から街の大通りに叩きつけられる。骨に響く痛み。呻いて開いた目に、巻き上げられた砂塵ときらめく複数の瓦礫片が映る。数秒経って、それらが雨のように打ち付けるなか、地面に流れ出る自分の体液の冷たさを感じていた。
これで掴んだ柔らかな少女が潰れて死んでしまっていないのは、何度も繰り返して身に着けた急制動の能力と、彼女を覆う青色の外殻のためだ。
全身から力がゆっくりと抜けて出ていく。それと合わせて、拡げたままの翼の色も白っぽく落ち着き始める。焼け付いた身体は熱を発しているが、全身に駆け巡るのは錆び付いた悪寒だけだ。あぁ、気持ちが悪い。吐き気がする。たっぷり無様に寝転がっていた俺は、不意に頭上から伸ばされた浅黒い腕を片手で掴んだ。
「あんまり遅ぇから探しにきたぞ、って、え、まさかそれ、お前、『
「俺が聞きてぇよ……」
赤黒く染まった二対の翼が唸りをあげて広がり、掴んだ俺ごと宙に浮く。小男、ヘンダーソンの
『緊急放送、緊急放送。
気付けば、世界は凪いでいた。
視界を覆っていた塵埃は地面に降り落ち、何事もなかったかのように天井から吊るされた複数本の縄が揺れている。次々と建物の窓が開き、壁面商店街や遊興施設に暖かな明かりが灯る。腕のなかで眠る少女が開けた居住区天盤の穴に、複数の配管工が群がって補修作業を始めている。
巨大な岩塊の墜落によって、
柔らかな風が頬を撫でる。にわかに喧騒を取り戻す地下都市。普段は飛ぶことをしないため、久々に空に浮いて見るそこに、俺はただ自前の息苦しさだけを感じていた。
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