第3話 空神様

 いつの間に寝ていたのか、電力板に設定してあった目覚ましの音がけたたましく響く。身体を起こすと、そのまま画面の明かりが灯り、本日一回目の真実日報しんじつにっぽうが流れ始める。今朝の目玉は『惑星『運命うんめい』、六○○年後地球最接近、衝突か』というもの。嫌いな天文系の話題に顔を背けて本棚に向かうと、昨日の夜聞いたばかりの声がした。


『『運命』の衝突確率は現試算でかなり高く、危険は避けなければなりません。我々バイコヌール政府は未来に対しても責任を負っています。『英知は空にある』。『空神様そらがみさま』から頂いた知識を総動員し、各古典科学共同体かくこてんかがくきょうどうたいと協力しながら、宇宙機の……』


 昨日の会議はそういうものだったのか。電力板の電源を切り、ぼんやりした頭で服状翼ふくじょうよくを拡げ、業務用の蛍光薬けいこうやくを少しだけ飲む。暖かな光が部屋を照らす。この部屋には間接照明も備え付けられているが、なんだかんだ自分で光ったほうが早いし明るい。暗室には本と書架と電力板だけがあり、熱と轟音にまみれた地界ちかいで唯一俺の好む静謐を保っている。


「おう、お前やっぱそっちにいたのか」

「てめえ何で他人の家に入ってきてやがる。配管工どもの出発式はどうした」


 階段を上り開けた扉の先には、寝具に転がって俺が昨日買ってきた菓子を貪るヘンダーソンの姿があった。ここで一夜を過ごしたらしいことは、床に蹴り散らされた布団から明らかだった。珍しいことではない。この小男は他人様の家の鍵をそこらの針金で簡単に開けると、侵入してはまるで自分の家のように過ごし、俺を客人よろしく迎え入れる。


 地界ちかいは居住域に限りがある。定住する居所を持たず、親戚や友人の家に仮住まいしている者は人口の三割に及ぶ。ヘンダーソンがそんな放浪者の一人で、俺も二重錠をかけずに部屋を利用することを黙認しているとしても、楽しみにしていた食い物まで持っていくのはさすがに頭にくる。寝起きの運動にはちょうどいい。目の前の不心得者の顔面に薄い鉄板程度なら余裕でぶち抜く白銀体当たりをお見舞いしようと服状翼ふくじょうよくを拡げた、そのときだった。


 部屋が、爆音と共に大きく揺れた。


 集合住宅の鉄骨が軋みを上げ、窓越しに見える街から悲鳴が聞こえる。外に駆けだした俺とヘンダーソンは、いきなり噎せ返るような灰色に口を押える。円柱状のオルダ岩塊の内壁が擦れ、散った塵が霧のように街全体に広がって、視野を極端に狭めている。 


 落下音がしなかったから、落石などによる被害はなさそうだ。霧のなかでおぼろげに光るオルダ中央の五重塔ごじゅうとうを目指して進むこと少し、地上圏ちじょうけん地界ちかい課から電信が入る。


『緊急放送、緊急放送。『入洞錨にゅうどうびょう第八鎖だいはっさに『オルダ』岩塊が接触しました。現在地界ちかいは危険度五、居住区からの外出は避けてください。担当者は状況が収まり次第、被害状況の報告をお願いします。繰り返します……』


 危険度は最大値の五。どうやら今日は荒れ日らしい。オルダ岩塊は溶岩の上に浮いている。つまり、動く。入洞錨にゅうどうびょう、巨大洞窟の天井からしだれ落ちる八本の鎖は、この居住区を内包する岩塊の動きを制御する文字通り錨の役割を果たしている。地殻活動の活発化に伴う溶岩帯のしけによって流れた街が接触すると、その先端の鉤状部を爆発させ、反動で正常圏に戻す。


 地界ちかいに響く雷鳴。

 憎たらしい空を思い出すから、俺は嫌いだ。


「夜明けからこんな調子だ。明日には大規模な修復作業が始まるから、仕事仲間は寝てる」


 戻った部屋のなかで、ヘンダーソンは困った顔をして両手を広げる。空への苛立ちと、目の前の不心得者への怒りと。漏れるのはため息ばかりだ。話半分にもうほとんど中身の残ってない菓子袋をひったくり、丸呑みにする。そのまま壁面の廃棄孔にごみを叩き込むと、てめえもついでに捨ててやろうかの目で眼前の中性的な顔立ちの小男を見下す。優れた翼長と幅を誇る甲型服状翼こうがたふくじょうよくの特徴として、力を籠めれば全身が甲殻に覆われるというものがある。鉄鋼にも似た身体を揺らし、怒りを込めた貫くような目線で口を開く。


「状況は分かった。で、謝罪の言葉は」

「すまん。けど、こっちの方が旨いと思って」


 小男はあっさり謝ると、俺が買ったのと同じ種類で、数段世代が新しく見える菓子袋を投げて寄越した。どうやら昨日商店街で最新注目商品として吹っ掛けた金額で買わされたのは、中古品の在庫あまりだったわけだ。この街では珍しくない。いつも通りだ。だからといって、悔しくも悲しくもないわけではない。


 怒りはあっという間に足場を奪われ、宙に浮いた虚しさに色を変えた。不意に息が詰まる。ささやかな絶望の一滴が空想的に嵩を増していくのがわかる。長いものに巻かれるのは苦手だった。学問ではどうにもならなかったから、次は力を磨いた。けれども、結局上手くはいかなかった。何か反抗をやり遂げるほどの根性も勇気もなかったし、どこにだって上には上がいた。


 ああ、そうだ。俺は、空が嫌いだった。

 自嘲して、ヘンダーソンに向き直る。


「ちょっと出てくる。菓子、ありがとな」

「大丈夫か」

「ああ」


 自分の家から逃げ出すように外に出る。岩塊が擦れ、零れた砂ぼこりが視界を覆う。走る。誰もいない。だからこそ都合が良かった。一体どこに行こうというのか。そのあてはなかった。一人になれる場所ならどこだって良かった。


 何か嫌なことがあると、いつだってこうやって逃げ出した。それが俺にとって一番簡単だった。ただ、ぐずぐずと崩れていく腐った果実のような自分が気がかりだったのも事実だ。


 危険度五、俺が小さかったころは年に一度だったこの荒れ日も、最近は頻度が上がって四半期に一度くらい訪れるようになった。年と共に荒むばかりの自分の心を表しているように思えて、歯噛みする。


 灰色の塵で歪む視界のなか、轟音に軋むオルダの街を駆ける。こんなに息苦しいのは、前も見えないのは、粉になって地界ちかいを覆う擦れた壁面のせいだけではないだろう。


 服状翼ふくじょうよくが悲しみの熱を得て紅色に染まっていく。俺たちの翼は、高ぶった感情によって勝手に色を変えてしまう。普段は灰色、展開すれば白銀の翼は、熱いばかりの溶岩に似た紅色へ。生理現象だからどうにも止められない。誰にも見られないように、人がいないところを探して足を速める。


 生きていたって仕方がないのに自殺もできなかったのは、足がすくんだからだ。感情に任せて誰かを傷付けてしまえなかったのは、心がためらったからだ。いつもこうやって誰もいない場所に逃げ出すのは、空虚なばかりの自分に嫌気がさしたからだ。


 笑いが漏れるほど無様だった。全てを察しているヘンダーソンは直ぐには迎えにこない。気が済むまで放浪し、翼の色が戻るのを待ってから、いつも通り一人で家に戻る。それが、いまや結構な頻度で訪れる俺の心痛の限界だった。 


 砂塵に喉が詰まる。足がもつれ、倒れ、ごほごほと咳きこむ。感じられるのは灰色の地界ちかいの床面の冷たさだけだ。街の外れにあり、俺の背丈の二倍ほどの高さを持った円錐状の構造物、標準塔ひょうじゅんとうに腰を預ける。


 遠い視界のなか、煙に霞んで揺らめく柱にも似た五重塔ごじゅうとうの影が見える。オルダは大洞窟の溶岩に浮く岩塊内に築かれたすり鉢状の街だ。床面の高低差は標準塔ひょうじゅんとう二基分あり、外延のここからでは大きく中央を見下ろす形になる。


 背中に伝わる冷たい機械質の感覚。数少ない第二文明末期だいにぶんめいまっきの遺産であり、未だ謎の多い鋼の構造物には、それぞれ序数詞と固有名詞と短い文章が刻まれている。日頃暗室に籠っているために、地界ちかいに出戻ってからオルダの街を歩き回った経験は少ない。腰を預けたこの標準塔ひょうじゅんとうの名前を、俺は知らなかった気がする。


 唐突な爆発音。通信で、今度はオルダ岩塊が第三鎖だいさんさに衝突したということが伝えられる。今日は荒れ日だ。派手に揺れる視界のなかで、自分と同じくらいの大きさの岩の破片が三つ、天井部から剥離して砂塵を引き裂きながら街に墜落した。遠い激震に悲鳴が混ざる。あんなもの俺にはどうしようもない。死人はどれくらい出たか。身体を起こし、それを確かめるのは、この急場が落ち着いたあとになりそうだ。


 ここはまさに嘆きの谷の深淵の縁といってよかった。惨劇の街を一人離れて呆然と眺める。ただいつも通り浅ましく足を進めていたら、随分とひどい場面に出くわしてしまった。過去、荒れ日には最多で二三〇人の死傷者が出たことがある。五桁の人口を誇る街では致命的な数ではなかったが、影響は間違いなく大きかった。


 立ち上がろうとすると、足が震えているのに気付いた。他人事のように見える悲劇に、俺は怯えているようだった。何とか背後の標準塔ひょうじゅんとうを掴みながら腰を浮かせると、妙に澄んだ耳に、遥か上方からくぐもった轟音がした。驚いて思わず顔を上げる。


 雷鳴。直後、瞬く閃光に、激震。剥離しかけていた天井の岩片が吹き飛ばされて横壁の商店街に突き刺さり、灰燼のなかで複数の建物が倒壊する影が見える。一瞬遅れて、突風。揺れと合わせて足をすくわれ、背を打ち付けた俺の直上で、いままで視界を覆っていた煙が吹き晴れる。


 目に映ったのは、小さな穴の開いた岩塊の天盤。何かが地上圏ちじょうけんから降ってきたことは明らかで、さらにいえばその何かは街の中心、空を衝く五重塔ごじゅうとうの切っ先の隣あった。焦点が合う。衝撃で半壊した青色で紡錘形の容器と、そのなかに埋もれるように座った黒髪で白い肌の少女。服状翼ふくじょうよくはなく、表皮もかなり柔らかそうで、何より身体が小さい。俺たちとはあまりに違う姿。彼女が空神様そらがみさまであることは直感で分かった。


 けれども、おかしい。彼女は落ちていた。頭から真っ直ぐ、何の身じろぎもせず。旧人類である空神様そらがみさまは、服状翼ふくじょうよくの代わりに制空ができるような装具を持っている。それは彼らの両肩に施術された生体部品であり、一人に一つの異能力ともいえる超常的な力で様々な危険から自分自身を護るという。

 

 だからこそ、空から地上圏ちじょうけんに降り注いでも彼らは死ぬことはなかったし、現人類が彼らを敢えて攻撃しようということもなかった。加えて言えば、空神様そらがみさまの宇宙基地とやらからの来訪自体、俺が生まれる前から見られていない。交通整理員こうつうせいりいんの役割は、あくまで現状降臨している空神様そらがみさまが生活しやすいように案内することで、新たに降りてきたものへの対応など要綱から細目に至るまで一頁も載ってない。


 未だ紅い服状翼ふくじょうよくを展開する。ともかくいまのままでは、名前も知らない誰かが地面に激突して死ぬ。もう、多くの犠牲が出ただろう。俺を侮辱し、無視する多くの人間が、俺にはどうしようもない方法で命を落としただろう。しかしそれは、決して望まれるべき喜ばしいことではなかった。目の前で、誰かが死ぬ。それはずっと前から引きずっている俺の最大の心の傷で、空を抑えて避けるべき最も忌まわしいものだった。


 崩落する岩塊はどうしようもない。

 けれども、降ってくる空神様そらがみさまはどうにか助けることができるかもしれない。


 腰を屈め、息を止め、地面から足を離す。目まぐるしく動転する景色に、きぃいんと耳鳴り。気付けば俺の巨大な服状翼ふくじょうよくは引き千切れんばかりに開かれていて、身体はオルダの街の中空に浮いていた。内腕のなかには青色の容器に埋まったままの少女。決して離してしまわないように、しっかりと抱き占める。


 静寂の世界に、一瞬遅れて爆音と激震。空気が荒れ狂い、俺の前方に莫大な衝撃波が奔る。直下の地面がひび割れ、灰燼が巻き上がり、見える限りの石造りの家々がひどく軋んで歪な音を発する。岩石ではなく、地上圏ちじょうけんの木の建材によって街が作られていたならば、尖塔状の集合住宅も大きな劇場も含んで居住区の四割くらいの面積が扇状に消し飛んでいただろう。

 

 第七〇四号基 ユーリ

 たくましく生き、人々の助けとなり、誰からも愛されるために。


 背後、古バイコヌール方言の文字が刻まれた標準塔ひょうじゅんとうを駆け上り、遠く離れた地点に落ちてくる少女に向けて、音を置き去りにする初速で飛び出す。と、同時に、さらに遠くに見える対面の壁に激突しないように、翼を拡げて急制動した。


 一瞬の出来事。明らかに人類の限界を超えた無茶な挙動だ。身体のいたるところが軋んでいまにも千切れてしまいそうな痛みも、風圧で焼け焦げて穴の開いた翼膜も、俺にとっては慣れ親しんだものだった。


 重力が捻じ曲がっていくような感覚。身体が大きくふらつき、墜落する。何とか制動は上手く行った。温かい命の熱を持った腕のなかの誰かをかばって、背中から街の大通りに叩きつけられる。骨に響く痛み。呻いて開いた目に、巻き上げられた砂塵ときらめく複数の瓦礫片が映る。数秒経って、それらが雨のように打ち付けるなか、地面に流れ出る自分の体液の冷たさを感じていた。


 これで掴んだ柔らかな少女が潰れて死んでしまっていないのは、何度も繰り返して身に着けた急制動の能力と、彼女を覆う青色の外殻のためだ。


 全身から力がゆっくりと抜けて出ていく。それと合わせて、拡げたままの翼の色も白っぽく落ち着き始める。焼け付いた身体は熱を発しているが、全身に駆け巡るのは錆び付いた悪寒だけだ。あぁ、気持ちが悪い。吐き気がする。たっぷり無様に寝転がっていた俺は、不意に頭上から伸ばされた浅黒い腕を片手で掴んだ。


「あんまり遅ぇから探しにきたぞ、って、え、まさかそれ、お前、『空神様そらがみさま』か。どうした、何があったんだ」

「俺が聞きてぇよ……」


 赤黒く染まった二対の翼が唸りをあげて広がり、掴んだ俺ごと宙に浮く。小男、ヘンダーソンの乙型服状翼おつがたふくじょうよくは、甲型のそれと違って、本来人間を三人も浮かせる揚力を生むことはできない。技術装具の『義翼板ぎよくばん』で翼面を増すことなしに大柄の俺と合わせて抱えて飛べているということは、空神様そらがみさまがそれほど規格外に軽いことを示している。


『緊急放送、緊急放送。地界ちかい環境及び地下流入溶岩帯の活動鎮静を確認。現在地界ちかいは危険度一、各種整備員は発電施設の点検、および修繕に取り掛かってください。担当者は遅滞なく被害の状況報告をお願いします。繰り返します……』


 気付けば、世界は凪いでいた。


 視界を覆っていた塵埃は地面に降り落ち、何事もなかったかのように天井から吊るされた複数本の縄が揺れている。次々と建物の窓が開き、壁面商店街や遊興施設に暖かな明かりが灯る。腕のなかで眠る少女が開けた居住区天盤の穴に、複数の配管工が群がって補修作業を始めている。


 巨大な岩塊の墜落によって、五重塔ごじゅうとう脇の集合住宅二棟が圧し潰されて瓦礫に変わっている。壁面商店街も一部に紡錘状の岩片が突き刺さり、剥げ落ちた残骸が外延の公園に降り積もっている。ほかに散発的な被害が見られるが、主だったものはそれらだけだ。目方に頼れば死傷者はおそらく一〇〇人前後。被害箇所が集中した分だけ良かったのかもしれない。


 柔らかな風が頬を撫でる。にわかに喧騒を取り戻す地下都市。普段は飛ぶことをしないため、久々に空に浮いて見るそこに、俺はただ自前の息苦しさだけを感じていた。

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