第2話 地下の地下の地下
「アコウギ、
「任せろ。で、今度の『
翼を着込んで、防護服も着込む。重ね着というのは何となく変な心地がする。一通り暴れたあと、俺たちの間に険悪な空気はなかった。俺たちは格式高い古語で言うところの幼馴染だった。ヘンダーソン・オールト。錆びた赤黒い
二人で話しながら足を進める。耐熱瓦が並ぶ街並みを小汚い路地に沿って少し下った先に、オルダ居住街区への入り口があった。絶対温度四二五度。外気は上昇を続けていて、
危険度二。
手近なところに設置されている可動棒を押し倒すと、眼前の壁面が音を立てて横滑りした。なかに入り、防毒と冷却用の薬剤が天井からしこたま浴びせかけられたあと、静かに電力による明かりが灯される。轟音と共に再び密閉された鋼色の空間。そこはまるで遠古の都市にも存在したという貯水槽のようで、膝まで溜まった消毒液に透けた照明が淡い光を揺らしている。
ここまでくれば、もう外気の危険はない。防護服を脱いで壁の鉤状部にかけると、部屋の奥に数段深く掘ってある水溜まりの底まで潜り込む。貯水槽の底膜を通過したところで、一気に重力が戻ってきて、小奇麗な板張りの一室に転がり落ちる。
淡い暗闇のなか、いつもの要領で壁際の可動棒を探り当て、押し倒す。軽快な音がして部屋自体が動き始めた。三面の壁に据え置かれた複数の電力板の電源が入ると、時間を置かず部屋の進行方向の壁が横に滑って開かれる。
地下都市オルダの指令室から眼下に広がるのは、すり鉢状の窪地に広がった灰色の街だ。底面を十字に裂く石造りの大通りの中央には『
俺たちを乗せた直方体状の一室は、赤褐色の壁面に沿った螺旋状の路線に歯を噛ませ、ゆっくりと下降していく。ヘンダーソンは俺に見せたのとは違う愛想の良い笑顔で通りをいく誰しもに手を振り、塔のような集合住宅から身を乗り出した人たちと挨拶を交わしている。
「清掃、問題なく終わったぞ!」
小男の叫びに喚声が上がる。この地下世界を維持している配管工の帰還、それはオルダの住民が最も安堵する瞬間だ。仕事を終え、歓待されるヘンダーソン。対して俺は、見渡す限り誰の眼中にも映らない。ただでさえ一度オルダから逃げ出した余所者で、
土埃の舞う底面に帰着した指令室から、小柄なヘンダーソンが大通りに飛び出す。それを尻目に、俺は無言でわき道にそれ、自宅への歩みを進める。
商店街に寄って飲料と菓子を複数買うと、そのまま並び立つ尖塔のような集合住宅の一室の扉を開け、螺旋階段を下って暗室に入る。元々バイコヌール州政府が溶岩帯の観測用に作った部屋であり、予算と危険性の問題で計画が頓挫したために、俺が公舎として供与されることになったそこは、言うならば地下の地下の地下。
『アコウギ。元気にしてた? 今日は急な気温変化で散々だったでしょ』
暗室に入った瞬間、奥の壁面を覆う巨大な電力板の電源がつく。映し出されたのは、どこまでも広がる平原、燦燦と照らす太陽、そして、くるりと回る桃色の
シルダリア。六年前、
『そんな熱と煙だらけのつまらないところに立っていないで、私のところへ飛んできてよ。あなたに相応しい、もっとやりがいのある仕事を紹介してあげられるから』
彼女、シルダリア・バイコヌールは、正真正銘、希代の逸材だった。こと学問においては、名家に生まれ、才能に恵まれ、努力を怠らなかった彼女を凌ぐ者はないという。そんな傑物が
違う、俺はお前と違ってどうしようもない凡人なんだ。通信が入る度に何度も訂正したが、聞く耳を持ってもらえなかった。誤解は未だに解けていない。
「別にいい。案外気に入ってるんだ。この生活」
俺は嘘を吐いた。気に入ってはいない。ただ生きて行く分には割がいいだけだ。
世界はどうにもならないことばかりだ。俺には夢があった。それ以外はもう何も見えなくなるほどの夢が。全てを賭ける勢いで取り組んだけれど、限られたその席には彼女がいた。だから諦めた。それだけだ。
人生の半ばで道を踏み外した俺は、気付いたときにはこんな暗室にいた。人々を正しく導く太陽のように照り輝く美しいシルダリアの笑顔は、一人地底に落ち延びた影を容赦なく曝し上げていく。
『稀有な人。分かった。会議があるからまた明日ね。『英知は空にある』わ。アコウギ』
電力板の画面が暗くなり、待機状態に戻る。
暗闇のなか、自分の
職について久しいこの俺がいまさらこんなものを読んだってどうにもならないことは分かっていた。全て戻れない過去の話だ。けれども、希望を絶たれたあとでも、学生時代に買い溜めた図書を捨て去るくらいの根性はなかったし、むしろそれに縋ることで生きていたといえる時間はあった。過去の偉人や現代へ連なる物事は、いつだってふらつくばかりの自分の足元を確かなものにしてくれるように思えた。
きっとこの本たちは、これからの時代を担う学生や、現役の研究者にこそふさわしい。こんな地下の地下の地下で、誰でもできる仕事すら持てあましている男の手元にあるべきではない。
しかし、俺は構わずに次の本を手に取った。それが、臆病な俺なりの世界に対する悪あがきだといっても過言ではなかった。何度も見直した一冊。手に取ったものは、棚にあるなかでも、原典と思われる希少な
ただ、奥付けを確認すれば、この本は二〇四ニ年に第二京都出版という会社から販売されていて、漢字圏と英字圏の名を持つ二人の人物の共著であることは分かる。この三行ちょっとの情報は、書物の生産販売に係る全ての活動がそれまで日本国において続いていたことの証左となる。人名から国際協力関係が維持されているのも見て取れるので、同時期のほかの国でも同様かもしれない。未だ多くを語らない
学問的価値に目を滑らせながら、俺は奥付の横に手書きされた文字列を読む。筆跡から、おそらく
この世が平穏であったのは、誰か無力のお陰だ。
あるいは、誰かの無関心と、怠惰と、忘却のお陰だ。
そして、あの子を奪い去って仕舞えなかった、僕の臆病のお陰だ。
あぁ、僕は空が嫌いだ。
僕からあらゆるものを奪い去った、空が嫌いだ。
もう虹も、雲も、雨も、なくなるとしても、いつまでだって上にある空が嫌いだ。
だから、どこかでこれを読む誰かがいるなら。
空を嫌って欲しいし、空からくるものを愛さないで欲しい。
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