空を嫌う人たち

Aiinegruth

地界オルダ

第1話 服状翼

「――地球だ」

 歪んだ景色が晴れると、隣から漏れるような声が聞こえる。

 モニターの先、宇宙の闇に揺らめく青い星。

 ヘルモクラテスと同乗者は、驚き、息を呑み、頷き合った。

 

 一一○○光年の彼方から、空を射殺す光が奔る。

 巨大な自由の翼を拡げ、大地に奇跡が舞い降りた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 第一章 地界ちかいオルダ


 断続的に吹き抜ける乾いた風が、靴音を砂と共に巻き上げる。音はからんと薄暗がりに木霊し、石造りの建物に灯篭の明かりが揺らめく。閑散とした目抜き通り、その突き当りにある階段を駆け下りていく。


 辿り着いたのは展望台。長い影を引く鉄柵に手をかけ、身を乗り出すと、赤い空間が拡がり、視界が一気に明るくなった。蒸し上がる熱と揺れる輝きに目を細める。


 ここは『地界ちかいオルダ』、溶岩帯をまるごと飲み込んだ世界有数の地下空洞だ。眼下に絶えず赤く泡立つ海には、巨大な岩塊が浮いている。いま立っている展望台も、そのうちの一つの上面に築かれた小さな街の端にあった。


『時報です。敬空領けいくうりょうバイコヌール公共放送局が、現津月いまつつき下旬三日目、正午をお知らせします。現在『地界ちかい』の危険度は一、短期外界活動可能日たんきがいかいかつどうかのうびを維持。気を付けて作業を行ってください。……それでは、お待たせしました。お昼の真実日報しんじつにっぽうのお時間です。来賓は……』


 頭上から獣の咆哮にも似た轟音。見上げれば、鈍色の天頂から八本の鎖状の構造体が岩塊を囲むようにしだれている。『入洞錨にゅうどうびょう』と呼ばれる装置だ。空に揺れる錨に格納された通信機による音声は、八方向からの立体音響で時間と環境情報を伝えたあと、毎日三回に分けて放送されている日報に切り替わった。


 人口一万と少しの地下都市。その上面が張り付いた岩塊は溶岩の上に浮いていて、洞窟の天頂部に連なる地熱発電機の橋梁の下を、降ろされた鎖に囲まれた範囲でふらふらと動き回る。まるで、天を覆う肋骨のなかに揺れる心臓のようだと、暇な芸術家が言ったとか。


 通信機によれば、今日は短期外界活動可能日。地界ちかいの環境からすれば、良くもなく、悪くもない普通の日。つまり、防護服を脱げば短い時間で茹で上がる日だ。


 一気に息を吸い、顎下の凹凸に触れる。防護服上部の黒く分厚い面が割れて、吸い込まれるように肩口に収納される。開けた視界。眼下の溶岩からの熱気が頬を焦がす。外気は水が沸騰するまでもう少しといった具合で、いつも通り時間はない。


 防護服を完全に脱ぎ去り、手元の小さな瓶の蓋を開け、飲み干す。そして、歯に装着した小型収音機こがたしゅうおんきの電源を舌で押し入れ、大きく口を開く。回線が切り替わった。ご機嫌な音楽を鳴らす真実日報しんじつにっぽうが途切れ、電波に乗って歪んだ俺の声が揺らめく鎖の通信機群からけたたましく響く。


「こちら、交通整理員こうつうせいりいん。現地点は『地界ちかいオルダ』。危険のため、『空神様そらがみさま』の滞在は推奨されません。繰り返します……」


 熱風が吹き抜ける。同時に、自分の胸が真っ二つに割れ、何層にも折り畳まれた上半身の皮膚が開かれていく。両腕が肩口から二本ずつに裂け、それぞれ上方の腕が細く鋭く変形しながら長さを増し、肌がそれに張り付くように広がる。伸ばされた表皮は灰色から白銀に変色、硬化し、巨大な翼の形を取る。甲型服状翼こうがたふくじょうよく。人類の持つ服状翼ふくじょうよくのなかで最も大きく立派な種類のその血管が、飲み込んだ薬剤で爆発的な光を上げる。下に見える溶岩湖すら塗りつぶす輝きを湛えて、咆哮するおぞましい二本脚の怪物の影が映る。


 どうせ誰も聞いていない。そんなことは分かっていた。

 俺がいま声をかける空神様というのは、遥か過去、第二文明末期だいにぶんめいまっき――古代の偉大な宗教者グレゴリウスに由来する暦で二○○○年以降の数十年をさす――に起こった天変地異に際して、宇宙機で大気圏外に避難した旧人類のことだ。


 空神様は、いまから三〇年ほど前のある日、隕石群のように飛来すると、俺たち現人類に古の進んだ科学技術という恩恵をもたらした。それを画期として現代文明はとんでもなく大きな歩調を刻み、単純な絡繰り仕掛けに頼っていた生活は激変した。


 発電機や入洞錨にゅうどうびょうなどの巨大な機器から、通信機、拡声器、防護服、建物を覆う断熱繊維などの用具まで、この地下都市で生活するのに必要な全ては、過去の遺構や宇宙機から供与されたものらしい。いま飲んだ『蛍光薬けいこうやく』という身体が光る薬剤もそうだ。


 旧人類と俺たち現人類の姿かたちはあまり似通っているとはいえない。第二文明末期だいにぶんめいまっきに空へ飛び立てたのは僅かに過ぎず、旧人類の大多数は天地がひっくり返るような終末を体験し、そのなかで死んだ。文明は破壊され、言語も文字もほとんどを失った。


 地獄に等しい世界で生き残るには『進化』が必要だった。身体を大きく成長させ、翼を得る。俺たち現人類はそうやってどうにか生を繋いできた。世界を破壊し続けた天変地異が落ち着きを見せたのは、一〇〇年ほど前らしい。


 適当な時間が経った。翼を着込み、面を被り、身を翻して閑散とした灰色の街へ戻る。空神様そらがみさま地上圏ちじょうけんのさらにより恵まれた地域で生活している。そんな高貴な人々が煤けた地下の発電施設に降りてくるとは考えられないということもあって、地上圏ちじょうけんでは一〇人規模で連隊を組むという交通整理員こうつうせいりいんが、ここオルダには俺一人だけだ。

 

 いままで一度も影も形も見せない誰かに向かって声を飛ばす日々。正直な話、やりがいがなく無駄に近いことをしている自覚はあるが、楽に稼げるこの仕事はそれほど悪くもない。蛍光薬けいこうやくを飲まなければならないのも、そのせいで常に身体が光ったままなのも、仕方ないと言えばそれまでだ。

 

 熱風が吹き抜けるのが、眼前に表示された電力板の風向計で分かる。旧人類の科学技術を用いた防護服に表示される絶対温度は三六五度。変わらず、水が沸騰するまでもう少しという感じだ。蜃気楼のように歪む視界を画面の焦点補正機能が補助する。熱に焼かれた地面が薄くひび割れていく。乾いた靴の音は人の笑い声のように聞こえ、肌は備え付けられた冷却器のために不気味に冷たい。見上げると、八本の入洞錨にゅうどうびょうが熱風に煽られて舞い上がる火の粉に揺れていて、真実日報しんじつにっぽうからの荘厳な音楽が景色全てを染め上げる。


 古典に描かれた地獄の底のような景色。

 いま、世界が終わるとしたら、きっとここからだ。


 そんなことを思いながら街に下ろした視界の中央で砂塵が舞った。大通り脇の右手の路地から、赤黒く錆び、煤けた何かが走りこんできた。道中の建物の耐熱瓦を勢いのままに揺らしながら急旋回し、ふわりと舞い上がる。熱気を掴み、粘着質に輝く二対の赤黒い翼。空に浮く中性的な顔立ちをした小男は、挑発的な笑みを浮かべて俺を見下ろす。


「おう、アコウギ。今日も街灯の真似事か」

「配管工のてめえより物理的に輝かしい仕事だ。乙型野郎、喧嘩なら買ってやるぞ」

「言うじゃねえか、上等ォ!」


 煽られたからには煽り返す。少し暑いが仕方ない。防護服を脱ぎ去り、地に伏せ、白銀の巨翼を拡げる。そして、飛び掛かってきた男、ヘンダーソンと正面切ってぶつかり合う。激震。飛び散る塵埃と、血と、爆音。上昇する外気温を吹き飛ばすほどの争いは短く、結局いつも通りの引き分けで終わった。


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