第5話

 冷たい雲を切り裂いた。

 旅路のせきに別れも告げず、奇跡のような出会いを求めて。

 そうして僕はこごえる足で走りきり、たどり着いたのだ。

 天地にあまねく敷かれたふたつの銀河。

 手を伸ばせば届きそうな夜空とがわをきらめかす、唯一無二の絶景に。

 きぬいとにも負けないつややかな尾を引き、かぐや姫もかくやのかがやきを誇るハリー。彼女の横顔もはっきりとそのキャンバスに描かれている。

 どうだい兄さん。兄さんが見たときのハリーよりもきれいじゃない? こんなにも近くから見られる夢のような機会、めったにないもん。ね、そうでしょ?

 ……兄さん? どうしてなにも言わないの?

『それは君の心が満たされつつあるからだ』

 わっ!? びっくりしたー……。

 まさか小川のほとりに男の人が寝てるだなんて、全然気づかなかったや。

『初めまして、うら青き旅人よ。私が何者かわかるかね?』

 誰って言われても、外人さんに知り合いなんて――なんて――。

 ああ! エドモンド! もしかしてあなた、ハリー彗星が地球に接近するまでの周期を発見したあの天文学者ですか!?

『天文学者か。ふむ』

 えっと、違いましたか?

『私の分野は天文学のみにとどまらないが、ふむ、星々についやした時間を思えばさもありなんか。違いないよ』

 やっぱりそうですよね。写真で見たまんまの顔だったのでぴんときましたよ。

『そう、写真。もとい記憶がこの夢物語をひもくカギとなるだろう』

 やぶから棒になんでしょう?

『君には確かめるべきことがあるのだよ。まあ座りたまえ』

 はあ……失礼します。

『時に、君は私の名を冠したハリー彗星に想いを寄せているそうだね』

 想いを寄せるどころの話ではありません。僕はハリーにがれています。

 これまでも、これからも。

 なにがあろうとも、彼女への想いは色あせないでしょう。

『ふむ。つまり君はに恋い焦がれている、と』

 そんなの決まってるじゃないですか。僕はいつだってハリーを――。

『本当に、あの輝きがそうなのかね?』

 ――――。

 僕は、私は、力なく首を横に振った。

「――どうして」

『ようやく気がついたか。ふむ』

「どうして私は疑問に思わなかったんだ。のに……」

 そも、かろうじてベッドに横たえていただけの男に旅人など務まるまい。

 写真でしか知らない彗星をいかにしてひと目で見分けられよう。

 ふさわしき答えはただひとつ。

「私は旅路でなく、ゆめ辿たどっていた。兄のげんちよう、老いとのかい、そして彼女とあなたの偶像――それらすべてに説明がつく」

 私にハリーへのれんじようを抱くきっかけをもたらした天体写真。

 それを送ってくれた兄の存在は、私を夢路にいざなうせんどうしやたりうる。

 しかれば兄の声がえたわけも想像にかたくない。理想にたがわぬまたたきのもとまで私を導いた時点で、思い出に生きるかりそめの先導者は役目を果たしたのだから。

「あれもまたハリーだが、違う。私の記憶に焼きついた写真の中のハリーにせものであって、真に私が求めているハリーほんものではない……」

『うら青き旅人よ、顔を上げたまえ』

なぐさめはよしてくれ。したわしき相手の偶像などで満たされかけてしまった男に、面目もなにもないだろう」

 そうして私は心の余裕を失するあまり、夢路のよすがだった兄の声さえ都合よく忘れようとしたのだ。

 なんともはやとしのない話である。

『慰め……ふむ、さように映ったか』

「偶像め、なにが言いたい。よもやたわむれだったとでも?」

『君は野を駆け、竹林を抜け、丘を越え、遠路はるばるこの山のいただきへとおもむいた。それはあにぎみに命ぜられたためかね?』

 わざとがましく首をかしげる天文学者。

 彼の問いに私は「違う!」と強くさけんだ。

 兄はの旅人なれば、あれなる導きは兄の意にあらず。すなわち全天一の美しき箒星に対する我が熱情の表れなり。

 そんな想いを誰にもかいされたくなくて。

 我にもあらず、私は声をあららげてしまったのだ。

『ではふたたび顔を上げねばなるまいね。がためでもなく、おのがために』

 エドモンドは寝かせていた体を起こし、振り仰ぐ。つられて私も天上の銀河に目を移した。

 マイハリー。我が愛しき星よ。

 こんなときでも君はいつものように、私の恋心をくすぐるんだね。

 写真の姿なんてとっくに見慣れているはずなのに。

『ハリー彗星の周期を突き止めたことが私の最たる業績として語られがちだが、ふむ、あれはせんだつが残した記録との照合によるぐうぜんの産物でね。私はただ多くの星々をかず観測していたにすぎないのだよ』

「夢を……見続けるために?」

『叶えるためだ。夢を見続けるのもまた幸せだが、見続けるままでは叶えられないからね』

 そう言ってエドモンドは白手袋をはめた指で指し示す。

 天文学にしようがいをささげた男のしようちようを。

 かたこいに生涯をささげる男のしようけいを。

「――違いない。ああ、違いないとも」

『うら青き旅人よ、あの輝きが生けるさまを認めたければ、すみやかに観測用具を備えたまえ。一世一代の機をのがしてはかなわんだろう?』

「いよいよハリーが回帰するのか。では私の世界に戻らねばな」

『ふむ。君の記憶が生んだ偶像の発言だというのに、ずいぶん気安く信じるのだね』

「無論だよ、エドモンド」

 私は彼のほうを向き、真心込めて言葉をぐ。

「今のあなたが本人でなかろうと、あなたが世に知らしめたハリーの周期は本当のことなのだから」

 彼にとって、私の返事が納得のいくものだったかは知るよしもないが。

『そうか。ふむ』

 エドモンドは口元にかすかな笑みを浮かべていた。

I'll be seeing youアイル・ビー・シーイング・ユー――今はまだ生きなさい、たくましき君よ』

「夜空の下で、いつかまた――エドモンド・ハリー、素晴らしき人よ」

 私はすっくと立ち上がる。そんけいする天文学者にしばしの別れを告げながら。

 幾星霜を過ごすうちにあきらめかけた夢――愛すべき彼女との出会いを叶えるために。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る