普通の奈穂美【短編小説】

砂山一座

【短編小説】普通の奈穂美


 橋川はしかわ奈穂美なおみは普通の高校生だ。

 どのくらい普通かといえば、朝ご飯のパンをくわえて走り出して、運命の人とぶつかった事がないくらい、普通だ。

 隣に住んでいるイケメンの幼馴染もいないし、不良が猫を拾ったりしているのに出くわした事もない。

 黒髪で地味な、しかし何故かモテモテの男の子のハーレムに入っている、ということもなければ、難読漢字なんどくかんじの名前で困ったこともない。

 更に、高校で探偵たんてい倶楽部くらぶにスカウトされるでもなく、青春の甘酸っぱさでいっぱいの吹奏楽部で汗と涙を流すでもなく、ごくごく普通の生活を送っている。

 あまり成績が良くないことと、少し顎関節症がくかんせつしょうぎみなのが悩みだが、悩みの深度としてもいたって普通だ。


 通常、物語ではこういう普通の女子高生からあっと驚く展開が始まるのだが、これはそういう話ではない。

 どんでん返しもない。


 奈穂美は六十八点という、良いのか悪いのかよくわからない点数の解答用紙を鞄に詰め、家路いえじを急いでいた。

 金木犀きんもくせいはもうぎわで、昨夜降った雨と一緒に足元でまだびちゃびちゃと湿り気を保つのに一役買っている。


「秋が一番好きだなぁ」

 誰に言うともなく、奈穂美はつぶやく。

 それを聞きとがめて話し掛けるような人は居ない。

 再三さいさん言うが、この物語では物語は始まらないのだ。


 金木犀といえば、奈穂美は庭いじりが好きな祖母に庭に金木犀を植えてくれとたのんだ事があった。

 しかし、金木犀の香りより、銀木犀の優しい香りの方が好きだと言って、祖母はかたくなに金木犀を植えてくれなかった。

 まぁ、しかし、隣の家の庭に金木犀が植えられていたので、鑑賞かんしょうするのに特に困ることはないし、歩道にも沢山金木犀が植えられていた。

 秋になって花が咲いてようやく気がつくくらいの樹木に対する知識と情熱では、やっぱり物語は生まれない。


 奈穂美は秋になると多くの人がそうなるように、少しそわそわした、胸がめ付けられるようなノスタルジーを感じながら、家路を急いでいた。

 本人は平凡でも、家族が普通じゃないというパターンもあると?

 いやいや、残念ながら家族もいたって普通なのだ。

 足が悪い父と、視力の弱い母と、性別を彷徨さまよっている兄がいるが、そんなの何処にでもいるごく普通の家族だ。

 では、祖父母が富豪ふごうだとか、魔法使いだとか?

 いいや、六十四歳までつとめ上げた会社を退職たいしょく間際まぎわでリストラされた祖母と、専業主夫せんぎょうしゅふの祖父は息子夫婦と数年前に建てた二世帯住宅にせたいじゅうたくで暮らしている。

 ローンは二代に渡って返さなければならないが、それも間々ままあることだし、特筆すべきものがない。


 奈穂美の中で普通だというのがコンプレックスになっているかというと、そうでもない。

 奈穂美の中でコンプレックスといえば、一重瞼ひとえまぶたと、癖っ毛で雨が降ると髪のボリュームが増えてしまうことだった。

 まあ、それも遺伝なので諦めがついている。


 家に帰ると、母が天麩羅てんぷらを揚げている音がする。

 奈穂美の母は天麩羅を揚げるのが得意だ。

 兄が帰っている様子がないので「奈穂美だよー」と母に一声かけて自分の部屋に駆け上がる。

 奈穂美の母は視力が弱いが、弱視だからといって耳がいいとは限らない。

 玄関から無言で家に入って、奈穂美の母が、帰ってきたのが兄か奈穂美かを半別出来る確率は半分程度だ。

 父もまだ仕事から帰ってきていないようだ。


 秋のいい匂いがする。

 舞茸の天麩羅があるといいな、とぼんやり考えて、まだ天麩羅の匂いに侵されていない自分の部屋に入る。

 今日の奈穂美には、どうしても邪魔されたくない秘密があるのだ。

 奈穂美は、件の微妙な点数の答案用紙を取り出した。

 母に点数を報告したところで、叱っていいものか褒めていいものか判別がつかないだろう。

 平均点次第ね、とお茶を濁されるのがオチだろう。


 奈穂美は答案用紙の点数を周りの席のクラスメイトに見せたくなくて、六つに折り畳んだ時に、その書き込みに気が付いた。

 走り書きでインターネットのアドレスのようなものが確認できる。

 誰が書いたのか、見当がつかない。

 採点した物理の木下先生が書いたのだろうか?

 木下先生がは女生徒に人気のある先生だ。

 クラスの明るい女子が木下先生を取り囲んで歓談しているのをよく見る。

 普段、心が動くようなことがめったに起きない奈穂美は、木下先生からの何らかのメッセージだろうか、と一日中、大きくも小さくもない胸をドキドキさせていた。

 さては、木下先生の個人的なサイトに誘導されて、先生の秘密を覗き見てしまったりするのだろうか。

 教師と生徒が秘密の関係に発展してしまったらどうしよう、などと、まだ起こりもしない出来事に胸を高鳴らせている。


 奈穂美の部屋に鍵はついていないから、誰かが入ってきても見咎みとがめられないようにと、ドアが見張れる場所に移動して、ノートパソコンを立ち上げ、アドレスを打ち込む。

 しばしエンターキーを押すか逡巡し、えい、やっ! と目をつぶってキーを押す。

 程なくして、白と水色で構成されたホームページが表示されていく。

「ええと……プロジェクター等の、備品、発注に、ついて……?」

 教材の発注サイトに飛ばされた奈穂美はがっくりと肩を落とした。

 なんとなく悔しくて、テストの裏の走り書きを消しゴムで消そうとしたが、それはボールペンで書かれていたようで、机の上は細長くれた消しくずでいっぱいになった。


「奈穂美ちゃーん。

 ごめん、明日着て行く服貸してー」

 奈穂美の兄がノックもせずに入って来る。

 長い髪を島田しまだに結ってあって、首が白いから今日は着物でも着ていたのだろう。

「どうしたの?」

 兄はよく発達した胸鎖乳突きょうさにゅうとつきんを浮かび上がらせて首をかしげる。

 あでやかな所作が大変美しい。

「なんでもないよ。そうそう都合の良い事は起きないんだな、って思っていたところ」

 奈穂美はあきらめたようにパチンとノートパソコンを閉じた。

 教材発注サイトを見られて、事のあらましを説明しなければならなくなっては惨めすぎる。

「ふうん」

 兄は奈穂美のクローゼットを開けると、サイズが合うものだけを取り出して、鏡を見ながら身体に合わせたり、組み合わせたりし始めた。

「明日はどこに行くの?」

 こういった質問にこそ、物語の発展性があるのかもしれない。

 横暴な兄の下僕として連れて行かれた先に、横暴なスーパーダーリンが待ち構えているべきだ。

 しかし、これは普通の奈穂美の物語だ。

「牧場の友人から、仔牛が生まれるから見にこないかって誘われて」

 奈穂美の兄の予定は特に何の話題性もないようなものだった。

「仔牛が産まれるのって今頃なのね? 冬とか春先かと思ってた」

 この世で牧場で仔牛を取り上げたことが無い人などいないだろう。

 奈穂美は興味が無いとなると、自分が仔牛を見た時期さえ曖昧だった。

「今は季節交配やっている所は少ないんじゃないかしらね。

 仔牛が産まれるのなんて、一年中よ、一年中!」

 兄は、やっと明日の服が決まったようで、長腓骨筋ちょうひこつきんを筋立たせてクルリと回った。

「服を貸すのは良いけど、出産の手伝いとかはしないでね。基本は見守るだけなんだから」

「前に羊水をじゃぶじゃぶ浴びちゃったのを根に持っているの? あれはたまたまだったの!今度は大丈夫だったら」

 奈穂美は兄が逆子の押し戻しを手伝った愚行をまだ根に持っていたが、そんなアクシデントは誰にでも起こりうる事だ。

 それよりも、半日分の自分のトキメキが無惨に弾け飛んだ方が問題だった。


 奈穂美の日常は常に、なんて事はなく過ぎて行く。

 ふと机の上を見ると、さっきの消しカスが模様のようになっているのが目に入る。

 はっと、奈穂美の体温は一気に上がり、皺がつかないように服を丁寧に畳む兄を、ガクガクと揺すった。

「ぎゃぁー!!!お兄ちゃん!!たいへん!!」

「どうしたの?」

 奈穂美の叫び声を聞いて、今さっき帰ってきたらしい父が窓の外から「なにかあったのか?」と声をかける。

 最近のパワードスーツは、二階まで届くジャンプ力という謳い文句で販売されていて、家の外でビョンビョン跳ばれるのが鬱陶しくてたまらない。

 奈穂美は、普通に反抗期であった。

「お父さんは玄関から入ってきて!!

 お兄ちゃんほら、見て! 大変なことが起きてる!」

 兄は奈穂美が指さす机の上を、目を眇めてよくよく見る。

「こ、これは……」

「すごいの! 消しカスが猫ちゃんの形になってる!!」

 兄は、今度は目を皿のようにしてた。

「信じられない! こんな偶然て、あるの……?」

 玄関からはガチャンガチャンと父がパワードスーツを脱ぐ音が聞こえる。

「お父さーん!パワードスーツは脱いだらちゃんと消臭剤かけとかないと、お母さんに叱られるよー!!」



 橋川奈穂美の生活は至って平坦で普通だ。

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