二 あるはずの記憶
鳥居は立っていないし、その残骸も付近に転がってはいない。それに境内に残る建物の様子からしても、おそらくは神社でなく寺院的なものなのだろう。
建物は村内に残っているものの中でも最も状態が良い方で、瓦の載った屋根は半壊して左側の庇がなくなっているが、蔦の絡まった白壁は所々漆喰が剥がれてはいるものの、すぐさま倒壊してしまうような感じではない。
「え? ここって……」
だが、そこに立ってその朽ちかけた建物を見た瞬間、僕は奇妙な感覚に捉われた。
人間の脳は数秒前に見た情景に対してそんな誤解をすることがあるらしいし、最初はそんな錯覚なのだと僕も思ったのだが……いや、気がするとかノスタルジーとか、そんな曖昧なものではない。確かに僕は、気のせいでも錯覚でもなく、実際にここへ来た記憶を持っているのである。
「僕は、ここを知ってる……僕はここへ来たことがあります!」
気がつくと、思わずそんな台詞が口を突いて出ていた。
「はあ? なに言ってんだよ。んなわけないだろ? ずっとその存在すら誰も知らなかったんだから。気のせいだよ気のせい。さ、アホなこと言ってないで中撮れるか見に行くぞ!」
だが、ディレクターは僕の話を聞こうともせず、一笑に付すとさっさと建物の方へ行ってしまう。
まあ、確かに地元の役所すら認識していなかったような歴史から忘れ去られた廃村だ。彼が言う通り、常識的に考えればそんなことあるわけがない。
しかし、あるわけはないのだが、どうしても僕の脳裏に刻まれた鮮明な記憶が、ここへ来たことがあると主張してやまないのである。
「…………はい」
とはいえ、それを客観的に証明する術は何もない。納得はいかなかったものの、僕はそれ以上反論することを諦め、渋々、ディレクターのその言葉に従った。
「床もなんとか大丈夫そうだな……やっぱ、明治よりも新しい時代の村なんじゃないか?」
ギシギシと音を立てながら、その本堂らしき建物の正面にある木の階段を登ったディレクターは、半分開いたままになっていた扉を強引に開けて、内部を見回しながらそう呟く。
後を追った僕も彼の頭越しに中を覗くと、確かに思ったほど荒れ果ててはいなかった。
無論、古惚けて土埃は溜まっているのだが、床板も天井も、木製の建材はまだまだしっかりしている。
「これは天狗……いや、
微かにカビの臭いが鼻腔をかすめる中、ミシミシとゆっくり歩を進めて入って行ったディレクターは、奥の祭壇に祀られた人間大の木像を眺めて言う。
僕もおそるおそるそちらへ近づいて行ってみると、それは狐のような動物の上に立つ、天狗みたいに翼の生えた異形の者の彫像だった。鳥のような嘴があり、背には火炎を背負い、手には剣と縄の束を握っている。
「こ、この像も見たことあります!」
その特徴的な神像にも見憶えがあり、僕はまたしても興奮気味に声をあげてしまう。
「そりゃあ、どこか他で見たんだろう。珍しくはあるが、飯縄権現を祀る寺もそれなりにあるからな」
だが、ディレクターはやはりそう言って、ぜんぜん僕を相手にしようとはしない。
彼は仏像が好きらしく、意外とそっち方面に造形が深いので、きっとこの神像に関してはその通りなのだろう……まあ、そう言われてみれば、確かにそんな記憶違いである気もしてくるのではあるが……。
「飯縄権現は修験道とも関係深いし、やっぱ修験者の暮らしてた村だったのかな? お、こっちには天狗の面があるな。これを着けて祭で舞ったのかな?」
その言葉に脇の壁の上方へ目を向けると、そこにはずらっと横一列に天狗の面が飾り付けられている。
「……!」
だが、その面を見た瞬間、僕の脳裏にはまるでフラッシュバックのようにして、あの日の情景がありありと映し出される。
そこに並ぶ大きな鼻の赤い大天狗の面や、鳥のような嘴を持った黒い烏天狗の面……それをかぶった山伏のような男達が、笛や太鼓の音に合わせて飛び跳ねるように舞い踊っている……。
それも先程、強い
そうだ……あれはたぶん、夏祭りか何かで奉納する舞だったんだろう……。
そして、この脳内に再生された映像を機に、僕は忘れ去っていた遠い日の記憶をすっかり思い出した。
この廃村に妙な懐かしさを感じていたのは単なるノスタルジーなんかじゃない……それもそのはずだ。僕は小さい頃、この村で暮らしていたのだから。
ここまで来るのに通って来た草ぼうぼうの道も、あの朽ち果てた家々も全部憶えている……もちろん、あの頃は草も生えていなかったし、家もしっかりと建っていて人が住んでいた。
清らかな水の張られた田んぼには青々とした稲が風に吹かれ、まさに日本の原風景とでもいえるような、本当に美しい村だった。
あれはいつ頃のことだったのだろう? そこら辺の記憶は曖昧だが、季節は今時分と同じ夏の盛りだったように思う。
なぜ、僕がこの村にいたのか? その理由はわからない……でも、確かに僕はある時期に、この村で村の住人達と一緒に暮らしていたのである。
あの天狗の面の印象が強烈すぎるためか、村人達の顔や名前はまるで憶えていないが、不思議とみんな洋服ではなく和服を着ていたような気がする。
僕が小さい頃でももう平成の世だったはずだが、田舎の山奥の村というのはそんなものだったんだろうか?
「このお面を着けた舞も見たことがあります……僕はここに住んでたんですよ!」
その事実を確信した僕は、改めてディレクターにそのことを告げる。
「はあ? さっきから何言ってんだよ? この暑さで頭でもやられたのか? ありえないだろ。学者先生の説によれば明治時代に廃村になってるんだぜ? それとも平成の時代までこの村に人がいたっていうのか? だったら今度は、地元の人間ですらその存在を知らないってことの方が辻褄合わなくなる」
しかし、相変わらず彼は僕の話を
「それは、確かにそうなんですけど……でも、本当のことなんです! 嘘だと思うんならついて来てください。この本堂の裏に僕が寝泊まりしていた建物がありますから。時代劇で見るような土間に竈のある台所があって、そのとなりに囲炉裏のある板の間、お風呂は今考えると五右衛門風呂ってやつでした。まだ小さかったから広く感じたけど、大人なら一人でいっぱいになるくらいの狭い鉄製の湯舟です」
僕としてもその矛盾をどう解釈していいものかわからなかったが、それでもこの鮮明な記憶は錯覚や妄想なんかじゃない。
「あ、おい! ちょっと待てよ!」
僕ははっきりとした口調でディレクターに言い放つと、彼の返事も待たずに本堂の裏側へ向けて歩き始めた。
「――やっぱりあった! この竈で炊いたご飯、すごくおいしんですよ? 懐かしいなあ……あっちには宴会できるくらい広いお座敷があって、床の間にはやっぱり天狗の像があったんですよね……」
取れかけた扉を出て境内へ戻り、ぐるりと本堂を廻り込んで裏へ行くと、やはり僕の記憶通りの景色がそこには広がっていた。
無論、その当時とは違って現在は生活感がなく、すっかり廃墟然としているのではあるが……。
「おい、マジかよ……全部、おまえの言う通りじゃねえか……」
まるで、予言をしたかのように僕の言葉通り展開するその光景に、最初は信じていなかったディレクターもだんだんと驚きの色を見せ始める。
「ど、どういうことだよ? なんで、この誰も知らなかった村におまえが住んでるんだよ? おまえ、この地方に
「ええ。東京生まれの東京育ちのはずですよ。親類や知り合いもこっちにはいないし……だから、どうしてなのか僕自身にもよくわからないんです。でも、小さい頃のある時期にここで過ごしていたことだけは確かなんです」
小刻みに震える目を大きく見開き、混乱気味にディレクターはそう尋ねてくるが、そんなこと訊かれても僕だって答えられない。
「な、なんだか気味が悪いな……と、とにかく早く使えそうな画を取って、さっさとこんなとこおさらばするぞ!」
半信半疑ながらも、僕が嘘や冗談を言っているのではないと理解したディレクターは、すっかり血の気の失せた顔でそう言うと、朽ちかけた母屋を出て足早に本堂の表側へと帰って行った――。
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