彼と僕のアイデンティティ

夏山茂樹

お前は誰だ?

 机を挟んで合い向かって昼食を摂る教え子からはいつも死と、愛情に飢えた何かの血の臭いが漂っていた。比喩ではなく、実際に食事を共にするたびにそういった臭いが漂ってきて私の脳内を狂わせようとしてきた。


 容貌は普通の人間の女の子、いや男の子で元気に学校の中を走り回ってクラスで成績のいいメガネ少年をからかってはその教えを乞う、勉強が好きな子でもあった。

 好きなものはカレーライスと外国語の歌謡曲。その曲はどうやらソ連時代のロシアで作られた歌のようで、曲調はむかし見た映画に出てきたものによく似ている。


 そんな彼の髪がライトの当たり具合によって色を青や紫へと姿を変える。いつもはその長くて重たそうな髪をツインテールにしているが、その日に限って髪を解いて後ろへ垂らしていた。


「重たいなあ」


 昼食の弁当に向いていた彼の目線が、私とぶつかる。その色を変える髪に夢中になっていた私はどう対応すればいいか分からず、じっと彼の大きなネコ目を見つめていた。


「あっ、にいちゃん。もしかして今日のおれ、イケてる?」


 彼に話しかけられて、ハッと我に帰った私は脳内で言葉を紡ぎながら返答を返す。


「えっ、あっ、そうだな。今日はなんで髪を解いてるんだ? いつもはツインテールなのに」


 すると彼もどう返答すればいいかわからなくなったらしい。目線を宙に泳がせて、私から視線をそらしている。彼のネコ目にはいつも虚ろな光が宿っていて、生きているのはわかるが、時々その光がどこを向いているのかわからなくて彼が人形のように見えることがあった。


「……にいちゃんはさ、こう聞かれたらどう答える? 『自分が自分だと思えるものは何ですか?』って」


 なるほど。この子は自分にまつわることを聞かれるとどう答えればいいかわからなくなるのか。そう感心していると、彼が続けた。


「授業で小城が課題を出してきたんだよ。『今週の週末を使って、自分が自分だと思えるものを発表してください』って」


「小城先生も難しい課題を出してきたな。そう簡単に答えられない質問だけど、もっと分かりやすいように言い換えてみよう」


 彼は目を丸くして、ヒュッと小さな息音を立ててこっちを見つめている。どんな質問をされるかわからず、またどう答えるかの覚悟や準備ができていないようだ。


「お前は誰だ?」


「……何が答えなの?」


 肩を少し落として彼は、経験してきた十年の半生をその小さな体で受け止めるように肩を抱き締めて聴いた。


「琳音、その質問で答えられるものが小城先生の求めているものなんだよ。難しい言葉で『アイデンティティ』という。分かったか?」


「……は、はい。でもそんなもの、おれにはないも同然だよ」


 うつむいて今にも泣きそうな瞳で私を見つめる琳音は、弁当箱を見つめながらじっと黙り込んでしまった。教え子を泣かせてはいけない。私はそう思って、とっさに答えた。


「安心しろ。おれも簡単には答えられないからな。だが、自分だと思えるものはあるんだぜ」


「それは……?」


 お前だ。家族を殺されて孤児になったお前を、私はお前と重ねているんだ。そう答えたらきっと琳音に殴られて怒られるだろう。特定の教え子をアイデンティティにしている担任教師なんて社会的地位が危うくなる答えだ。

 言いかける前に気づくことができてよかった。私は胸を撫で下ろして、琳音の悲しそうな瞳を見つめた。


「映画だ。どんな苦しい時も、悲しい時も、映画を見て自分を奮い立たせてきた。自分しか自分の責任を負えない、とな」


「えいが……?」


 琳音が顔を上げて私の顔をじっと見つめる。意外な答えだと思われたのか。彼は私の目をじっと見つめて押し黙る。それが何秒も続くと、お互い自然と何か熱いものが湧き上がって顔が赤くなる。

 顔が赤くなった琳音に気づいて、私は思わず目をそらして話を続けた。


「お前はどんな映画が好きだ? 俺は何でも見る。でも特に好きなものはな、ミレニアムってシリーズだ。スウェーデンのほら……ファンキーなハッカーの出てくるやつ」


「ふうん。小説は読んだことあるけどよお……。映画はまだ十五歳じゃないから見たことないんだよ」


「そうか……。お前は何が好きだ?」


「映画ならチェブラーシカ。ソ連時代の。他に好きなものなら……。にいちゃんって言ったら変かなあ?」


 ああ、チェブラーシカか。ロマン・カチャーノフ監督のクレイアニメ。ストップモーション。一九六九年公開の『ワニのゲーナ』、一九七一年の『チェブラーシカ』、一九七四年の『シャパクリャク』、一九八三年の『チェブラーシカ 学校へ行く』。タイトルと公開年がスラスラと脳内から出てくる。まるで脳内のペンがノートで踊っているような気分だ。


「おれさ、ここに来たばかりの時に初めて映画を見たんだ。同じ部屋の人と。それがチェブラーシカだった。映画に出てくる歌が好きでさ、必死にキリル文字と言葉の意味を叩き込んで、歌を全部覚えたんだぜ。『誕生日の歌』も、『空色の列車』も、『チェブラーシカの歌』も」


「全部ロシア語でか? すごいじゃないか!」


「そう言ってくれるのはにいちゃんだけだよ。この学校は秀でる何かを持ってて当たり前って感じだもん」


 ニカっと笑う琳音の表情が少し柔らかくなった。そういえば映画の話ばかりでなぜ彼が髪を解いてきたのかを聞いていなかった。


「そういえばお前、今日は髪を解いてるんだな。珍しい」


 すると彼はその長い髪に付けていた王冠形の髪飾りを外して、私の手に置いた。手のひらに小さな金色の王冠がライトを反射して光っていた。


「実は……。これさ、拳都けんとからのプレゼントなんだけどアイツ養子にもらわれていって今は部屋におれしかいないから……。髪飾りを付ける人がいなくなって寂しいんだ」


 琳音が頭をかきながら眉を潜めて笑う。その両まつ毛には涙の粒が溜まっている。きっと髪を解いたのは、女性が普段結っている髪を振り解いた時のような感情の爆発に似たものなのだろう。彼は男だが、まだ第二次性徴を迎えていない、性的には曖昧な子供なのだ。


「付けるから、もう少し近くに寄ってくれないか?」


「うん……。ん!」


 お互い身を乗り出して、近くなった顔を見やる。やはり、しばらく目を見つめあっていると自然と顔が赤くなっていく。だが、今度は顔を背けることさえせずに琳音のいい匂いのする髪に触れて、その肌の温かさを感じ取る。なぜだろうか。彼が生きている人間なのだときちんと理解したようで、私は安心している自分がいるのを知ってしまった。


 瞳を閉じた彼のまつ毛にはまだ涙が溜まっている。切り揃えられた前髪をかきあげて、分け目を作りながら額のより温かみの感じる部分にピンをさして前髪を留めた。


 ついでにまつ毛の涙も拭い取ってやると、琳音はかすかに口角を上げて私にその笑顔を見せた。


「にいちゃん、恥ずかしいよ」


 そう言う彼は頬を赤くして、満面の笑みで私に笑ってみせた。その顔を見て私も胸を撫で下ろして、誘ってみた。


「週末はチェブラーシカを見てみようか。俺にも歌を教えてくれよ?」


「うん! めっちゃ難しいから覚悟してよ!」


 ヒヒヒ。そう笑い声を上げながら、琳音は私の頭を撫で返したのだった。

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彼と僕のアイデンティティ 夏山茂樹 @minakolan

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