12F ヘル=トゥー=ウィーク 3

「あー……阿国おくに?」


 返事はない。どうしようこの抱っこちゃん人形。それがしに張り付き数十秒。くっ付き虫の如く全く妹は離れてくれず、軽く服を引っ張ってみるも、うんともすんとも言ってくれない。急にどうしたのか。跳び蹴りかましてくれた挙句にコアラのようにしがみ付き離れてくれないとはこれ如何に。


「……阿国〜」


 それがしの無情なる友人達と違ってしっかり名前を呼んでいるのにこれである。贅沢な奴め。のじゃロリなんて希少種の癖にこれ以上何を望むと言うのか。仕方ない……着物の襟首を引っ掴み力任せに引っ張る。


 離れ……離れ……離れねえなぁッ‼︎ ってか背中が痛えわッ‼︎ どんだけ力込めてそれがしにしがみ付いてんの此奴ッ⁉︎ 離れなさい‼︎ それがしは抱き枕じゃありませんよ‼︎


「阿国〜いい加減離れないと、ぶっ飛ばしますぞ〜」

「シンプルに酷いのじゃ⁉︎ 妹に対する対応ではない⁉︎」

「おま言う。兄にベアハッグかましてる奴の台詞じゃない定期。離れなさい! これ以上は妹とて許せぬ! そこそこ忙しいんですぞそれがしは」

「嫌じゃぁぁぁぁッ! 兄者が撤回するまで離れん‼︎」

「……なんですと?」


 てっかい? てっかいってなに?鉄拐てっかい鉄拐てっかいと言えば落語の演目の一つ。なぜ急にそれがしが今落語を披露せねばならないのか。くっ付き離れない妹を見下ろし頭を掻きながらため息を吐き、「しょうがないですなぁ」と妹の肩を叩けば、ようやく妹は離れてくれる。


 離れた妹とそれがしの間に引かれる銀線。糸引く鼻水。汚えなぁッ‼︎ が……まあいい、そこまでして鉄拐して欲しいなら今回だけ、それがしはさっさと三味線の練習に戻りたいから一回だけだぞ。妹の書机の上に置いてある扇子を手に取り、足を正座に整えて扇子を目の前に置き頭を小さく下げ上げる。


「えーGWゴールデンウィークも終わりまして、皆様色々な所へ御旅行に行かれたりなんかしてですな。故郷に帰ったり、海を渡ったり、異世界に行っていたなんて精神病院まっしぐらの馬鹿な輩もいたりするものでございますが、中華街、なんて洒落た場所に出向いた方もいるかと思います。えー、中華街なぞとそれがしは足を向けたことまぁないのですけどもな、どうせ足を伸ばすなら本場の空気に触れたいもので、北京ぺきん成都せいと南京なんきんと数多くの都市がありますが、本日は上海しゃんはいのお話を一つ。えー上海にとある廻船問屋かいせんどんやがありまして、名を『上海屋』、なんてなんの捻りもない名前なのでございますが」

「その鉄拐じゃないのじゃッ‼︎ 兄者の阿呆‼︎」

「ブッフ⁉︎ ツッコミが遅えッ⁉︎ しばらく聞いてた意味よ⁉︎」


 正座して聞きだしてたから合ってると思ったわ⁉︎


 それがしの腹部に再び突っ込んで来た妹を受け止め軽く咳き込む。それがしに落語催促した訳でもないなら一体なんだ? 再び張り付いて来た妹の着物をぐいぐい引っ張るが、妹はそれがしに鼻水を擦り付けながら離れる事を許してくれない。それがしの服がカピカピになっちまう⁉︎


「撤回じゃ撤回! 我はそんなことで誤魔化されんぞ! 兄者がやめないと言うまで離れん‼︎」

「なにを⁉︎」

「三味線じゃ三味線! 終わりなぞと吐かしおってからに‼︎ 我はしっかり聞いたからの‼︎」

「いやそれは……」


 果てしなく怠い勘違いしてやがる。これも兄妹の為せる技かッ、撤回と鉄拐間違えたから何も言えねえッ。しかも人の零した弱音ちゃっかり盗み聞きやがってッ。


「一つ学年が上がってから急にいなくなったかと思えばッ、頬に墨を入れるはッ、蒸気機関なぞに手を出すわッ、鈴芽殿の姉者のハイカラ娘と仲良くなるわッ、西洋の踊りにまで身を染めてッ、南蛮の娘まで連れ込み異国で騎士になったなど言う始末ッ‼︎ 少しならよいッ、少しだけならッ、でも全部は嫌じゃッ‼︎ このままでは兄者が兄者じゃなくなってしまう!きっとこのままでは三味線も弾かなくなってしまうッ‼︎」

「いや、そうはならんやろ」

「なるぅ‼︎ きっと、きっと、次はヴァイオリンだのッ、アコーディオンなど持って帰って来てッ、南蛮万歳なんて言ってッ、三味線に触らなくもなってッ、それでそれでッ、きっと我の前では弾いてくれんくなるッ。嫌じゃ絶対‼︎」

「……そんなに阿国はそれがしの三味線気に入ってましたかな?」


 いつも減らない口を叩いていた癖に、しがみ付き離れない阿国の服から手を離し紋章刻まれた頬を小さく人差し指で掻く。それがしの腹部でぷくぷくと泡立つ鼻水の音にげっそりと顔を歪めて天井へ顔を向け耐えていれば、弾ける鼻提灯に押し出されるように妹の声が腹部から浮き上がって来た。


「父上も母上も忙しくて相手してくれずとも、兄者が三味線弾いてくれたっ。ずっとずっとっ」

「いやそれは……」


 侍地獄から抜け出す為に続けていただけ。そう続けようと落としたそれがしの顔を見上げる鼻水塗れの妹の顔に言葉が喉の奥へと引っ込んでしまう。


「兄者の三味線は我の子守唄じゃぁっ。我の音は兄者の音じゃぁっ。じゃからっ、じゃからのぅ……やめないでぇ……。大きくなったらっ、兄者の三味線で舞い唄うのが我の夢じゃぁ……っ」

「……そう言えばお主、かたくなに三味線だけは弾きませんな」

「だってぇ兄者のじゃもん……っ。侍にならずともよいしっ、他のは全部我がやるからぁっ、我の音だけはやめないでぇっ」

「昔……催促されましたなぁ。似たように」


 思い出したわ。すっかり忘れていた。


 昔一度三味線をやめようと思った事がある。侍地獄から抜け出す為に芸事を選んでいた最中。三味線をしばらく続け、笛や太鼓の方がマシじゃね? と思い他の楽器に手を伸ばしたが、阿国に止められた。何が気に入ったのやら、袖を引っ張り三味線を弾いてくれと阿国があまりに頼んでくるものだからずるずると。いつしか逃避の為の術は三味線になった。


 痛いの嫌だから楽器に手を伸ばしたのに三味線頑張ると弦を抑える指先裂けて痛いし。武芸地獄よりはマシだったが、今思えば本末転倒だ。ただ、袖を引く妹の小さな手がそれから逃げる事は許さなかった。


それがしはどうにも……命令されるより頼まれる方が弱いらしい……」


 顔を上げる妹の鼻水に濡れた顔を拭ってやる。妹のおかげで理解した。分かってしまった。それがしの音の底の底。三味線を弾く中でずっと近くにいた一人の観客。侍地獄から抜け出すよりも何よりも、それがしが三味線を弾いていたのはずっとずっと……。


「約束しましょうぞ阿国。それがしが三味線を手放すことは一生ないと」

「……ほんと?」

それがしの根っこの一つですからな。ただ一つお願いが、此度のそれがしの学校での体育祭。その応援合戦の曲だけは一人のために弾くのを許してくださいな。それがしの音の根本はそれらしい。多くの音には釣り合えない」

「うわきものぉっ」

「許せ」


 それがしに顔を埋める妹の頭に手のひらを置き、細く鋭く吐息を吐き出す。妹のおかげでカチリと何かが身の内で嵌った。吐き出した鋭い吐息の音を手繰るように部屋に一つ足音が迫り、妹に開け放たれたままのふすまの横から顔を伸ばしたダルちゃんが部屋の中をしばらく眺め指先で空に文字をつづる。


『あー……ソレガシ? うーんと、なんでそんな服がカピカピなの?』

「なにも聞くなッ」


 どう見ても鼻水です。だからティッシュかタオルを取り敢えず下さいっ。ただ、拭うのはそれだけで、思い出した記憶は拭わない。残念ながらこればかりはダルちゃんにも誰にも話せない。恥ずかしいしっ、何よりも、この思い出はそれがし達兄妹だけの秘密だ。




「あらあらソレガシさん、なにやらさっぱりした顔をしてますわね? 憑物は落ちまして? もがいた甲斐はあったようですわね?」

「向かうべき先が決まっただけでまだもがいている真っ最中ですぞ」


 朝の五時。集合場所である公園でジャージ姿のゆかりん氏と向かい合い、少しばかりまだ眠たい頭を起こす為にノビを一つ。体育祭一週間前まであと二日だが、二日後が土曜日である事を思えばこそ、実質残されている詰められる時間は今日限り。時間はないが不思議と体は軽い。


「では始めようかしら? 取り敢えず一〇キロ程」

「取り敢えず一〇キロ⁉︎ ま、まぁいいですけどな。ランニングの間にお願いを一つしても?」

「あら、なにかしら?」

「山手線ゲェェェェムッ‼︎ 古今東西『りなっち氏の好きなもの』‼︎ イェェェェイッ‼︎」


 早朝の公園に響き渡るそれがしの声と、ぽかんとしたゆかりん氏の顔。……ゆかりん氏ってそんな表情もできるのな。そんな顔されたらテンション上げたそれがしの方がおかしいみたいじゃねえか。それがしの所為なの?


「えーと、その、大丈夫でして? その、お頭が」

「やんわりとマジキチ判定は草。それがしの音には相手を知る事が必須。りなっち氏とは残念ながらまだ親しいとは言えそうにないですので、今日一日でりなっち氏のことを兎に角知りたいのですぞ。なのでまずはゆかりん氏から見たりなっち氏のことを」

「へー……そういう事なら構いませんわよ?」

「よし、では山手線ゲェェェェムッ‼︎」

「イェェェェイですわ‼︎」

「古今東西『りなっち氏の好きなもの』ッ‼︎」

「朝っぱらからうるせえぞ‼︎ どこの馬鹿だッ⁉︎」


 おっとぉご近所さんがガンギレた。逃げよう。


 ゆかりん氏と顔を見合わせ走り出す。取り敢えず一〇キロ。その間にゆかりん氏から聞けるだけりなっち氏の事を兎に角聞く。機械人形ゴーレムの改造と同じく、りなっち氏に釣り合う為に必要な形を整えて己を調律してやるッ‼︎ 機械神の眷属の、それがしの意地の見せ所。色眼鏡なんかには負けてやらん。貼られた値札を引っぺがし、新たな値札を己で貼る‼︎ 絶対に‼︎


「せーの、ギター‼︎」

「いえ、りなっちさんはそこまでギター好きじゃありませんわよ? 罰ゲームですわね。一キロ追加で」

「なんでやッ⁉︎」


 じゃあなんで軽音部入ってんだよッ‼︎ 出だしで死んだわ‼︎ 最早罠だろ‼︎ 嘘吐いてんじゃねえだろうな‼︎ 罰ゲームで一キロ追加とか学校始まるまでに終わんねえんじゃねえのこのランニングッ⁉︎

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