ケロケロカエルの池とオオカミの鳴き声
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ケロケロカエルの池とオオカミの鳴き声
暗闇に煌めく無数の光が見えるだろうか。これは星々の瞬きではない。水面に蠢く波模様のその一部、木漏れ日の反射光だ。
ここはケロケロカエルの住む森の、ケロケロカエルの住む池だ。目を凝らせば、波模様の向かう反対側の暗がりに、小さなカエルがいることに気がつくだろう。一つの波に一つのカエルが、無数の波間に無数のカエルが潜んでいる。
彼らの名前を付けたのは人間である。彼らは森の程近く、あるいは森の中のごく浅いところで生活を営み、時折、森の深くへ分け入って、キノコや山菜の類いを採っていき、また稀に獣狩りもした。
森の地理に明るくない人々にとって、この池に住む奇妙な鳴き声のカエルたちと池自体とは、貴重な目印となっていた。
人間たちの聞くところ、カエルたちは常にケロケロと鳴いていた。だから『ケロケロカエル』と人々は呼んだ。必然的に、カエルの住む池は『ケロケロカエルの池』と呼ばれるようになった。
物語はこの『ケロケロカエルの池』に住む、『ケロケロカエル』から始まる。
これは昔々の出来事だ。
◆◆◆◆
「ケロケロケロケロ、ケロ、ケロ。ケロケロケロケロ、ケロ、ケロ、ケ」
カエル達は鳴いていた。太陽が昇り暗い森がぼんやり明るくなって、また沈んで全き暗闇が森に訪れるまで、そしてまた日が昇るまでの間も、カエル達は鳴いていた。常に変わらず同じ調子で、気の向くままに歌っていた。しかしカエル達の中で、何かが着実に変化していた。
「ケロケロケロケロ、ケロ、ケロ。ケロケロケロケロ、ケロ、ケロ、ケ。ケロケロケロケロ、ケロ、ケロ。ケ……。なあ、俺達ずっとこうやってケロケロ鳴いてるのか?」
「え、何? 急じゃん」
「いや、だからケロケロ鳴いてていいの、このまま?って聞いてるんじゃ」
「いや分かる。え? うん、だからさ、そう、良くないんじゃない」
「だろ? もう正直飽きたよ。ケロケロ鳴くんはさ。正直。ね」
「うーん、そうね。実際飽きてきたわ」
「な。じゃあ、止めよ。ケロケロ」
「で、どうするの?」
「……それは、例えば、別の鳴き方するとか。全然違う」
その時、森の遠くの方から、何やら聞き慣れない不気味な鳴き声のようなものが聞こえてきた。
「……ォオオーーン! ァウォオオーーン!……」
カエル達は一斉に鳴くのを止め、この不気味な響きに耳を傾け始めた。
「ほら、これだ!」
一匹のカエルが叫んだ。叫びは周囲のカエルに伝播し、カエル達は木霊のように同じことを呟いた。
「この音で鳴くんだ!」
それからカエル達は、目指す音が出るまで、何度も何度も鳴く練習をした。
「……ケロロン。ケロロロン。クィルルルォン。カゥオウォウォオン。……」
何千回も、何万回も鳴き、以前の鳴き方を忘れかけるほどに鳴き続け、とうとう、かつて聞いた不気味な声をそっくり真似できるほどに至った。
ケロケロカエルの池の方から、ケロケロカエルの鳴き声が聞こえなくなったことが、森の周縁部にある村の人々の間で話題となったのは、カエル達が鳴き声を変え始めてからしばらく後、新しい鳴き声で鳴くようになる数日前のこと。
それから程なくして、森の中の、ケロケロカエルの池の方から、オオカミの鳴く声がしたということで、話は持ち切りとなった。
「ケロケロカエルん池ん近くは、オオカミがいるのかも知れねえな」
「オオカミがカエル食べんのか? 飢えたオオカミぁ食うんかも知らねが、そんなん、見たことねえべ」
「いやあ、オオカミがカエル食わんとも、池んよぉ、水をよ、飲むかも知れねえべよ」
「とにかくよ、漁師ん連中に様子に行ってもらうべ」
こうして、村人達は、オオカミの鳴き声がするという池の方へ、様子を見に行くことにした。
一方、奇妙な声の主、オオカミ達は奇妙な体験をした。通り掛かった森の奥から、仲間の声がするのを聞いたのだ。不可解なことに、その声の伝えることは、助けを求めているようでもあり、餌の在り処を伝えるようでもあり、あるいは己を誇示するようでもあった。
オオカミの一匹が言った。
「きっと群れからはぐれた仲間です。流れ着いて、この森に住み着いたのです」
別のオオカミが言った。「証拠はあるのですか?」
「いいえ。推測に過ぎません」
更にオオカミが問うた。
「では根拠は?」
「ありません。決定的なものは何も。仲間の声がするのですから、仲間がそこにいるはずです。そうであれば、後は自然な解釈と考えます」
オオカミ達は口々に意見を言い合い、ざわめいた。一匹が進み出て言った。
「仲間の声といいますが、本当に仲間がいるのですか? 罠という可能性は?」
別のオオカミが答えた。
「懸念は理解できます。しかし、罠というのは懐疑的過ぎます。多少の危険はあるかも知れませんが、通りすがりの我々を罠に掛けようするなど、合理的とは思えません」
問いかけたオオカミは小さく唸り、そして更に問うた。
「分かりました。罠というのは言い過ぎでした。しかしその多少の危険に対してはどう対処するのですか?」
「我々はオオカミです。対処できないことがありますか?」
結局、オオカミの一団は、仲間の声のする方へ向かった。
そして森の中、ケロケロカエルの池へ至る道。人間達が行く途中、オオカミ達が行く途中、人間とオオカミは偶然にも森で出逢うこととなった。
「あら、人間達がこんなところで何をやっているのです?」
オオカミ達が問いかけた。人間達は森に来た理由を明かし、オオカミに尋ねた。
「森ん中からオオカミん声がするってえんで、様子ん見に分け入ったのよ。あんた方ぁ、最近森ん中で吠えたり鳴いたりしてねえべな?」
「私達は旅行者ですよ。この森へはつい先ほど入ったのです。仰る通り、私達の仲間の声が聞こえたものですから、安否の確認と、無事であれば挨拶をと思いやってきたのです」
オオカミ達の答えに人間達は少なからず困惑した。
「じゃあ、ケロケロカエルん池で、池んカエルをいじめたり食ったりしてるわけじゃねえんだな」
オオカミは答えた。
「勿論です。私達はカエルなど食べませんよ。」
そして質問を加えた。
「……ところでその『ケロケロカエルの池』というのは、この先にあるのですか?」
「池か? ああ、こん先少し、あいやまあ、ずっとだな。ずっと行けばあるよ」
人間が答えると、一つの提案をした。
「そうですか。では、よろしければしばらくご一緒しても? 向かう先は同じようですので」
「いや、構わねえよ」
こうして、奇妙な一団は、一路ケロケロカエルの池へ向かうこととなった。
「……ォオオーーン! ァウォオオーーン!」
不思議だった。人間にとっても、オオカミにとっても、それは予想し得ない出来事だった。カエルが、かつてケロケロカエルと呼ばれたカエル達が、まるでオオカミのように吠え、鳴き声を発しているのだ。その場の誰もが予期した危険は訪れず、立ち込めた安堵の雰囲気に乗じて、不可思議と困惑が拡がっていた。
「これは、何です?」
一匹のオオカミがぽつりと言った。
「さぁ、分かんね」
一人の人間が応じた。
「アオ! ォオオーーン! ァウォオオーーン!」
カエルの鳴き声が森中に響き渡る。
「お前たち、何でそんな変な鳴き声してんだ?」
人間が尋ねた。
「ァオオン! 飽きたんだ、鳴くのが。だから変えたんだ。鳴くのを」
「それで何故、私達の鳴き声を真似しているのですか?」
オオカミが聞いた。
「……え? これ、お前らのなの? で、誰なの」
カエルの問いにオオカミが答える。
「オオカミです」
静寂が森を訪れた。
「オオカミ? あー、聞いたことある」「知らない」「実物初めて見た」「今思い出したわ」「知ってる?」
カエル達が囁き合い、そして言った。
「それで、人間とオオカミでどうしたの?」
「俺達ぁよ、森ん中で池ん方からオオカミの声がするってんで、様子を見に来たのよ。そっで、お前らがそのオオカミの声の元だったってことでよ」
「私達は通り掛かったこの森から、仲間の声がすると思い、様子を伺いにこの池にやってきたのです」
人間とオオカミが言った。
「それで俺らに何か用?」
カエルが尋ねた。
「特に用はねえんだが、オオカミの真似は止めてくれねえか。村ん人が怖がっから。」
「今回のように、また私達が混乱しないように、仲間の声の真似をするのは止めていただけませんか?」
「それは困る! 嫌だよ。せっかく新しい鳴き声を覚えたのに、また前の鳴き声に戻すなんて」
カエル達は猛然と反対した。オオカミはしばし沈黙し、そして言った。
「以前の鳴き方に飽きた、と先ほど仰りましたが、それはずっと同じ鳴き方を続けていたからではありませんでしたか? そうであれば、今の鳴き方もいずれか飽きるはずです。大事なことは、鳴き方を絶えず変えること、色々な鳴き方を試すことです。そうすれば、いずれ飽きることを恐れずに、常に新しい響きが得られるはずです」
次はカエル達の沈黙する番だった。オオカミと人間とはカエル達の回答を待ち、沈黙を見守った。
「分かった。止めるよ。止めて、他の鳴き方を色々試してみる」
オオカミ達は安堵した。
「是非そうして下さい」
人間達は笑顔を浮かべ、そしてもと来た道を帰り始めた。「よし、じゃあ帰るべ」
「あ、でも……」
カエルが付け加える。
「時々はオオカミの声で鳴いてもいいよね?」
◆◆◆◆
それから、ケロケロカエルの池には、様々な鳴き声が木霊するようになった。そしていつしか、ケロケロカエルはただのカエルとなり、ケロケロカエルの池はケロケロカエルの池ではなくなった。しかし今でも、カエルはそこにいて、池はかつてと変わらず澄んだ水を湛えている。
これがケロケロカエルの物語だった。
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