第58話:結果はいかに
都から、祠へと戻る空。狗狼は往きよりもゆっくりと駆けた。
「雲は大丈夫かな。消えないでくれるかな」
「案ずるな、主上の答えはあった。それはつまり、聞き入れたということだ」
「でも、去れって言われたんだよ」
鳥の翼も届かぬ、あの静かな山頂。自分一人が騒いで、やかましく思われたのかも。
菫にはそうとしか思えず、申しわけない気持ちで押し潰されそうだった。
「雲、ごめんね。ごめん。ごめんなさい。わたし、雲の役に立てなかった」
悔やむ想いが、謝罪の言葉として漏れ落ちる。狗狼の背から落ちぬよう寝そべっているのでさえ、今の自分に非ざる態度と感じてしまう。
「菫。我の声など信用ならんかもしれんが、案ずるな。主上は、我が妻の願いを聞き届けた。冬雲は今後、記憶を失うことは無い」
「本当に?」
「信じよ」
今日だけで、何度「案ずるな」と言われたことか。温かな心遣いは、心から嬉しい。狗狼の言葉を疑ってもいない。
しかし裏付けの無いのも事実だ。
「狗狼のこと、いつも信じてるよ。疑ったりしない」
「フッ。可愛らしい口から出る嘘は、やはり可愛らしいものだな」
「う、嘘じゃないよ。疑ったことなんか、本当に無いんだから」
気休めのつもりだろうか。笑わせる試みのようだが、上手くない。けれども彼の不器用さこそ、可愛らしいと思う。
信じているから、裏切られたとき余計に傷付くんだ。と続けるのは、やめておいた。
「――うん。でも、そうだね。わたしは狗狼の妻だもの。あなたの言うことを、もっと信じるよ」
「それ見たことか。ふははっ」
ひと際わざとらしく、狗狼の笑声が作られた。乗せる気があるのかも疑わしく、菫は笑ってしまう。
「ありがとう、狗狼。わたし、あなたのことが大好きだよ」
「……我もだ」
既に眼下となった祠へ下りる狗狼。菫は浮き上がりそうな身体を、水墨色の背へ擦り寄せた。
そうしていざ、雲との再会を前に足が竦む。祠の入り口である格子戸に、菫はなかなか触れられなかった。
早朝に出かけ、戻った今は夕暮れにも届かない。たったそれだけの間に、十年もご無沙汰をしたような気まずさが募る。
やはり信じていないのか、などと狗狼は言わない。立ち尽くす菫に後ろから覆い被さって、寒風を防いでくれる。今日一日でかなりの雪が融け、枯れた草が目につくようになっているけれど。
覚悟が決まるまで、黙って待つつもりらしい。だがその沈黙は、すぐに終わることとなった。
「あら、狗狼さま。やはりお帰りでございましたね」
「あっ、雲――?」
格子戸が、内側から開けられた。出てきたのは、朱色の襲を着た女。
髪は長く、膝の辺りまでも艶めいた。勝ち気な風采が雲とそっくりだが、頬や手の色が消炭色でない。
女は若草色の頬を綻ばせ、しっとりと腰を折った。
「いえ、菫さま。私は
「えっ、あっ、ええと。う、うん。よろしくお願いします」
雲に姉妹が在るのは聞いた。しかしなぜ、今この祠へ居るのか。
意味するところは、直ちに頭へ浮かんだ。だが自分の言葉に並べ替えるのを拒否し、祠の中へ駆け込む。
「雲! ねえ! 居るんでしょ、出てきてよ!」
中の様子は、今朝とまるで変わりない。雲の姿だけが、いくら叫んでも見つからなかった。
絶望に目まいがして、菫は土間にしゃがみ込む。
「菫さま。お気持ち、お察し致します。けれどこれが、私たち姉妹の定め。また次の冬、あの子を可愛がってやってくださいな」
「風。今日とは聞いておらなんだが」
「ええ、私もです。歳神のお決めになることは、いつも突然ですので」
隣へ春風が、同じ格好でしゃがむ。
狗狼も意外そうな声を隠せていない。だが、ままあることのようだ。「まあ、な」とため息交じりに不承を告げる。
「次の冬って、遠いよ……だってまだ、五日は居るって言ってたよ。わたし、主上にお願いして来たのに。なのに雲が居なくなるなんて」
「申しわけありません、菫さま」
風のせいではないのに、深々と頭を下げる。声にも態度にも、嫌々という空気は見えない。
「ううん、ごめんなさい。風が悪いんじゃない。分かってる。でも寂しくて」
「ええ、ええ。私にはそのお気持ち、どうにもして差し上げられません。ですがこうして、胸をお貸しすることは出来ます」
いつの間に抱きかかえたのか。ふわりと柔らかい腕が、しゃがんだ菫を胸に引き寄せる。
風は微かに新芽の匂いがした。柔らかく背を叩かれ、堪えていた感情が滲み出る。
「ごめんなさい。春風の来たのが、嫌なんじゃないの。わたし、もっと雲と居たかった」
「分かりますとも。あの子と話すのは、私も楽しいと思います」
春の化身だからだろうか。菫の胸に重かった気持ちが、少し解けた。
ずっと奥の方へ、硬い芯のような塊は消えない。きっと尖った氷のようなそれは、何度も何度も胸を突き上げる。
「そういえば、どうしてわたしの名前を知ってるの」
「歳神に聞かされました。狗狼さまの奥方になられたのだから、私たちがお世話するお相手だと」
どうにか嗚咽を押さえつけ、問う。その答えは、一条の光明を含んだものだった。
「歳神から聞いたってことは。ねえ、狗狼」
泣いてはいない。だが腫れぼったくなった顔を伏せ気味に、狗狼の意見を求めた。するとやはり、希望を感じさす声が返った。
「うむ、主上が伝えたのだろうな。お前たち姉妹の在り方については聞かなんだか」
「いえ、そういったことはなにも。在り方とは、なんのことでしょう?」
雲を含めた四姉妹の記憶を、消さぬように。主上へ願った内容を、風は知らなかった。
試しに昨年のことを尋ねてみたが、特段に残された記憶以外は覚えていないと言う。
「やっぱり駄目なのかな……」
「いや、案ずるな。菫が頼んだのは、今後のことだ。風に以前の記憶が残っておらんのは、その限りでない」
気落ちした菫に、狗狼の声は力強い。ただ当人の風に分からぬ以上、また雲が戻るのを待つしか結果の知りようがなかった。
――絶対にこれは嘘じゃない。ううん、狗狼は嘘なんか言わない。
菫は夫の言葉を信じようと、案ずる気持ちを胸の奥底へ封じ込めた。
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