第59話:伝えたい言葉

◇ ◇ ◇


「じゃあまた。来年ね」

「狗狼さま、菫さん。お世話になりました」


 深く頭を下げた秋の化身が、御覚山の木々を背景に消えていく。これで三度目。突き刺すような悲しみが、胸を襲う。

 春も、夏も。三人とも違った人柄を持ち、誰もがそれぞれに温かかった。「じゃあまた」などと気安い心持ちではない。


 お願いだから行かないで。毎度、引き留めたくて堪らなかった。春風が去る際には、事実として口にした。

 しかし彼女は断った。自分たちの身はともかく、この土地がどうなるか分からない。季節が順に巡るからこそ、豊かな実りが得られる。獣たちの住処も、そこかしこに作れるのだ、と。


 山の平穏が脅かされるなら、菫の我がままの通る余地はない。以来、努めて明るく見送るようにした。


「さて、いよいよだ。今日か明日には、冬雲が来る」

「うん。雲は帰ってくるんだよ、絶対にそうなんだよ」


 祠の前。見下ろす景色は、今年も悠然と赤く燃え盛った。足元の短い下草は、そよそよと先を風に靡かせる。この数日を振り返れば、やはりぐっと冷えた風だ。


「ああ、そうだな。その通りだ」


 狗狼の腕が襟巻きのごとく、肩と首へ絡みつく。

 相変わらず言葉は少ないが、こうやって態度に示してくれる。彼の温度を頬に擦り付けながら、菫は祠の中へ戻った。


 一年を通じ、夫婦二人きりの時間はそれほど多くない。が、貴重とも思えない。これから先は分からないが、今はまだ雲たちとの別れが不安なばかりだ。


「今宵は我が夕餉を拵えよう。雲の好物だ」

「そうなの? そういえば、聞いたことなかった」


 狗狼は自分の部屋へ戻らず、厨へ菫を連れた。雲が去って後、そういう機会が格段に増えたように感じる。今では三日に二度ほども。

 とはいえ料理までも彼が、と言うのは初めてだ。いつもは菫が料理をするのを、囲炉裏の薪を弄びながら眺めている。


「なにを作るの」

「出来上がってのお楽しみだ」


 嘯いて、狗狼は鉄鍋を持ち出した。祠にある中で最も大きく、菫では持ち上げるのも難しい物を。

 その中へ並々と水を張り、火にかける。温まらぬうちから、大根や芋が放り込まれた。


「お魚の汁?」

「どうかな」


 まな板には、人さし指くらいの小魚が載った。十数匹のはらわたが丁寧に抜かれ、やはり鍋に入れられる。

 ここまでならば醤や未醤を入れて、汁物としか見えない。だがだとすると、また取り出された朱の鮮やかな肉に、行き先が失われる。


「随分と薄くするのね」

「この薄さが肝なのだ」


 染料を塗ったかのような、極濃い朱色。離れた囲炉裏の熱でも溶けかかる、繊細な脂。

 薄く削いだ肉が、盆に並べられていく。丸く大きく開いた様子は、大輪の花を連想させた。


「牡丹みたい」

「そう、牡丹鍋だ」

「へえ。初めて聞いた」

「粗野な料理だからな」


 話す間に、菫の頭ほどの肉塊が姿を消した。これで用意が整ったと狗狼。


「ねえ、狗狼。せっかく作ってくれたのに悪いけど、雲が来るまで待ってもいい?」

「今宵、帰るとは限らんが」

「うん。だから狗狼のお腹が、我慢出来なくなるまででいいよ」


 雲を待ちたいのは、菫の勝手だ。だから狗狼が食事をしたくなったら、遠慮をしなくていい。そういう意味で言ったつもりだった。

 しかし自分でもすぐに、酷な言いつけになってしまったと気付く。


「あっ、違う。ごめん、やっぱりすぐに食べよう」

「いや構わん、少し待つとしよう。我か菫か、腹の虫を鳴かせたほうが負けだ」

「もう。そんなの鳴かないよ」


 期限を決めてならいいだろうと、狗狼の同意に菫も頷いた。ただし狗狼の出した条件が、もう一つ。あぐらをかいた脚を叩き、ここへ来いと示す。


 気付かぬふりをしても、狗狼は手招きまでも加える。横目に盗み見て、「ふう」と観念した。

 袿を脱ぎ、狗狼の背に掛ける。そうしてまた、あるはずのない人目をきょろきょろと探す。それでようやく、彼の懐へ身体を預けた。


「今さらなにを恥じる?」

「恥ずかしいわけじゃないの。照れてるの」

「同じだろう」

「違います」


 春風のやって来たその日から、菫の寝所は狗狼の部屋となった。誰がそうしろと言ったでもなく、夫婦なのだから当然と風は考えたらしい。

 それからずっと、狗狼に包まれるように毎朝を迎えている。


「そうだ。わたし、文を書こう」

「誰にだ?」

「ああ、もう。どうして今まで思い付かなかったんだろう。雲にだよ」


 考えたくはないが。もしも雲の記憶が消えていても、文字に書いたことまで消えはしない。

 今日。或いは明日、雲が戻ってきてどうだったのか。それから先も、一日の終わりに彼女へ文を渡す。それを読み返せば、ただ話して聞かすよりも、ずっとたくさんのことを知れるはずだ。


「なるほど。繰り返せば主上に頼らずとも、記憶を留められるようになるやもしれんな」

「うん、そうだね。そうなったらいい」


 暖かい揺り籠を出て、文机に向かう。筆巻きと料紙を取り、一つぶるっと震えて戻る。


「うう、寒くなってきた」

「なんと書く?」

「今から考えるの」


 まな板へ料紙を置き、それを狗狼が支えてくれる。菫は筆の先を舐め、瞼を閉じる。

 祠へ来てから、それなりに長い時間が経った。生きてきた年月と、これから先を思えば大したことはないけれど。最も色濃く、大切な時間と言える。


 全てを書く前に、雲が戻ってくるだろう。だからそれは、追々でいい。主上に願いをしたときのことを書くか。それとも雲に想う気持ちを書くべきか。はたまた……。


 文を書き終え、囲炉裏の火を眺めるうち。菫は眠っていた。起きていようと頑張ったが、限界とも感じずに。

 目を覚ましたのは、なにやら妙な音でだ。きゅう、と。鼠の鳴くような、それにしては派手に大きな音で。


「ねえ狗狼、起きて。お腹が空いたんでしょ、我慢しないで食べよう?」


 音の在り処は、目を閉じた狗狼の腹だ。小さくなった、囲炉裏の火。暗がりの中を賑やかに、呼吸をするような往きと戻りがやかましい。


「ううむ」


 狼の寝覚めが、これほど悪くて大丈夫なのか。狗狼は揺すっても起きない。

 では本格的に起こす為、懐から立とうと。抱えていた文へ目を向けた。


「あれ、無い――無い、無い、無い!」


 たしかに腹の上へ置いたはず。狗狼の腹との間か、床へ落ちたか。どれだけ視線を巡らせても、文が無い。


「囲炉裏へ落ちちゃったのかな……」


 床を這い、火掻きで薪を動かしてみる。が、それらしき影は見当たらなかった。

 薄い料紙を丸め、麻紐で結んだだけの文。燃えてしまえば、形も残るまい。


 書き直すのはすぐだが、誠心誠意の気持ちを篭めたのに。燃えてしまったことが、雲の運命を決めてしまったようで悔しい。なまじ大切に持っていようとしたのが、仇になった。


「雲、ごめん――」

「なにがだい?」


 這いつくばる頭上から、威勢のいい声が落ちてきた。顔を上げると、囲炉裏の向こうに真白い襲の裾が見える。


「雲!」

「ああ、アタシが雲だよ」


 にやり。懐かしい、男前の笑み。堪らず、首元へ飛びついた。


「おっと、危ない」

「ねえ、わたし。わたしが分かる?」

「ああ、菫だろう? 狗狼の妻をやってるって、春風や歳神から聞いてるよ」


 ――春風から聞いた?

 その言葉の意味するところに、愕然とする。毒気の無い雲の微笑みが、やけに荒涼として見えた。

 もう、共に過ごした記憶はないのだ。寒い心を温めてくれた、姉のような雲はもう居ない。

 そろそろと、張り付いていた雲から離れる。


「なにを泣きべそかいてんのさ。これを探してたんだろ?」

「えっ」


 泣いてはいない。鼻の奥がツンと感覚を失くし、視界が曇ってよく見えなくなっただけだ。

 それでも雲の示した物は分かる。丸めた癖のついた料紙。菫の書いた文だと。


「よ、読んだの?」

「誰当てかも分からなかったからねえ。でもこれ、アタシにかい?」

「うん、でも」


 雲の記憶が失くなっているなら、意味を成さない。彼女には見当外れな内容になってしまった。


「わたしのこと覚えてなかったら、そんなこと書かれても困るよね」

「うん?」


 雲は怪訝に、顔を顰める。手にした文へ視線を落とし、悩む素振りが悲しい。


「ええと、これ」


 すっと、雲は手を突き出した。それは文を握ったのとは、反対の。

 指に紐が絡んでいる。文を結んだ麻紐が、結び目も解かないまま。


「四つ羽の蝶は菫の印、だろ?」

「…………え?」


 意識をしてはいなかった。けれどもたしかに、そこへあるのは四枚の翅を作った蝶の結び目。


「じゃあ、じゃあ」

「ああ、覚えてるよ。ありがとうね、菫」

「お帰りなさい!」


 もう一度、雲に飛び付いた。今度は押し倒し、頬を擦りつける。


「痛い痛い、ちょっと落ち着きなよ。それにもう、それは聞いたよ」

「だって、言いたいんだもの」


 雲への文に書いたのは、ひと言。お帰りなさい、の言葉だけだ。

 待ち侘びたこと。楽しみにしていたこと。不安で堪らなかったこと。それら全てを含めると、その文字になった。


「やれやれ。主上は聞き入れてくださったか」


 雲を抱きしめ、身体じゅうを擦りつける。楽しげな悲鳴が「勘弁しとくれ」と上がり続けた。

 その最中、狗神のため息が聞こえた。嘘吐きな狗狼の優しい嘘を、今宵は聞かなかったことにした。

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