第57話:主上の答え

「たった何ヶ月か、冬を一つ過ごすだけなんて。悲しすぎるよ」


 硬い岩に膝をつき、懇願の声を繰り返す。

 しかし主上の返事はない。狗狼が言うのだから、そこへは居るはず。ならば聞こえていないのか、それとも無視されているのか。


「雲はとても大切な人なの。わたしは勝手に、姉さんみたいだと思ってる。もっと仲良く、友だちになれたらいいと思ってる。でも忘れられたら、わたしのことを知らないって言われたら」


 訴えれば訴えるほど、予想される未来が明確になっていく。友人になど、なれるはずがない。生まれ変わった雲に、菫は初対面の誰かなのだから。


 ――あれが全部、無かったことになるの?

 琴の弦の弾き方、たくさんの調味料の名前。彼女にはなにもかもを、一から教わった。

 新たに出会った雲にも、以前はこうだったと言えば通じるだろう。その続きを教わることだって、不都合なく出来るだろう。


 ――でも、そんな残酷なこと他にある?


「主上、お願いだから。お願いします……」


 同じ言葉を。お願いと言うのを、これで何度目だろう。回数の問題でないと分かっていても、積み上がった高さがそのまま不安の大きさとなる。


 両手を山頂に置き、頭を下げ。ただただ一心に願う。

 どれだけ続けたものか、一刻や二刻は優に過ぎた。だが相変わらず、主上からの音沙汰は無い。


 ――ごめん、雲。わたし、こんな情けなくて。ごめんなさい。

 己のちっぽけさに、悔しさが鼻を突く。しかし堪える。熱い塊を呑み込み、傍らで見守ってくれる狗狼を見上げた。


「狗狼。わたし、これでいいのかな」

「我が対しても、主上がはっきりと意思を示すのは少ない。案ずるな、我はここに居る」


 彼は、代わってやろうと言わない。肩へそっと手を置くだけだ。

 けれども良かった。もしもそう言われたら、甘えてしまうところだ。なにか決定的に間違っていないか、それだけを知りたかった。

 だのに、妻に甘い男は言葉を続ける。


「答えるだけの意味がある。主上がそう感じねば、お声は無い」

「分かった。ありがとうね、狗狼」


 答える意味。そんなことを言われても、なにがそうなのかさっぱりだ。

 菫にとっての意味なら、語り尽くせぬほどにある。しかし主上には、知ったことでなかろう。

 ではどうすれば。考えれば考えるほど、なにも思いつかない。


 ――もう分からない。分からないから、全部聞いてもらおう。

 仮にここで何年を費やしたとしても、必ず答えてもらう。菫は心に決め、思いつくままに口を動かした。


「主上、改めてご挨拶します。わたしは菫。御覚山の麓、東谷で産まれました」


 猟師の父と、畑を耕す母と。狗狼の送った、狼を友に育った。猟を習い、夜風と遊び。裕福でなくとも、山での暮らしが楽しかった。

 これといって特別なことのない人生を、菫は思い出せる限り話して聞かせる。


「でもわたし、狗狼への生け贄にされてしまったの。痛くて、寒くて、怖かった。なんでわたしがこんな目にって、あのときは村の人たちを恨んだと思う」


 袖を捲り、痣の跡を見せようとした。しかしいつの間にか、自分でもどこだったか分からぬほど、綺麗に色が失われている。


「痣は無くなったけど、わたしは覚えてる。みんなの冷たい目を。本当は母さんを生け贄にしたかったんだろうけど、わたしが殺してしまった。だから代わりは他に居ないって」


 御覚山の周囲では、狗狼を山神と崇めている。だから狼は神聖な生き物で、絶対に傷つけてはいけない。

 あの夜。菫でなく進ノ助を生け贄に、と言われたら。協力しないと言う自信は無かった。


「でも、狗狼が助けてくれたの。祠へ置いてくれて、雲はわたしに綺麗な衣を着せてくれた。実は狗狼が仕向けたことって、後で知ったときは驚いたけど」

「いや、あれはだな……」


 ここまで詳細に話すと思っていなかったのか、咄嗟に狗狼の弁解が挟まる。

 が、菫はもう気付いている。山神の立場で、菫をただ連れるわけにいかなかったのだ。

 母が狼を殺し、どうであれ村に居づらくなる。だから最短の方法で、手元へ寄越そうとした。


「縛られたときのことが怖くて、堪らなくて。雲は東谷の記憶を消してもらえって言った。狗狼は、わたしが決めろって言った」


 雲に勧められて、恐怖が消えるならそれは良いと思った。もう会いたくもない東谷の面々も、忘れたいと思った。

 狗狼が賛成していたなら、迷うことは無かっただろう。


「今はね、消してもらわなくて良かったって思ってる。東谷の師匠たちにも、また会いたいなって思える。向こうが困るだろうから、顔を見せには行かないけど」


 降り注ぐ光が、僅かに揺れた。蝋燭の揺らめく程度。気のせいかもしれないが、主上の目がこちらへ向いたと菫は信じる。


「だって、わたしは独りじゃ生きられない。父さんと母さんが生んでくれて、村のみんなから生きるのに必要なことを教わったの」


 もしも。村の纏め役に会う機会があったら、なんと言うだろう。あれから進ノ助がどうしているか、聞いたほうがいいのか悩む。


「みんなで取り囲むのは怖かったって、きっと言わずに居られないね。でも、ありがとうって言う。たくさんのことを教えてくれて、ありがとうって。最後が嫌な思い出になっても、それは無くならないよって」


 おかげで祠へ行けたとは言うまい。それは菫だけの、大切な秘密だから。


「だから、記憶を消さないで良かった。想い出を失くしたわたしなんて、もうわたしじゃない」


 そこまで言ってみて、我ながらようやく気付く。自分はこれが言いたかったのかと。雲の記憶も、同じことだ。


「主上、お願い!」


 今度はきちんと、要点を伝えられる。主上が答えてくれるまで、何度でも。

 菫は再び、仕切り直しの声を上げた。しかし狗狼の手が肩を揺する。「待て」と言いつつ。


「上を見ろ。主上がお答えになる」


 彼に向けた目を、慌てて頭上に向け直した。眩しく輝くお天道さまは、なお光を増してそこにある。


「九つ……」


 狗狼の狩衣に染め抜かれた、九曜紋。その形と同じに、陽が分かれていた。中央の大きな光の周りを、小さな八つの光がくるくると回る。


 待つこと、数拍。やがて声が聞こえた。

 いや、聞こえたのとは違う。耳に音が届いたわけでなく、胸の奥へ直接に言葉が置かれた気分だ。


「去れ」


 ただ、そのひと言を。

 去れとはどういう意味か。菫の願いを聞かぬということか。問い質そうにも、景色が光に包まれて何も見えなくなった。

 次に気付いたとき、菫はあの扉の前で倒れていた。狗狼のあぐらに頭を乗せ、髪を撫でられていた。

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