第56話:主上の在所
「では早速」
椿彦は誰を呼ぶでもなく立ち上がり、襖を開いた。菫と狗狼の通された縁ではなく、自身のやって来たほうを。「うむ」と狗狼も、当然のように続く。
主上に会わせてほしいと狗狼に頼んだのは菫だ。だから行かぬ選択は無いのだが、衣の重さもあって急には動けない。
こんなとき祠では、さりげなく雲の手が触れた。それが無いのも初めてでなかろうに、なにやら途轍もない落とし物をした心持ちになる。
「気付かぬことで、すまんな」
すっと、目の前に大きな手が突き出された。見慣れた毛むくじゃらでなく、甲に多少の剛毛が目立つ人間の手。
掴むと勢いよく、ぐいと引かれる。これは強すぎて立つに留まらず、前へのめってしまう。
広く、厚く、硬い胸へ頬が沈む。慌てて離れると、鋭い目をした男が顔を覗き込ませた。
「どうした? 案ずることはなにも無い。我はいつも、菫を見ているのだからな」
「う、うん」
狗狼には違いない。しかし人間の顔をした彼には、やはり馴染みの薄い気がする。胸の高鳴りも、きっと主上に会う緊張感によるものだ。
「行こう。東宮を待たせては悪い」
狗狼は歩幅を狭く、先に歩いた。繋いだ手をそのままに。
手に汗を掻いている気がして、恥ずかしさに俯いてしまう。けれども菫から、離すことはしない。
連なる部屋をいくつか抜けると、どちらへ向けて歩いているのか分からなくなった。対面の部屋まではあれだけ居た人影にも、全く出会わない。
やがてまた、屋外に面する縁に出た。ただし左右へは伸びず、対面の建物へ橋として続く。縁の両脇は、背の高い樹で視界を塞がれた。檜に似た葉が、みっしりと空間を埋め尽くす。
「ここだ」
縁が折れ、建物の正面へ回ると、狗狼は言った。内側に板を張られた格子戸の、入り口が目の前にある。背中には、外の地面へ降りる階段も。
なんとなく、祠の佇まいと似ている。だが建物の周囲は、先の縁と同じように植え木で塞がれた。
――こんなところへ押し込まれるなんて、息苦しそう。
最も格の高い神さまだから、最も位の高い帝が直々に奉る。それは分かるが、同情めいた気持ちを否定出来ない。
「私はここで控えております」
「うむ、悪いな」
遠慮なく格子戸を開ける狗狼に、脇へ避けた椿彦は頭を下げた。東宮にも珍しい場所なのかもしれない。椿彦は狗狼の肩越しに、建物の中へ視線を這わせた。
手を引かれる菫には、なんだか申しわけないと思える。
「ここ?」
後ろで戸が閉められた。それでも広々とした屋内に、狭いという感覚はない。と言うより、広すぎる。
おそらく建物のほぼ全てが、この一室に費やされているのだろう。床の面積で言えば、狗狼の祠がすっぽりと入る。
だのに四方の壁と、太い梁に支えられた剥き出しの屋根と。入ってきた格子戸。他には扉が一つあるだけだ。
「主上の御座すのは、そこだ」
狗狼の指は、その扉に向いた。言われるまでもなく、それらしき場所は他に無い。けれど、本当に? と疑ってしまう。
なにしろ扉は、部屋の中央にあった。その為だけの木枠へ収まり、倒れぬように支えまで施された。おまけに二枚開きの一枚は、既に開いている。その向こうへは、当たり前にこの部屋の床が見えた。
狗狼は嘘吐きだが、こんな毒にも薬にもならぬことを言うまい。
おかしな信頼感を元に、近づいてみる。そっと手を離されたが、すぐに後ろから肩を抱かれた。
「これ、長持に似てる――?」
我ながら奇異なことを言う。あれは箱で、これは扉。ひどく古びた木製で、四角い。という以外、見た目に共通する事実は無い。
――でも、似てる。
ざっくりと言えば、雰囲気だ。その正体がなにか、いくら目を凝らしても分からない。
「ここを通って、主上さまのところへ行くの?」
「さま、は要らん。主上は主上で良い。言う通り、これは長持と同じような物だ」
やはり。理屈はさておき、あの世とこの世を繋ぐ代物に違いないらしい。
そうと分かれば、目的は一つ。主上と会う為に来たのだから、扉をくぐるしかやることは無い。
勝手を知った狗狼が先に行ってくれれば良いのに。と、考えなかったと言えば嘘になる。
だが彼は菫を支えるだけで、先に進もうとはしない。
その代わりと言うのか、不安で目を向ける度に頷いてくれた。力強く、何度も、何度でも。
「よし、わたし行くよ!」
「うむ、行こう。案ずることなど、なにも無い」
大きく息を吸い込み、止める。そのまま足を踏み出し、扉を越えた。
どこの建物のどんな戸をくぐるのとも変わらない。やってみれば、いとも簡単なことだった。
「ぷはっ」
「大丈夫か?」
膨らませた頬が、一気に萎む。まだ息は続いたが予想外の光景に驚き、思わず吐き出した。
扉の向こうには、何も無かった。長持と同じく、あちらとこちらで同じ景色があると思っていたのに。
見渡す限り、空だ。雲の無い、完全な晴れの空。
足元は、平たい岩の地面。概ね丸く、祠の一室ほどの広さがある。どうもここは、高い山の頂上のようだ。
見下ろせば草木の生えぬなだらかな斜面が、遙か下方へ続く。一面に雪を降らせたような、真白い岩の。
しかし麓はぼやけてしまって、様子が見えなかった。周囲に山も無い。ただし遠くへ地平は見える。きっとこの山が高すぎて、他の何者も形が伝わらないのだ。
「ここが主上の居るところ?」
「うむ。常にそこへな」
問うと、狗狼の目は真上へ向けられた。そちらにもやはり、空しか見えない。
いや、もう一つ。そこには、お天道さまが輝く。これまで見た中でも、とびきり眩しい光を放って。
「お、主上! お願いがあるの! 雲の記憶を、わたしの大好きな冬雲を消さないで!」
主上に会えたなら、なにをどのように頼むか。ずっと考えながら、纏まらなかった。
結局、思うままをぶちまけただけだ。雲の在り方を決めているのは歳神だとか、そんなことはもう頭から飛んでしまった。
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