第55話:いざ都へ
翌朝。外出の支度を、雲に頼んだ。これまでと同じに衾を並べて起き、菫の襲も機嫌良く着付けてくれる。四本脚の狗狼の背へ菫を押し上げ、にこやかに手を振って見送った。
あまりにも、そつが無い。菫の面倒を見ることに関しては、いつもだ。その、いつも通りを貫くさまが完璧すぎる。
「ごめんね狗狼、無理を言って」
「愛しい妻の頼みだ、なにも無理などない」
想いを隠す必要の無くなった狗狼は、歯の浮くようなことを平気で口にした。しかもどうやら、心からの言葉らしい。
悩んでいなければ幸福に悶えていたかもと、妙な安堵はこっそり呑み込んだ。
「しかし会わせろとは、どうするつもりだ?」
「分からないよ。でもなにもしないまま、雲に忘れられるなんて嫌だったの」
「当ては無し、か。それも良いだろう」
フッと静かに笑う狗狼も、普段と変わりなく見える。
それはたしかに、これまで何十年何百年と繰り返したことを、今さらおかしいと言う菫がおかしいのかもしれない。
「雲に忘れられて、狗狼は寂しくないの?」
「我の従者として必要なことは覚えているのでな、不都合はない。そういうことでは無いのだろうが」
「うん」
すると生まれ変わった雲も、狗狼の名前などは覚えているらしい。
最低限の中に、菫の名前も刻めぬものか。そう考えたものの、やはり駄目だ。共に過ごしたあれこれを、一方だけが積み増していくなど、悲しすぎる。
「雲とその姉妹は、最初からそういう決まりごとで存在した。我もそうかと受け入れた。ゆえに寂しいと感じたことはない」
「そっか……」
「だが。おかしくはないかと、昨夜から思考を試みている。もう少し待ってくれ」
神さまと人間とでは、価値観が違う。菫の感情を押し付けるのが、狗狼の苦痛になりはしないか。
懸念しつつも、狗狼の背に頬を擦り寄せた。
一刻もかからずに辿り着いたのは、御覚山から遠い都だ。南北を貫くという通りを、人形の輿に乗って進む。
「広い通りね。わたしの小屋なんか、十も並べられそう」
「飛鳥
問えば答えてくれる。揺れも、そよ風に吹かれた程度。しかし隣に狗狼の居ないのが、不安で仕方がない。
自身の肩を抱きしめるように、震えて堪える。その甲斐あって、やがて人形の男は御所への到着を告げた。
「顔色の悪いように思うが、大丈夫か?」
「平気」
通されたのは、東宮が住むという建物。祠も十分以上に広いと思っていたが、御所はその何倍も。いや、桁が違う。
案内をしてくれる女官。途中のそこかしこに見かける女房。見かける人数よりも、圧倒的に部屋数のほうが多い。
庭に面した縁でさえ、その幅に菫の背丈が二つ並ぶ。それでいて塵や埃が、一つも見当たらない。
とんでもない所へ嫁入りするところだった、と胸を撫で下ろした。
「かように今日参られて、今日会おうなどと。賀茂宮さま以外には居られませぬ」
「ありがたいことだ」
「私は皮肉を申しておるのでございます」
面会の部屋へ落ち着き、案内の女官は部屋を退く前にそんなことを言った。「最も古い女官だ」と、狗狼の耳打ちがくすぐったい。菫などは即座に謝りたくなったが、結局彼は涼しい顔で女官を見送った。
それから東宮がやって来るには、少し待つこととなった。緊張で喉が渇き、お代わりした茶も飲み干すまで。
「賀茂宮どの。お待たせして申しわけない」
奥の襖が開き、椿彦が姿を見せた。歌会で見たのと同じ狩衣で。
「都合も問わずに来ておるのだ、構わぬ」
「座っていただくのも、上下が逆だ。こちらへ移っていただけようか」
「いつも言っていることだが、我は頓着せん。構うな」
東宮が座る位置へは、先に敷物が用意されていた。菫と狗狼の並んで座る、およそ二間先だ。
椿彦はそこを指し、場所を代われと言った。部屋の作り、設えによって、座る位置にも上下があるとは雲から聞いている。
「左様か、重ねて申しわけない。菫どのも、いや藤姫もようこそ参られた」
「突然に押しかけまして」
狗狼と椿彦はともかく、菫は明らかに身分が下だ。そう思い、深く頭を下げる。
「して、用向きはなんだろうか。返事の文よりも前に、また顔を見るとは思わなかったが」
常から狗狼がそうなのだろう。世間話なども無く、椿彦は座ってすぐに用件を尋ねた。心積もりをしていたつもりなのに、きゅっと胸が縮こまる。
「あの、まずは頂戴した文の件を」
「なるほど……女性から直にお返事いただけるとは、なかなか無いことだ」
清々しく、晴れ晴れと笑う椿彦の顔が曇った。ほんの一瞬、きっと故意に見せた様子で。
「拙いながら、文を認めました。お受け取りいただけますか」
「もちろんだ。あなたからの言葉を塞ぐ門を、私は目にも耳にも持たない」
受け取る手を差し出してくれた椿彦だが、もちろん菫の手は届かない。投げ渡すわけにもいかず、どうしたものか悩んだ。
すると狗狼が文を取り、膝立ちに前へ出た。それを互いの真ん中へ置くと、元の位置へ戻る。
「ふむ。
同じようにして文を取った椿彦は、文に添えた花を褒めてくれた。まだ固く蕾んだ、小さな蒲公英を。
文を結んだ天蚕糸を珍しそうに眺め、千切れぬように丁寧に外して床へ置く。
見透かされた通り椿彦への返事は、ついででしかない。それが申しわけなく、肩を窄める。
己の歌を他人に見せるのも、初めてのことだ。視線の動きで、椿彦が繰り返して読んでいるのが分かった。
「
「はい」
世の中に数ある、色とりどりの木々や花々よりも。丁寧に手入れをされた庭にひっそりと咲く、冬の菫のほうが好きだ。
という表の意味に対して、この歌には裏の意味がある。
「天地を統べる帝になる男より、御覚山の為に労を惜しまぬ方のほうが良い、と?」
ずばりそのままを口に出すとは、存外に椿彦も人が悪い。
東宮に会うなら求婚の返事をしなければと、昨夜急いで作った歌だ。直接的過ぎると、狗狼にも言われた。
「あっはっはっは! お相手の決まった方に、こんなことを言っては失礼なのだが。私が惚れたのは、菫どののこういうところだ」
「フッ。さもあらん」
男二人が、声を上げて笑う。戸惑う菫は、「ええ?」と両者を見比べるばかりだ。
「ああ、勇み足を言ってしまったか。しかしこの言い分だと、山神どのの歌を理解したのだろう?」
「ええと……」
御覚の、隅よりすみを打ち眺む。世世に徒なり、ひとり養へ。
狗狼の詠んだ歌に裏の意味があると聞いて、必死で考えた。きっかけは「隅よりすみ」と二度目の隅が、かなになっていたこと。そこに意図があると考えれば、あとは自ずと意味が着いてきた。
御覚山の隅から菫を眺め続けた。守るべきこの世よりも、彼女一人を傍へ置きたい。
おおよそ、そういう意味になるはずだ。だから椿彦は、表と裏を使い分ける者が居るなどと言ったのだ。
「ああ、ああ。その真っ赤になった顔で分かる。私は潔く、身を引くとしよう」
「すまぬな」
「なんの。しかし度々遊びに来ていただければ、歓迎致します」
最後の誘いは狗狼にと言うより、菫も一緒に来てくれるかという問いかけらしい。恥ずかしさに伏せた顔を懸命に起こし、蚊の鳴くような声で「はい」と答えた。
「さて。前置きはこのくらいで、本題はなんだろうか」
どこまでも見透かされている。椿彦は微笑みのまま、声だけを引き締めて問うた。
「時期違いに悪いが、神殿に入らせてもらいたい」
「なるほど。賀茂宮どのならば、否は無い。帝には、私から申し伝えておきましょう」
都の中央にある、御所。その中央に、神殿があると狗狼から聞いている。そこへ祀られるのは、狗狼も逆らえぬ主上だと。
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