第54話:季節を司る宿命

「どういうこと。雲がどこかへ行くように聞こえたんだけど」

「その通り、間違っちゃいない。アタシは冬の化身だ、春が来たらこの場を明け渡すんだよ」


 雲は、冬雲。素性を思えば、なるほどと納得してしまう。しかし彼女との別れを受け入れられるか、とは話が別だ。

 抱きしめる狗狼の腕を解き、菫は雲に抱きつく。


「そんな、寂しいよ。わたし、ずっとここに居ていいんだよ。今までと同じに、雲とお話出来るんだよ」

「ああ、そうらしい。でもアタシのほうが、この姿で居られない。歳神のババアが、明日から春と決めたら消えちまうのさ」

「バ……お母さん?」


 雲が消える。終わった季節の化身は、居なくなってしまう。

 想像よりも過酷だった。どこかに雲たちの家があって、季節ごとに帰らなければいけないとか、そういうことだと思ったのに。

 しかしそれを決めるのは、雲の母と聞いてしまった。どうにか残れないのか、我がままを言う気持ちが萎む。


「また、帰ってこられるの?」

「次の冬にはね。新しいアタシとも、仲良くしてやっとくれ」

「新しいって」

「アタシら姉妹は、毎年新しく生まれ変わるんだ。そのとき真っさらなアタシの胸に、菫のことも残らないってことになる」


 悲鳴も出なかった。あまりにあまりで、喉が引き付けを起こしたように震える。


「そんな顔するんじゃないよ。たぶんまだ、五日くらいは居るからさ」

「そんな。たった、たった五日?」


 おそらくそれも、確実ではないのだろう。春が来たらとは、なんとも曖昧な基準だ。歳神の匙加減と言おうか、気分次第でしかない。


「ああ、たった五日だ。良かったよ」

「良かった? なにが良かったの。いいことなんか無いよ」

「まあまあ。山神の妻になるなら、あんたも忙しい。五日だけでも、あって良かったってことさ」


 フフッと笑う顔に、力が無い。夕餉の支度を終えてくる、と雲は会話を打ち切った。五日間でも菫を手伝えるのが良かったなどと、嘘でなかろうが本心でもあるまいに。

 立ち去ろうとする背中へ「そんなの無いよ」と。裾を掴んで止めたくとも、そうするだけの力が菫の手にはない。


 ――ううん。わたしには無理でも、狗狼なら。

 さあっと、光が射したように思いついた。ずっと一緒には居られぬとしても、せめて忘れられるという残酷な未来を躱せるかも。


「ねえ! 狗狼に記憶を持っていてもらうのはどう? 次の冬、雲にまた会えたら、戻してもらえばいいよ」


 咄嗟にしては名案だ。だというのに、雲は見返ることなく厨へ去る。

 見えなくなった背中から目を逸らし、菫は狗狼を振り返る。気持ちを確かめ合ったばかりの男に、「教えて」と詰め寄った。


「新妻が我より他の者を気にするとは、なかなか複雑な心持ちだ」

「嘘は吐かない約束でしょう? ごまかさないで、教えて」

「嘘ではないが、歳神は我より格上でな。事実でも、責めるようなことは言いにくい。しかし他ならぬ妻の願いだ、話そう」


 そう前置き、彼は腕を広げた。膝の上へ座れと、目で示す。


「わたし、そんな子どもじゃない」

「菫の美しい顔で睨まれては、箔が付きすぎる。我が怯えぬよう、頼まれてくれ」


 真に受けもしないが、そこまで言われては嫌だと言えない。あぐらの膝に、おそるおそる尻を乗せた。


「とは言え、雲の言葉は全て本当だ。付け加えるとすれば、良かったと言った意味くらいか」

「うん」


 間髪入れず答えると、狗狼はぐいと菫を引き寄せた。僅かにあった距離が無くなり、頬と頬が触れ合う。

 こんなときになにを。甘く語り合う気分になど、なれるわけがない。「やめて」と言いかけ、逞しい腕から抜け出そうともした。

 だが、拘束は解かれない。


「そんなに酷い話なの」

「菫には、な。雲は自身を、そういうものと納得している。その上で物申せる上手い口を、我は持ち合わせん」


 ごくりと唾を飲み込み、菫は頷く。なにを聞いても、まずは終いまで聞く。神やその一族には、人間に分からぬ決まりがあるに違いない。


「我は人間の記憶を奪い、蝋燭として置く。歳神の娘は、それを他の者に仮の体験として見せることが出来る」

「見せてもらったよ。都の宴や、わたし自身のこと」


 狗狼の言葉に同意しただけなのに、彼は菫の頭を撫でた。首や耳も、小さな犬や猫を愛でるように。


「もう一つ。我が記憶を戻すのにも、雲の力が必要だ。ゆえに奪った記憶を菫に戻すのは、あと数日が期限だった」


 次の冬、雲が戻ってきても。その前に雲の姉妹が、春や夏にやって来ても、この冬に奪われた記憶は戻せない。

 だから間に合って「良かった」と、雲は言ったのだ。


「でもそれは」


 納得しているのなら、雲が悲しそうにした理由がつかない。

 菫を忘れてしまうのを、彼女も寂しく思ってくれている。それは確信していたが、他にもあるような気がした。


「あっ……」


 そうか、と思い当たる。雲はこの冬のことを、次の冬には覚えていない。すると今、前の冬のことも覚えていない。


「狗狼、お願いがあるの」

「妻の願いだ、何度でも叶えよう。我に出来ることなら良いのだがな」


 せめて残りの日数を、楽しく過ごしてもらいたい。もしも叶うなら、忘れてほしくない。

 菫は渾身の力を以て、狗狼を抱きしめた。

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