第53話:告白

「どうしてくれるの」


 記憶の波は、夜風との出会いまで遡った。流れ込んだ記憶が、胸の中で激しく渦を巻き続けた。

 溺れそうに、ようやく息を継いで吐き出した声は、低く篭もる。


「ど、どうした。どこか悪くでもしたか?」


 戻ってきた祠の景色。薄暗く感じるのは、狗狼と雲が顔を覗き込んでいるから。敷物へ座っていたはずが、床に寝転んでいる。灯りを白く撥ね返す漆喰の壁。大きな祠を支える、いかにも太い梁が目に映った。


 ――なんだか懐かしい。

 視界は狭いが、四角く囲う物は無い。ふた月ほども前には知らなかった、温かいこの場所を、手放したくないと心から思う。


「どうしたもこうしたも……ううん、大丈夫。平気」


 言いつつ、一応は己の身体に不調を問うた。しかしやはり、痛みなどは見つからなかった。唯一、頬に濡れた跡がある。だが今の菫には、問題無いと自信を持って言える。


「お、おい、無理をするな。雲、菫は大丈夫か?」

「やかましいよ、あんたが狼狽えてどうするのさ。当人が平気だって言ってんだ、見るからに血色もいいしね」


 上体を起こすと、狗狼は手を差し伸べるか迷う素振りをした。菫と雲と二人の顔を見比べ、あたふたと動揺を隠さない。


「狗狼、大丈夫。わたしずっと、あなたのことを知っていたの。なのに忘れてて、驚いたの」


 そんな様子で、守ってくれるとは本当だろうか。そう感じなくもないが、狗狼はやるべきときにはやる男だ。いや、狗神だ。


「わたし、知ってる。狗狼よりも頼れる誰かなんて、どこにも居ない」


 陽だまりの土の匂いを、胸いっぱいに吸い込む。大きな背中をぎゅっと抱きしめようとしたが、回りきらない。

 大樹に張り付く甲虫かぶとむしのようだ、と。思わず浮かべた想像は、無かったことにして。


「ねえ、どうして? どうしてわたしの、この気持ちを消したの」

「この気持ちと言われても、我には――いや、嘘を吐かぬ約束だった」


 臆病で嘘吐きな狗神は、雲に睨まれて発言を変えた。それでも、今のは見なかったことにしてあげようと評価が甘くなる。


「言った通り、我も神の端くれだ。たった一人を特別に扱うは、主上の怒りに触れる」

「でもそれなら、夜風は?」


 御覚山に棲む狼の中でも、夜風だけが特別だった。他の同族たちに逆らうことをさせず、菫にだけは真の友として接してくれた。

 あれが狗狼と無関係とは、到底考えられない。


「主上が言ってくださったのだ。我を殺したあの男。その子孫と、直接に関わることは許されない。しかし我の眷属を近くへ置き、見守らすことは許そうと」


 男の一族に櫛を与え、成り行きを狗狼の目に映す。そうすれば当然に、危うい場面を傍観さすことにもなる。

 神を取り纏める身で、拷問のような行いをするわけにいかない。その為に主上の認めた措置が、狼を友として置くことと狗狼は言った。


「菫だけを特別に扱ってはいない。狼は常に一頭だけ、次代に残る子どもを守らせた。しかし誰も、狼を怖れてしまう。お前だけだ、名を付け、友としたのはな」

「だから、特別と思ってくれたの?」


 たしかにそうだ。取り戻した記憶に、夜風と出逢ったときもあった。あれはきっと、五、六歳のころ。母に着いて畑の周りで遊んでいて、深い藪に黒い塊を見つけた。

 闇に光る黄金を、怖ろしいとは思わない。父の強さと母の優しさを、同時にそこへ見た。だからすぐに、全身で飛び込んでいけた。


「そうだ」

「そうなんだ」


 夜風とよく似た瞳が、菫を見下ろす。幼かったあの時と違い、今は不安が無いと言えば嘘になる。

 胸に抱えるものが、増えすぎた。けれどもそのどれかを消したいか問われれば、直ちに答えられる。


 ――絶対に消さない、どれも大切だから。一つでも消せば、また愛するものを失くしてしまうから。


「わたし、狗狼が好きなの」

「……ああ」


 もう二度と、忘れるのは嫌だ。その為に、はっきりと言わねばなるまい。形あるものもそうでないものも、永遠など無いのだから。

 せめて手の届くうちに、どれだけ愛しているか伝えよう。忘れてしまえば、後悔さえも出来ない。

 菫は誰よりも。記憶を奪う、狗神自身よりも。きっと強く、そのことを知った。


「お願い、もう消さないで。ずっと傍へ置いてほしいの」

「ああ」


 困ったという素振りで、狗狼は顔を手で擦る。嫌がられてはいないはずだ。胸の動悸が菫よりも大きくなったし、体温も上がった気がする。


「狗狼、金玉付いてんだろ」

「お前は恥じらいというものをだな」


 雲の催促には、すぐに答えた。彼女なら仕方がないし、菫の為に言ってくれているのでもある。

 しかしなんだか、寂しく思う。


「やっぱり雲のほうが頼りになるね」

「アタシもそう思うよ」

「おっ、おいおい」


 慌てた狗狼の腕が、菫の細い身体を抱きしめる。雲の目から隠すように、太い腕の中へ埋もれた。


「この祠に、人間を永住させるわけにはいかん。しかし我の妻であれば、例外となろう。菫、お前が良ければそうしてくれるか?」

「妻――わたしを置いてくれるのね。うん、いいよ。いいに決まってるんだよ」


 涙が溢れそうで、瞼を閉じた。そんな物を見せれば、狗狼にまた心配をさせてしまう。

 そのとき。震えて堪える菫の唇に、柔らかい感触があった。少しごわごわともした、弾力に富む毛の塊。

 はっと息を呑むと、それはすぐに離れた。


「今、なにかした?」


 見つめると狗狼は目を逸らし、「いや」とごまかしかける。けれどもすぐ、もう一度同じ言葉で否定した。


「せ、接吻をだな」

「うん、夫婦めおとだものね」


 菫は笑う。胸の奥から自然と湧き上がる嬉しさに。

 まだぎこちなくはあったかもしれない。しかしきっと、この先また上手く出来るようになる。

 たしかな予感が、またもう少し上手く笑わせた。


「やれやれ、ようやくだね。いつまでもそうやって、甲虫みたいにくっついてな」


 もう一度してくれないかと思ったが、雲の呆れ声で狗狼は束縛を解いた。狗狼の態度には神の決まりごとがあったのだろうが、彼の照れ屋な性格も大きいらしい。


「雲もありがとう」


 とは言え菫も、恥ずかしさはある。雲になら、なんでも知ってほしくあるのと同時にだ。


「いや、アタシはなにも。どうなることか、冷や冷やはしたよ。アタシがここに居られるのも、あと何日かだからね」

「えっ?」


 雲が、祠を去る。寝耳に水の話に、菫は耳を疑った。

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