第52話:取り戻した想い

「狗狼、顔」


 短い雲の指摘に、「おっと」と緩んだ顎が閉じられる。


「では記憶を戻す。しかし我にも想像のつかぬほど、菫にはつらいもののはず。心を潰すやもしれんが、覚悟はいいか」


 世にも珍しい笑う狗が、きりと表情を引き締めた。先に記憶を奪おうとした、無情の手が額に伸びる。

 脅しめいているが、脅しではなかろう。母を死なせたときの菫は、傍から見ても危うかった。


 縦と横と。首をどちらに振るか、考えるまでもない。けれどもよくよく、目を閉じて選ぶ。

 東谷へ戻り、忘れた進ノ助と都合を付ける選択はあるか。

 ――無いよ。どんな顔をして、あの小屋へ住めるっていうの。


 ならば狗狼の薦めた東宮との結婚に、希望は無いか。

 ――希望はあるよ。椿彦なら、きっとわたしを守ってくれる。でもあなたが一番じゃない、って。隠したままで居るの?


 たった、二つ。それ以外にどうしてもと捻り出すなら、どこにも居たくない。決まった住処を持たず、その時ごと見たくなった物を見に行くだろう。

 次に出逢う場所は、この祠よりいい処に違いない。そんな夢でも見続けねば、生きる目的を見失いそうだ。


 そう思うと、椿彦の贈ってくれた冬菫は強いなと感じる。いやあれだけでなく、根を下ろした場所から動けぬ草木たちの、なんと凛然としたことか。


「うん、いいよ。わたし、知ってしまったから。冬が一番好きだけど、一人で咲けるほど強くないもの」


 答えるまで、しばらくの間が過ぎた。しかし再び目を開けば、腕を突き出したままの狗狼が待っていてくれる。


「承知」


 ゆっくりと、毛むくじゃらの指が触れた。ほんのり温かく、やがて接しているのも忘れそうな柔らかい感触で。


「我が菫を特別と考えたのでない。菫が我に、特別と思わせたのだ。ゆえに案ずるな、我が守る」

「くろ、う……」


 記憶を戻す合図として、激励のつもりか。また気になることを、どうしてこの瞬間に言うのだろう。苦情を言いたかったが、うまく舌が回らない。それだけでなく、目も眩んでいった。視界が色とりどりに乱れ、そこかしこに見たような見ぬような景色が浮かぶ。

 斃れた夜風、朱に汚れた母の顔。雪に塗れ、菫と遊ぶ夜風。畑仕事に精を出す母。


 ――ああ、ああ……!

 冬も、秋も、夏も、春も、ずっとだ。ずっと二人は、菫と共に在った。一つひとつ。そこに感じた音や匂い、そして感情が蘇る。

 夜風はおいしい茸を探すのが上手かった。

 母は採れた野菜を、必ず最初に菫の口へ入れた。

 夏の水浴びも、春の山菜採りも。いつも、いつも、楽しかった。


 二人を失った哀しみと、過去の歓び。本来あり得ぬことだが、結果として同時に味わったのは良かったかもしれない。苦しさと嬉しさが互いを埋め合って、胸の中の落ち着くべき場所へ、しかと降りゆく。

 振り返れば、涙を禁じ得ない。だがこれで、大切に持っておくことが出来る。


 ――でも、これはなに?

 夜風と母との想い出を、両手でしっかりと受け止め続けた。いや現実に身体を動かすわけでなく、受け入れる感覚として。その脇に、すり抜けようとする微かな気配。見極めようとしても、正面に現れることがない。

 正体の知れぬそれをようやく一つ、指先へ引っ掛けた。こそこそと素早いが、姿を見せるのは頻繁だ。


 ――これは狗狼? わたし、ずっと狗狼を知っているの?

 その時その場所に居る菫は、気付いていない。けれども近くから、遠くから、狗狼は見守っていた。


 ――そうか、いつも見てるって言ってたよね。

 女の体力で、どうしても男たちに着いていけないことはある。東谷の師匠たちが無理をしろと言ったのでない、菫が大丈夫と我を張ったのだ。

 深い沢へ落ちかけたとき、宙で受け止めてくれた狗狼。茂みをほんの一歩、踏み間違えて崖を滑った。受け止め、底まで下ろしてくれたのも狗狼。

 仕留め損ねた猪、手負いの鹿。菫が自分で対処は出来たかもしれない。怪我をしていたかもしれない。いつも、ということも無く。菫の危機には必ず現れる。


 ――あ、父さん……。

 初めて会ったのは、いつなのだろう。そう考えるうち、生きていたころの父が見えた。

 冬の山中。菫はやはり、夜風と追いかけっこを。父は憎き狼を仕留めようと、藪に潜んでいるようだ。構えた弓が、慎重に狙い定める。背の高い草に阻まれ、父からは菫が見えない。放たれた矢は夜風を目掛けたが、その前に娘を貫くはずだった。


「菫!」


 立ち上がった父は、ようやく菫の存在に気付く。しかしどうすることも出来ず、ただ叫ぶのみ。

 その矢を弾いたのは、狗狼。異形に驚いた父は後退り、岩から谷へ落ちた。呼ばれた父を探す、菫を抱き止めたのも狗狼。


 ――狗狼、まだ嘘を隠してたのね。

 父の死は、とうの昔に受け止めた。これはどう見ても、誰が悪いでもない出来事だ。だから良い。良くないのは、菫がこんなにも昔から狗狼を知っていたこと。

 父の一件以降、菫は幾度も狗狼の姿を見た。それが祠に飾られた、山神の絵とそっくりとも知った。


 もっと。もっと。会いたくとも会えず、会えたとしても言葉少なに立ち去る。

 もっと声を聞きたい。姿を見ていたい。どんな温もりがその手にあるのか、どんな気持ちで守ってくれるのか。

 心の奥底深くまで根ざした想いを、菫は取り戻した。ただしそれは、汲んでも汲んでも汲みきれぬ、膨大な感情の海だ。

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