第51話:本当の願い

「その問いは……」

「お願い、答えて」


 左に泳いだ目が、上へ。もごもごと声を発しながら、下に向く。

 なんでも答えると言ったのに、また嘘かと。咎めてしまう自分を、菫は嫌悪した。


 ――狗狼のせいじゃない。悪いのは、人を殺したわたし。狗狼はわたしを守ろうとしてくれたはず。

 事実を信じようと唱えても、ほんの僅かの朧な疑いが勝ってしまう。口から出るのはまた、彼を責める言葉。


「どうして答えてくれないの? わたしが生け贄にされるのを、狗狼は分かってたよね。夜風を殺したのが母さんでも、娘のわたしを捧げるしかないもの。山神さまの怒りを買わない為に」


 縮こまった肩の間で、肯定に首が動く。

 知らなかった、気付かなかったと。嘘でも良いから、言ってほしかった。


「じゃあ、どうして? どうせ祠へ連れるなら、わたしはあんな怖い思いをしなくて済んだのに」


 ――違う、こんなこと言いたくない。違うの。

 取り囲まれた夜を思い出し、身体じゅうが強張って震える。東谷の面々がそうするしかなかったと知っても、「ならいいや」と思えるはずもない。


「我は、狗神。御覚を守れと主上に命じられた、ただの狗だ。一個に対し、特別な行いは許されん」

「それなら、死なせてくれれば良かった。あのまま長持で、凍え死なせてくれれば良かった」


 その前に、母を死なせ自我を失ったまま果てたかもしれない。

 どちらにしても、菫は死んでいたのだ。一個人に関われないのなら、放ってくれればいいものを。


「それがお前の希望なのか?」

「わたしの希望? そんなの、そんなの無いよ。だってわたし、人を殺したんだよ? あの狼のことも、きっと大好きだった。そんなの、東宮の妻になんてなれないじゃない」


 母のこと、夜風のことを、人ごととしてしか話せない。たぶんそうだった、と借り物の言葉でしか言えない。

 愛する者のことをそんな風にしか表せぬ自分を、とんでもない悪人と思う。


「そうだな……如月親王の妻となる。そうすれば菫は、幸せになれる。やはりそれしかない」


 狗狼には分からないのか。いや、そんなはずはない。彼は今も、嘘を吐き続けている。でなければ、あんな歌を詠みはしない。

 言い重ねようとする菫に、狗狼は手を伸ばした。少し足らず、膝立ちになって。

 

「なにをするの」

「お前の記憶を消す。この祠での出来事を忘れれば、後は東宮がどうとでもしよう」

「く、狗狼や雲のことを?」


 それはつまり、東宮とのやりとりも失わすということだ。それでもあちらは、菫を好いてくれている。だから嫁がせてさえしまえば、椿彦がどうにかすると。この上なく乱暴だが、たしかに丸く収まりはするだろう。

 しかし――


「違う違う!」

「どうした」

「違うよ、わたしは椿彦と結婚なんてしたくない!」


 情けなくて、泣きたかった。だのにこんな時に限って、涙は涸れて滲む気配すらない。 

 せめて強行に否定を示そうと、力の限りかぶりを振った。髪の振り乱れるのも構わず、纏めていた色紙が千切れ飛んだ。


「東宮はいい人だよ。結婚すれば、妻になれて良かったって。いつか惚れるだろうね。おいしい物を食べさせてくれて。きれいな衣も着させてくれて。この祠と変わりない暮らしをさせてくれるのかもしれない」


 椿彦のことを、好きだと思う。が、それはあくまで人としてだ。共に暮らせば三日で慣れるとも聞くし、あの優しい東宮ならなおさらだ。


「でもね、違うんだよ。わたしが椿彦の妻になるって言ったのは、狗狼と雲に心配をかけない為なんだよ」

「我らを?」


「そうだよ。それなのに、あなたたちを忘れちゃ意味が無いじゃない。これ以上わたしから奪わないで。わたしの大切なものをとらないで」


 お願い。と付け加えたのは、声にならない。

 心に秘め、言わないと決めたのを口にしてしまった。けれども後悔はなく、ようやく言えたと心弛びさえする。


「我らを――」

「そうだよ、おかしい? こんなに楽しくて暖かい場所から、なんでみんな出て行けるの? わたし、ここへ居たいよ。だって狗狼も雲も、大好きになっちゃったもの」


 誰も彼も。生け贄に捧げられた娘らは、この祠からまた何処かへ旅立っていった。おそらくそれが、菫を特別扱いしたことのなによりの証左だ。


「いや、おかしくはない。しかし、我らをか。それはどうにも、おかしなことがあるものよ」


 おかしいのは、狗狼の言い分だ。悩ませすぎて、熱でも出したろうか。それとも菫が混乱して、理解出来ないだけか。

 どう声をかけていいやら、しばらく眺めた。すると彼も、深くなにか考え込む様子があった。


「……冬雲」


 やがて発せられたのは、雲を呼ぶ声。いつの間にか縮こまった背が伸び、凛々しいいつもの狗狼に戻っている。

 菫の背中で、すうっと戸の開く気配。しかし今の狗狼からは、目を逸らすことが出来ない。


「お呼びでございましょうや?」

「聞いた通りだ。たしかに記憶を奪ったはずだが、もはや我も覚悟を決めねばならん」


 祠の主。山神として話すのには、冬雲も付き人として敬意を払う。その狗狼が、覚悟を決めると言った。


 ――なんの?

 まさか菫の我がままで、立場を危うくでもするのか。神々の決めごとなど知らぬ身に、背すじの凍り付く心地がする。


「そのようで。そも私には、預かり知らぬこと。けじめさえあれば、主上も咎めだてせぬでしょうとしか申せませぬ」

「そうだな。けじめを持って、我の勝手を通すとしよう」


 話の見えぬ菫を置き去りに、二人は納得し合う。そうしてすぐに。狗狼は菫を見下ろし、告げる。


「菫、お前の希望は分かった。しかしそうなると、我の奪った記憶を戻さねばならん。つらい感情をも戻すことになるが、それでも良いか?」

「戻さねばって、どうして?」


 記憶を戻せば、母や夜風の死を身近なものと感じてしまう。いやそれは、いつか戻すべきだろうが。なぜ今でなくてはいけないのか。


「なんとも説明はしかねる。我を信じてくれるなら、戻せば分かると言えるのだが」

「あなたみたいな嘘吐きを?」

「耳が痛い」


 まだまだ聞いていないことがある。ゆえに隠しごとも多いはず。ただし菫に重要なのは、どうも雲行きが変わったことだ。狗狼たちの話は、菫を祠に残す算段に聞こえた。

 打算と言ってしまえばそうだ。しかしそんな後ろ指はどうでもいい。あれこれと迷わすしがらみを無視し、菫は頷く。


「分かった。でも一つ、お願いしていい?」

「なんだ」

「もう嘘は吐かないで。わたしが悲しむ嘘だけは」


 一拍の間。

 願いを聞いた狗狼は、笑った。狼の顔面を豊かに動かし、菫にも勘違いでないと分かるほどに。

 満面の笑みで答える。


「間違いなく、約束しよう」

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