第45話:椿彦の懸念

「……あのね」


 なにから、どう話せばいいだろう。少し考え、出てきた言葉は、親しい友人に向けるようなものだった。

 飛鳥の皇子に失礼だ。と、思っても止まらない。


「わたし、生け贄にされたの。選ばれた理由は分からないけど、山神さまへ、東谷の人たちに。とても怖かった。今も目を瞑ると、誰かに捕まりそうで怖ろしいの。でも御覚山の狗神は、わたしを助けてくれたの」

「生け贄などとそんな……」


 ひと言を繰り返し、椿彦は絶句した。心配そうにしてくれた目にも、些かの不快が混じる。それはどこへ向けられた感情なのか。かぶりを振って、表情から追い出された。


「いや、ごまかすのはよそう。私は知っている。この土地だけでなく、あちこちでそのような事実はある。菫にだけは及ばないなどと、あり得ぬことだ」


 続けざま「申しわけない」と、額が敷物へ着く。菫には椿彦がなにを言っているやら分からず、驚く以外に出来ることがない。


「つ、椿彦。いえ親王殿下。そんなこと、やめてください。あなたが悪いなんて、なにもないでしょう?」

「私は次の時代の飛鳥を治めねばならぬ身だ。それがなぜ、好いたおなごを危うい土地へ居させて良いものか」

「そんなことを言われても」


 恥ずかしげもなく、好いたおなごとは。狩り遊びの日から幾日か、菫もこの男を脳裏に浮かべ続けた。椿彦も同じ有り様で居たと思うと、赤面を禁じ得ない。

 しかし東谷が危うい土地とは。住んでいた身にも、束縛される瞬間まで感じなかった。そこまで言ってしまうと、都のほかはどこも同じに思う。


「すまない。これも結局、言いわけに過ぎないな。無事と言っては心外であろうが、見たところ怪我などは残っていないようだ。それは良かった」

「ええ。おかげさまで」


 元に直り、椿彦はまた湯呑みを取る。しかし最初に飲み干したので、空だ。照れ笑いを拵えると、自ら急須の茶を注ぐ。先に菫のを、次に自身のを。


「ああ、構わない。後宮に入ってはそうも行かないが、今は対等と思ってくれていい。私も菫も、結婚する相手の品定めに来た身だからね」


 下の者の役目をさせてしまい、菫は腰を浮かせた。その肩をそっと手で押さえ、椿彦は横に首を振る。品定めとは、ここまでに聞いた言葉の数々とそぐわないけれども。


 ――あ、そうか。藤姫はふられるはずだったんだ。

 賀茂宮からの縁談であれば、向こうから断られることはない。そう、狗狼は自信を持って言った。本当に嘘ばかりだと、ほんの僅か苦笑が漏れる。


「おお、笑った」

「え?」

「笑ったのだ。なんとも悲しげな、ずっと両手の内へ収めておきたいような儚さだが。私と出会ったとき、いつも菫は苦しそうな顔をしている。それを笑わすまでが、ひと苦労なのだ」


 いつも己がどんな顔をしているか、たしかめながら生きてはいない。しかし先だっては、大納言に無理を言われた直後。さもありなん、といったところか。

 ただすぐに、自身も笑った椿彦が表情を引き締める。


「しかし。なにがあったか、私の問うたのはおそらく違う」

「生け贄にされたことではないと? でも他にはなにも」


 一生を終えたような。つまりは一度、死んだように見える。菫を指して、たしかそんな風に椿彦は言った。

 ならば進ノ助の件か。とも思ったが、結局両者はひと続きの出来事だろう。こうもはっきり違うと言うなら、そちらも違うとならないか。なにより口にするのが恥ずかしく、言わぬ理由ばかりが思い浮かぶ。


「なにやら思い当たっているね? どうか教えてほしい。言い淀むようなことならば、すぐに忘れると約束しよう。しかし菫。妻になる君の懸念は、全て消してやりたい。それには一度、聞くほかにないのだ」


 下世話に聞く人でない。もう十分に人となりを見せてくれた椿彦が、ここまで言うのだ。口を噤む理由は無くなった。もちろん、たどたどしくはなるだろうが。


「東谷の、進ノ助」

「進ノ助と言うと。ああ、あのときの男の子か」

「幼馴染で。わたしのこと、ずっと好きだったって。それで無理やり……」


 記憶力も抜群らしい。思い出す暇は、ほんの一瞬だった。その進ノ助になにをされたか、聞いてこめかみを震わせたのは、さらに短い。

 椿彦はかいてもいない汗を拭うように、目の周りを指でなぞる。そうして胸元から懐紙を取り出し、やはり汚れてもいない指先を拭いた。


「あ、あの。床に倒されたところで、助けてもらいました」

「助けが?」

「ええ。山神さまが助けてくれました」


 都合の良い話と疑っているのかもしれない。椿彦は深く考える風に、視線を懐紙へ落とした。数拍ほど両手でもてあそび、終いに折り目正しく二つに折って、袂へ隠す。


「そうか。それは私も、山神さまのところへ出向かねばならないね。しかしやはり違うように思う」

「ええ? これ以上は本当になにもありません」


 いったいなにを察していると言うのか。椿彦は菫の返事にも「ふむ」と納得いかぬ声を発する。


「いや菫の言い分は信用している。すると私の勘が間違っていたということで、なぜ違えたのか考えているんだよ」

「勘、ですか」

「うん。菫に無理を言わせたのだ、私も白状すると、君自身がなにかやらかしたと考えた」


 なるほどそれならば、菫の話したのは方向が反対だ。しかし意図は分かったものの、突飛な話には違いない。椿彦もそうと承知している様子で、すぐに言葉を続ける。


「人間誰しも、自分で思いもかけぬ行いをすることはある。正直に話してくれればどうにかなるものを、黙っていたが為に大ごとになる。私の住処では、そういう話に事欠かない」

「わたしが、そんな風に見えたの? いえ、見えたんですか」


 御所の人間模様がどういうものか、なんとなくの想像もつかない。だが以前に聞いたのと合わせれば、碌なものではないようだ。


「気を悪くさせて申しわけないが、そうだ。意図してではないだろうが、菫はなにか取り返しのつかぬようなことをした。だが私は、それもどうにかしてやりたいと思った。無理を言ったこと、君を想うが為と許してもらえればありがたい」

「いえそんな、許すなんて。そこまで言っていただいて、お礼を言わないと」


 この男が笑うと、雪も融けそうな暖かい風が吹く。清々しく頭を下げるものだから、菫も釣られて同じに倣う。この国の皇子は、ほうっと大きな息を吐いて笑った。今度は声を上げて。


「良かった。菫を妻にすること、まだ機会は失われていないらしい」

「ええと、あの」

「いやいや。焦らすことを言ったが、今はなにも答えないでほしい。私もこの場では、なんとも出来ない。今日も表向きは、大納言どのに付き添うただの椿彦だ」


 見透かした男だ。あまり口の回らない菫には、察しのいい椿彦との会話が心地いい。ここまではつらい記憶に関するものだったが、御所のことを面白おかしく話すのに聞き入ってしまった。


「――さて。名残惜しいが、今日はここまでのようだ」

「ええ、楽しいお話をありがとうございました」


 半刻ほども経ったろうか。どこからか鼓の音が通ると、椿彦が対面の終わりを告げた。かなり離れた辺りから、ざわざわと動き始める人々の気配も届き始める。


「この後は、詠み合いの運びだ。私も参加するが、菫は。いや藤姫はどうされるかな」

「拙いですが、練習してきました。一首くらいは参加しないと、わたしが何者かってことになるでしょう?」

「そうだな。そうしてもらえると助かる」


 先に立ち上がった椿彦は、腰を屈めて両手を差し出した。どうしたものか、きょとんと目を丸くした菫だったが、己も立とうとして理解する。


「はっはっ、無理をしないがいい。足が痺れているだろう」

「ほ、本当に。よくお分かりですね」


 片足ずつ、痺れの治まるのを待ってくれる。いつかも感じたことだが、菫の知る男どものほとんどには、あり得ぬことだ。


 ――こんな人が夫になるのは、悪くないのかも。

 なにも知らぬ東宮と結婚する決意はしていたけれど、不安の大きさが計り知れなかった。ここに来て、ようやく乗り越えられそうに思える。


「しかし練習とは熱心だね。どんなのを詠んだのかな」

「あっ。実は持っています」


 落ち着いた頃合いで、椿彦はまた問うた。目隠しの幕が不自然に揺れているのは、警固の男がそこへ居るからだろう。予定があるのに良いのか、不安に思いながらも質問を無下にはしない。


「へえ、海の話を覚えていたんだね」

「あっ……」


 うっかりしていた。椿彦を思い出しつつ詠んだ歌を、当人に見せてしまうとは。衣の朱が溶け出したように、手も頬も赤く染まる。


「ふふっ。ん、隅よりすみを――これは?」

「それは山神さまの」


 狗狼の歌を目にした椿彦は、笑みを強張らせる。

 いや勘違いかもしれない。まばたきをした菫の目には、もう柔らかな微笑みしか映らなかった。


「では菫、今日はこれで。また文など送ろう」


 警固を呼び、先に菫が幕から出される。東宮の妻になる為の今日は、どうやら成功に終わった。

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