第44話:寄せる想い

 見紛うことはない。都に住む貴族の子のくせに、菫にも優しい言葉をかけてくれた。くっきりと、椿の葉にも似た眼差し。これほどの美丈夫が、他に居るとも信じられない。


 あのたった一日が、五年も昔に思えた。だが誠実な言葉の数々は、僅かも衰えずに眩しく蘇る。

 まさかまた、会う日が来るとは。菫は扇を翳すことも忘れ、椿彦のもとへ駆け寄った。


「椿彦!」


 勢いまま、瓶子を挟んだ目の前に座る。袴や衣に絡んだ風が、些かに対面を打ち付けた。

 一瞬、瞼を閉じた椿彦は、いつも真っ直ぐな目をこちらへ向ける。


「はて、その名をどこで聞いたのかな。然る人からもらった、大切な呼び名だが」


 ――わたしが分からないんだ……。

 綻んだ口許は変わらない。しかし訝しむ温度を、たしかに感じた。


 人間が怖い。中でも、欲望を前面に顕す男が怖い。菫の胸の椿彦は、その反対に居る。ゆえに再会を喜んだのに。

 いや、だからこそかもしれない。狩り遊びで顔を合わせただけの女など、記憶する欲にさえ値しないのだろう。


 ――そうだよ。わたしは今、藤姫なんだから。東宮の妻になる為に来たんだもの。

 目的を思い出すと、疑問が浮かぶ。幕で囲われたこの空間には、如月親王なる人物が居るはずだ。だが見回しても、菫のほかは椿彦しか居ない。


「あの、畏れながら。親王殿下は――」

「私がそうです」

「あっ」


 同一人物という唯一の可能性に、ようやく辿り着いた。

 さあっと。顔が青褪めるのを、自身でも感じる。菫と椿彦の関係を抜きに考えたなら、ここまでの態度は失礼千万。相手が東宮で無くとも、なんだこの女はと憤慨されても致し方ない。


「申しわけございません……」


 半歩を後退り、平伏する。こんなことまで教えてくれた、雲に感謝せねばなるまい。

 ただし心配はかけてしまう。幕に入ってまだ幾ばくも経たぬというのに、東宮の奥方の座は遠退いた。と、菫は考えた。まだ許すも許さぬも、返答を待つことなく。


「すまない、もう一度顔を上げてもらえるだろうか」

「はあ……」


 自分なりに相当の覚悟をしてきたはずなのに、椿彦を見た途端に吹き飛んだ。なにをしているのやら、情けなくなってしまう。

 己への落胆と東宮への申しわけなさに、おずおずと頭を上げた。


「やはり」

「あの、わたしがなにか」

「見違えたよ。菫だろう? 遠吠岩に連れていってくれた」

「そ、そうです。やっぱり椿彦、いえ。親王殿下」


 やっと分かってもらえた。ほっとするよりも、余計に気落ちするほうが大きい。遅いと非難したいのでなく、自分の空回り加減の滑稽さにだ。


「また会いたいと思っていた。しかし賀茂宮ゆかりとは。いや、さておき嬉しい。よく来てくれたね」

「もったいないお言葉です」

「いやいや、今はよそう。いつもの菫に戻ってほしい」


 またいつでも頭を下げられるよう、両手は敷物へ着けたままにしていた。それも含め、楽にしろと椿彦は言う。

 本当にそれで良いのか判断に迷ったが、ゆっくりと背を伸ばした。


「繰り返しになるが、菫にはまた会いたいと思っていた。と言うか、ここで歌会を開くよう頼んだのは私なんだ。藤姫と会うのは良いが、あわよくば菫も来てはくれまいかとね」


 まさか同じ女性とは思わなかった。と、晴れの日のそよ風のような笑声を吹かせる。それこそまさか、当てつけではあるまい。


「しかし……なにがあった?」

「なにがと仰いますと?」


 緊張が抜けず、言葉遣いを戻せない。拘らぬ椿彦は、眉根を寄せて心配げな顔を作った。


「見違えたと言っただろう。以前に見た菫とは、まるで違う。この場で少しばかり、戻りはしたけれどね。妙な言い方になるが、まるで一生を終えてやり直しを生きているように見える」

「そんな」


 咄嗟に出た声は、否定でも肯定でもない。一面で真実を捉えられたことに驚いて、口が勝手に吐き出した言葉だ。

 表情を取り繕うことも間に合わなかった。きっと今、能面のごとく強張っているに違いない。


「そんな、正にその通りを言われては。逆に答えに困ります」

「なんと。賀茂宮とは神々に繋がる家と聞いているが、その関わりか。あ、いや。よほどのことだろうから、聞いて良ければだよ」


 菫の態度から察したらしく、言いたくなければ本当に言わなくて良いと椿彦は繰り返す。

 ならばその言葉に従い、語るべきでなかろう。狗狼や雲のことを言うな、と口止めされてもいないが、直接に関わらぬ誰かに話して良いと思えない。


「では、お言葉に甘えさせてください」

「うん、そうか」


 残念そうに。しかし椿彦は、そのひと言で頷いた。

 しばし、沈黙が続く。逸れることなく見つめる視線に堪えきれず、目を下へ向ける。

 するとそこには、急須があった。これで対話を終えるにしても、次の言葉を紡ぐきっかけは必要だ。茶を飲むことは、それに適う。


「あの。お茶をお注ぎします」

「あ、ああ。それはありがたい。ちょうど喉が渇いたところだよ」


 退った距離を戻り、急須を取る。それだけで茶の熱気が伝わった。どうやったものか、菫の来る直前に用意されたらしい。

 伏せられた小さな湯呑みを二つ並べ、途切れさすことなく均等に注ぐ。こうして好きなほうを相手に取らせ、自分が先に茶を飲むのが作法だ。


「どちらが良いですか?」

「こちらをいただこう」


 椿彦は左の湯呑みを持ち、すぐさま口へ運んだ。毒殺を防ぐ為の作法と、菫よりもよく知るはずの男が。


「あ、あの。順番が――」

「菫。前言を翻して悪いのだけど、やはり聞かせてほしい」


 まだ急須を持ったままの両手を、椿彦は握った。


「先も言ったが、わたしは菫に会いたいと思っていた。この縁談とは関わりなく、私の妻になってもらえまいかとね。だから知りたい、君になにがあったのか」


 激しい熱の籠る、力強い眼。だがいつかどこかで見たような、邪なものとは違う。菫の弱い心に、この頼みを断る力はない。

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