第41話:歌比べ

 それからの毎日が、それまでと特段に変わることはなかった。素より貴族の女房としての知識を身に着けようとしていたのだ。出来ることは反復と、積み重ねしかない。

 狗狼は言った。全く素養のない娘が、いきなり東宮の妻になった例も今までに無くはない。だから気負うなと。


 ――歌会の最初から最後まで、ずっと居るわけじゃないもの。数刻くらい、なんとでも出来るよ……きっと。


 歌会の場で気に入らなければ、それきりに出来る。それは裏を返せば、その場を乗り切ればほぼ確実に妻となれるということ。と、菫は理解した。

 そうして睦月も半ばを過ぎ、十六日のこと。三人向かい合っての朝餉を終えた後、熱い茶を飲みつつ狗狼は言う。


「今日は御所で、祝歌ほうりうたの宴がある」

「ほう、ほうり? それ、なに?」

「今年一年を祝福する為に、帝が歌を詠む。貴族の中でも位の高い者が集まって聞き、それに倣うのだ」


 御所の出来事は言葉が難しく、行事の名を聞いても意味が分からない。

 一度聞けば覚えるのだから、追々で知れば良い。と二人は言うが、耳慣れぬ言葉は三歩も歩けば忘れてしまう。


「ええと。今年は鹿を十頭捕まえるぞ、みたいなこと?」

「まあ、そうだ。昨年の反省でもいい。自分勝手に雪を降らせ過ぎたので今年は改める、などとな」


 横目にじとっとした視線を、狗狼は送る。その先に居た雲は、いかにもわざとらしく笑んで茶を啜った。


「好きに詠んでいけないのは難しそうだね」

「貴族同士の遊びで、歌比べというのもある。お題を決める者を置き、言われたその場で考えるのだ」

「わあ。そんなの、なにも出てこないよ」


 思い浮かんだ言葉を組み合わせ、自由に歌を詠むのは出来るようになった。もちろん、上手いかは二の次として。

 しかし詠む対象を決められてしまえば、使える言葉も限られてくる。それこそ都に居なければ知らぬようなことであれば、お手上げだ。


「まあまあ、あくまでお遊びさ。でも、慣れておくのもいいだろうねえ」

「うむ、我もそう思って言ったのだ。今日これからやってみるとしよう」

「えっ、ええ?」


 示し合わせてでもいたように、雲は膳を片付け始めた。湯呑みの茶も、淹れ直される。狗狼も自身の部屋へ戻り、すぐに短冊を持って戻った。

 戸惑う間に、菫の前には筆と硯。華やかな色紙いろがみの短冊が置かれた。


「じゃあ僭越ながら、アタシがお題を決めさせてもらおうかね」

「僭越だな」

「そうだねえ。やっぱり狗狼は、去年の反省にしようかね」


 はっきり言われても、雲にはどこ吹く風だ。動じぬ態度に、主のほうが「まあいい」と折れる。


「わたしも?」

「いや、菫にはそうだねえ。やってみたいことを聞いてみたいよ。今年じゃなく、いつかっていうのでもいい」

「うん、分かった」


 昨年の反省と言ったのは、狗狼への意趣返しらしい。同じお題であれば、途方に暮れていた。

 けれどもやってみたいことと言われても、それはそれですぐには思い付かない。短冊の空白が、果てなき平原に思えてくる。


「……うぅん。出来たけど」

「おや、早いね。狗狼もまだだよ」


 しばし唸っていると、急に浮かんだのだ。果てのない平原、から発想の転換があった。

 狗狼がまだと聞いたのには驚いた。考え込んでいる間に、きっと待たせたと思ったのに。


 正面に向かう彼は、じっと短冊を見つめていた。筆は硯に添えられ、手に触れてもいない。

 かなり表情を読み取れるようになってきたが、今はよく分からなかった。凛々しいのはいつもで、少し元気が無いようにも見える。

 おそらく思考に沈んでいる為にだろうが。


「うむ、待たせた」

「えっ?」


 ぼそり。ひと言があって、狗狼の手に筆が握られる。そのとき一瞬、上目遣いに視線の合った気がした。


 ――ああ、待たせたって言ったからか。

 筆その物に、意思があるように動く。短冊に元々潜んでいたように、濃い墨が浮かび上がる。

 一文字ずつ辿々しい菫とは比べるべくも無いが、そこになにが書いてあろうと、まず字面だけで美しい。


「では菫のからだ。詠んでくれ」

「うん。恥ずかしいね」


 四つの目が、じっと見つめる。菫の大切な、菫を大切にしてくれる目だ。

 だからこそ、下手だと思われたくはない。上手くはなくとも、頑張ったと褒めてほしい。


「音に聞く、遥けし西の、海原の。彼方に優し、神の住むらん」


 引っ掛かりもしない咳を二度払い、ひと言ずつ区切って詠んだ。言葉遣いを間違っていないか、誰かの物真似になっていないか。ゆっくりと読んでも、なんら変わらないけれど。


「遥か西に、広い海というところがあると聞いたけれど。その向こうにも、優しい神々が居るのでしょうか」


 解釈した雲に、勢いよく頷いた。どうやら間違っていなかったらしい、雲も頷いて返してくれる。


「行ってみたいのか?」

「ううん。そこまでは思ってなくて、でも海は見てみたい。向こうになにがあるのか、見えているのに見えないんでしょ?」


 海の話を最初に聞いたのは、椿彦にだ。それから雲からも。聞けば聞くほど不思議な場所で、想像も追い付かなくなっている。もしも叶うならば、自分の目で見てみたいと思う。


「いいね、機会があれば行ってみようよ」

「本当?」

「もちろんさ。そうだろ、狗狼?」


 話す素振りからして、雲は見たことがあるらしい。つまらないなどと彼女が言うはずもないが、肯定されたことが素直に嬉しい。


「ん? うむ、機会があればな」


 話を向けられた狗狼の反応が鈍かった。よそごとを考えていたからとか、そういう風でもなく。

 間違いなく聞いていたはずなのに、答えに迷ったように見えた。


「う、うん。そうなればいいなってだけだから。ええと、狗狼の番だよ」


 ――間違えた。

 なにをか見当も付かないが、狗狼に問うてはいけなかったのだ。誰もそんなことを言っていないと分かっていても、悔やむ気持ちが込み上げる。

 この祠を出て行く日まで、いい記憶だけを積み上げたいというのに。


「御覚の、隅よりすみを打ち眺む。世世よよあだなり、ひとり養へ」


 朗々と、淀みのない大河のような狗狼の声。しかし、いきなりだった。菫が順番を勧めたのはそうだが、「うむ」とか「では」とかありそうなものだ。

 その意味で、川は川でも嵐の前のようだ。不意に水嵩を増し、なにもかもを呑み込む。


「御覚山の隅々にまで、長い年月をずっと見守ってきた。しかし結局自分は無力で、一人安穏と暮らすに過ぎない」


 また雲が、解釈を教えてくれた。昨年のというより、これまでずっとを反省したものらしい。


「なんだい、随分と辛気臭いね。それに一人ってのはなにさ」

「我の反省だからな。功罪は全て、我一人に帰すのだ」


 何百年も土地を守ってきたのだ、後悔することも多々あっただろう。それを自分の手柄しか数えない狗狼でなくて良かった。とは思う。

 だが雲の言う通り、むしろ手柄など無かったように受け取れる歌だ。菫には、黙って頷けない。


「そんなことないよ。少なくともわたしは、狗狼に助けられたよ。凄く感謝してるし、どうにか恩返し出来ないかなってずっと考えてる」

「そうか。その言葉だけで、我には過ぎた恩だ。礼を言う」


 もうすっかりと冷めた茶を、狗狼は一気に呷った。そしてすぐに、「次は雲と菫の番だ」と話を変える。


 ――違うのに。どう言っても伝えきれないくらい、狗狼に感謝してるのに。

 拙い語彙が恨めしい。しかしまだ、幾らかの日は残っている。きっと伝えようと、この場は呑み込んだ。

 狗狼の書いた短冊を、そっと引き寄せて。

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